「声をかけたのは誰でもよかった、はずだった」
土曜日。
珍しく朝から制服に袖を通し、家を出る。
図書室で勉強するため、じゃない。
いや正確にはそれが“建前”で、本音は——
(……楽しみ、なんだよな)
あの勉強会の空気が、妙に心地よかった。
クラスメイトが少しずつ膨らんでいく輪の中で、自分もちゃんと座れている感覚。
だから今日のことを妹たちに話したとき、「楽しそうやん」とニヤニヤされたのも否定できなかった。
『明日は友達と勉強か〜青春やな〜』
うるさい。だけど間違ってない。
◇◇◇
学校に着き、図書室の前へ行くと——すでに何人か来ていた。
「あ、冬木ー!」
三浦が満面の笑みで手を振る。
黒瀬もテキストを広げていて、佐伯もノートを開いていた。
“当たり前のメンバー”がそこにいる、それが妙に嬉しい。
そして向こうの窓際のテーブルには——神宮寺。
いつもの整った姿勢で参考書を開き、淡い表情で文字を追っていた。
その横顔を見た瞬間、胸の奥がわずかに波立つ。
「おはよう冬木くん」
「……ああ。おはよう」
昨日より自然に言えた。
◇◇◇
「全員そろった?」
黒瀬が人数を数え始めたとき——
ガラッ、と図書室の扉が開き、ひとりの少女が入ってきた。
肩までの黒髪、背は少し低い。
表情は柔らかいけど、どこか影のある雰囲気。
「えっと……ここ、勉強会してるって聞いたんだけど……」
声は控えめなのに、明確に届く。
「……誰から聞いた?」
三浦が聞くと、その少女は視線を泳がせて答えた。
「昨日、クラスの子が……。行ってみたら、って」
誰でも来ていい場なのは確かだ。
だから俺は、自然に言った。
「席、空いてるぞ」
少女は目を丸くした。
「……え、いいの?」
「ああ。来たいなら来い」
一拍置いて——嬉しそうに、でもどこか怯えたように席についた。
「ありがと……私、影森紗奈。よろしく」
影森。
その名字の通り、影のように存在感が薄い。
なのに言葉遣いは丁寧で、不思議と耳に残る。
(……悪い奴じゃなさそうだ)
勉強会はすぐ始まった。
いつも通り俺が説明して、神宮寺が補足して、黒瀬が要点を書き、三浦が騒ぎ、佐伯が丁寧にノートを取り、影森は——
静かに、ひたすら聞いていた。
ノートは驚くほど綺麗。
字も整っていて、線も歪まない。
だが質問はひとつもない。
分からないところがあるのに、聞く勇気がないタイプだとすぐに分かった。
(……妹のマリアと似てる)
だから説明をひと段落して黒板を消す前に、さりげなく話しかけた。
「影森、ここまでは大丈夫か?」
ビクッと肩が跳ねた。
全員の視線が向かってないのに、怯え方が極端すぎる。
「……っ、だ、大丈夫……です」
声は震えているのに、ノートの字は乱れていない。
(大丈夫じゃねぇな)
だから、逃げ道を与える。
「分からんとこ、あとで個別に教える」
「え……」
影森の視線が揺れる。
それが拒否でも戸惑いでもなく、ただ安心した色へ変わるのが見えた。
「う、うん……ありがとう……」
その小さな声だけで十分だった。
(質問できない奴ほど、置いていかれやすいからな)
あの頃のマリアと同じだからこそ、放っておけなかった。
◇◇◇
二時間の勉強会はあっという間に終わった。
「今日も助かったわーほんと!」
「またやろうぜ!」
「理解進んだ気がする……!」
それぞれが笑いながら帰り支度を始め、グループは自然に解散へ向かっていく。
神宮寺と黒瀬が職員室へプリントを返しに行き、三浦と佐伯がコンビニへ向かうという。
自然な流れで、影森と俺の二人だけが図書室に残った。
「……あの、その、冬木くん」
静かな声。でも震えてはいない。
「さっき……“あとで個別に教える”って言ってくれたの、ほんとに……?」
「ああ。嘘つく理由ねぇだろ」
影森は小さく笑った。
嬉しいというより、“慣れていないのにどう笑えばいいか分からない”笑顔。
「数学……ずっと苦手で……。
質問すると、クラスの子に笑われることが多くて……だから、質問できなくて……」
(……なるほどな)
質問できないから成績が落ちて、成績が落ちるからもっと聞きにくくなる。
悪循環。
「まあ、分からねぇのは悪いことじゃねぇぞ。
分からないまま置いとくのが一番悪いだけだ」
影森は、しばらくじっと俺を見ていた。
「……誰でもよかったの。質問できる相手なら、誰でもよかった。
教えてくれそうなら、それでよかったの。……最初は」
言い方が気になった。
「最初は?」
「でも……今日の説明、すごく分かりやすかった。
“怒られない”とか“怖くない”とかじゃなくて……ちゃんと、理解できた」
その目は、弱々しいのに、芯だけは確かだった。
「冬木くんなら……ちゃんと見てくれるって、思ったから」
不思議な感覚だった。
褒められてるのに、重くない。
依存じゃなくて、ただ信頼。
距離の取り方が難しい相手じゃなく、素直に「助けたい」と思える相手。
「……じゃあ教えるか」
それしか言えなかった。
影森は小さく一礼して、席に座った。
「よろしくお願いします」
机を挟んで向き合いながら、ノートを広げる。
図書室の時計の針が静かに進む中、質問と解説を重ねていく。
やっぱり字が綺麗。
理解力も悪くない。
ただ「分からないと言えない」だけ。
そんな単純な弱点に気づくのは、俺の得意分野だ。
(……昔のマリアと、似てる)
だから放っておけない。
◇◇◇
ようやく一段落したころ、影森がそっとペンを置いた。
「……冬木くん」
「ん」
「“ありがとう”って言葉しか言えないのが、すごく悔しい」
その言葉は謝罪じゃない。
劣等感でもない。
“追いつきたい気持ち”の重さだった。
「……いいんじゃねぇの。悔しいって思えるだけ、お前は強いぞ」
影森は目を見開いた。
ゆっくりと、噛みしめるように微笑む。
「……そっか。そう、だね」
たぶん、初めて自己肯定の形で笑ったんだと思う。
「じゃあ、テストで結果出してみせる。その時は……自分から堂々と“ありがとう”って言う」
有言実行を前提とした、宣言の声。
「期待してる」
「うん」
心の中で、静かに火がつくのが分かった。
この瞬間だった——
影森紗奈は、俺の人生における“重要人物”の一人に変わった。
恋ではない。
依存でもない。
ただまっすぐ努力できる、仲間候補。
友達、になるのかどうかはまだ分からない。
でも——きっとこの子も“孤独の輪”から救われる日が来る。
俺がそういう日を迎えたみたいに。
◇◇◇
図書室を出ると、夕日が窓を赤く染めていた。
階段を降りた先で、神宮寺が待っていた。
プリント返却が終わっても帰らずに。
「冬木くん、影森さんと勉強してたんですか?」
「ああ。質問できなかったみたいだからな」
神宮寺は、わずかに目を細めた。
「……やっぱり、そういうところ、好きです」
その“好き”は恋じゃない。
ちゃんと分かっている。
尊敬とか、信頼とか、そういう種類の言葉。
だけど——
胸の奥が二度鳴った。
「……褒めすぎだって言ってんだろ」
「事実なんですから」
そのやりとりのあと、並んで歩き出す。
今日は声がかかっていないのに一緒に帰る自然さが——妙に心地いい。
◇◇◇
校門を出たところで、黒瀬と三浦がコンビニ袋を手にして合流した。
「おー! 冬木! 神宮寺!」
「どしたのー? なんか今日の二人、いい雰囲気じゃねー?」
「黙れ三浦」
軽口を返しながら——
気づいた。
今日の下校の輪は、4人だ。
数日前は、1人だったのに。
(……こうやって増えていくのか)
ゆっくりでいい。
でも確実に。
友情も、
信頼も、
そして恋も——
長く続く物語の始まりに、ちゃんと繋がっている。




