「隣に座る、その練習」
翌朝。
いつもより少しだけ早く家を出た。
まだ通学路には人が少なく、朝の空気はひんやりしている。
制服の上着のボタンを留めながら、ふと昨日の神宮寺の言葉を思い出した。
――練習したいことがあって。
(……なんだよ練習って)
勉強でも、生徒会関係でもない雰囲気だった。
気にならないと言えば嘘になる。
◇◇◇
教室に着くと、まだ誰もいなかった。
カーテン越しの朝日が机に斜めに差し込んでいる。
自分の席に荷物を置き、椅子に座ったところで——
「おはようございます」
静かな声。
振り向くと、神宮寺が教室の入口に立っていた。
いつもより少し早い時間、いつもより少しラフな表情。
「早いな」
「冬木くんこそ」
彼女は俺の隣の席に座り、鞄を足元に置いた。
その動作ひとつで、椅子が小さく軋む。
近い。
昨日も隣だったはずなのに、朝の静けさの中だと距離が妙に強調される。
◇◇◇
「……それで、練習ってなんだ」
沈黙に耐えきれず、俺から聞いた。
神宮寺は一度、視線を机に落とし、ゆっくり息を吸った。
「冬木くんは……誰かの隣に座るの、平気な人ですよね」
「は?」
「正確には、“距離”を気にしすぎない人、です」
なんだそれは。
否定も肯定もしづらい。
「別に……普通だと思うけどな」
「それが、私にはできなくて」
神宮寺は、机の端に指先を置いたまま動かない。
「私は……誰かの隣に座ると、すごく緊張するんです。
相手が誰でも、です」
意外だった。
あの堂々とした挨拶。
生徒会長の妹として、人前に立つ姿。
「……意外だな」
「よく言われます」
神宮寺は苦笑した。
「前に立つのは平気なんです。
大勢に“見られる”のも、慣れてます。
でも……一対一で、距離が近いと……」
そこで言葉が途切れた。
俺は、何も言わずに待った。
「……相手の呼吸とか、視線とか、些細なことが気になってしまって」
彼女は、自分の胸にそっと手を当てる。
「心臓が、うるさくなるんです」
その言葉に、胸の奥が静かに鳴った。
(……それで、練習?)
「だから……」
神宮寺は顔を上げ、真っ直ぐ俺を見た。
「冬木くんの隣で、慣れる練習をしたいと思いました」
「……俺でいいのか」
「はい」
迷いのない返事だった。
「冬木くんは……近くにいても、圧がないので」
「それ、褒めてんのか」
「褒めてます」
小さく、でもはっきり言う。
「それに……」
少しだけ声を落として続けた。
「ちゃんと、相手の様子を見て距離を取れる人なので」
……参ったな。
(なんでそんな的確に見てんだよ)
◇◇◇
二人並んで座ったまま、特に何かをするわけでもない。
ただ、同じ方向を向いて、同じ時間を過ごす。
秒針の音。
廊下を歩く先生の足音。
外から聞こえる鳥の声。
「……どうだ」
しばらくしてから聞いた。
「まだ、少し緊張します」
「そりゃそうだろ」
「でも……昨日よりは、楽です」
神宮寺は小さく笑った。
「隣に座っても、何も起きないんだって……頭では分かってるのに、
体が勝手に構えてしまってたみたいで」
「無理に慣れなくてもいいんじゃねぇの」
「……それでも」
彼女は少し考えてから言った。
「誰かとちゃんと並んで歩ける人でいたいんです」
その言葉は、妙に胸に残った。
(……俺と同じだな)
“一人でいるのが楽”と“誰とも並べない”は、違う。
それを俺は、最近ようやく理解し始めていた。
◇◇◇
教室の扉が開く音がして、三浦の声が響いた。
「おはよー……って、なんで二人してそんな静かな空気なんだよ!
朝から夫婦か!?」
「違ぇよ」
「違います」
ほぼ同時に返す。
三浦は目を丸くしてから、にやっと笑った。
「息ピッタリじゃん」
「お前、朝からうるせぇ」
その後、黒瀬、佐伯、影森と、少しずつクラスメイトが集まってくる。
教室はいつもの賑やかさを取り戻した。
影森が前の席から、そっと振り返る。
「……おはよう、冬木くん……神宮寺さん……」
「おはようございます」
神宮寺は穏やかに返した。
影森は、その様子を見て、少しだけ安心したように前を向いた。
◇◇◇
朝のホームルームが始まる直前。
神宮寺が小声で言った。
「……ありがとうございました」
「何がだ」
「練習に、付き合ってくれて」
「……別に、何もしてねぇけどな」
「それが、一番助かりました」
そう言って、彼女はほんの少しだけ距離を縮めて座り直した。
たった数センチ。
でも、それは彼女にとって大きな一歩だったんだろう。
心臓が、少しだけうるさくなる。
(……慣れる練習、してんのは俺も同じかもしれんな)
◇◇◇
その日の授業中。
神宮寺は時々、小さく俺に質問を投げてくる。
影森も、前を向いたまま小声で確認してくる。
俺はそれに答えるだけ。
特別なことはしていない。
それなのに、クラスの空気はどこか穏やかだった。
“怖い冬木”じゃなく、
“教えてくれる冬木”でもなく、
“一緒にいる冬木”。
そんな認識が、少しずつ根付いていくのを感じる。
◇◇◇
昼休み前、神宮寺がふと呟いた。
「……隣って、不思議ですね」
「何がだ」
「一番近いのに、一番無理をしなくていい距離な気がします」
その言葉に、俺は返事ができなかった。
もし返すなら、同じ言葉になってしまいそうだったから。
◇◇◇
この日を境に、
神宮寺は“隣に座ること”に、
影森は“声を出すこと”に、
俺は“誰かと並ぶこと”に——
それぞれ、ほんの一歩だけ慣れていく。
恋じゃない。
でも、確実に近づいている。




