透明な花火
一
町を覆い隠す闇には、無数の光が散らばっていた。それはまるで、黒い布の上に宝石をぶちまけたかのようだった。
生ぬるい風が頬をなぜる。昼の暑さよりも、夜に吹くこの生暖かな風に夏の訪れを感じる。
手すりに肘を乗せ、まばらに明かりを灯す町を見つめた。
十四年間、僕はこの町で生きてきた。特別なものは何もないどこにでもあるような町だ。だから、特に思い入れもなく、好きでも嫌いでもなかった。 ただ、こう言うと夏鈴はいつも怒る。まるで子どもに言い聞かせるかのように僕に言うので、恥ずかしくなっていつも僕の方から折れる。
夏鈴は僕の三つ歳上で、一人っ子の僕にとって姉のような存在だった。小さいころ体が弱かった僕は、いつも夏鈴に学校に連れていってもらい、いじめられていたときは夏鈴に助けてもらった。
公園がある方向から、人の声が聞こえてくる。今日は年に一度の花火大会だ。数少ないこの町のイベントに、皆胸を踊らせている。
夏鈴は毎年この花火大会を楽しみにしていた。浴衣を着て、友達と屋台で買ったりんご飴を食べながら花火を見るのが好きだった。
今年も花火を見るのだろうか。見るとしたら、一体どこから見ているのだろう。
目を閉じると、様々な音がよりはっきりと聞こえてくる。人の話し声、夏の虫の鳴き声、どこかを走る車の音。その全ての音が、僕の関係のないところで鳴り響いている。
僕は独りぼっちだった。そんな僕を慰めてくれる夏鈴はもういない。
夏鈴は僕の全てだった。
好きとか嫌いとかではなく、文字通り僕の全てだったのだ。夏鈴が僕の心に空けた大きな穴が、僕に自然とそう思わせた。
夏鈴がいないこの色あせた世界に意味はあるのか。そんな問いを、僕は日々繰り返している。
夏鈴が望むなら、僕は一緒に死んだっていい。
二
「今年も花火の季節だねぇ。かずくんは誰かと見に行くの?」
「行かない。友達いないし。」
「そっかあ、じゃあ私と行く?」
「いいよ、友達と行きなよ。」
ベッドの上で体を起こしてる夏鈴は「もったいないなあ」と言いながら、毛先を指で巻いている。
僕が一日で話す人間といえば、親と教師を除けば夏鈴だけだ。それくらい、僕には友達がいなかった。
花瓶の水を入れ替えて、元の場所に戻す。そんな簡単なことにも、夏鈴は「ありがとう」と嬉しそうに笑った。
夏鈴は春から入退院を繰り返している。今度は手術をしないといけないらしい。昔から健康が取り柄だった夏鈴を見てきた僕としては、どうしても信じられなかった。
窓の外には、日差しの熱が伝わってくるかのような青空が広がっている。夏の空は、他の季節に比べて色が濃いように思う。
「今年も花火見れるかな…。」
空に上っていくかのような入道雲を見つめながら夏鈴が言った。表情が少しだけ陰るのが分かった。
「見れるよ。この部屋からだって見れるでしょ。」
「そうだね。」と夏鈴は笑ったが、その顔は少しだけ寂しそうに見えた。
最近、夏鈴が今のような表情をする機会が増えた。どんなときでも笑顔でいるようなイメージがあったので、その表情をしているときはすぐに分かった。でも、その表情を見せるのは一瞬で、すぐにいつも通りの笑顔に戻る。「この部屋で見るときはかずくんも一緒に見ようね。約束だからね。」
夏鈴は子どものように毛布を両手で叩きながら言った。
三
「死んだあとの世界ってあると思う?」
病室の机で宿題をやっていた僕は、突然の質問に、内容が内容だけに少し肝を冷やした。
恐る恐る夏鈴の顔を見ると、いつも通りの笑顔を浮かべていたので安心した。
「どうしたの、急に。」
「なんか本を読んでたら気になっちゃって。かずくんはどう思う?」
死後の世界など、考えたことがなかった。いつか人間は死ぬが、それはまだ先のことだと思っている分、死に対して関心があまり湧かなかった。
「考えたことないかなあ。」
結局、一番内容の薄い答えになってしまった。
「夏鈴は?どう思うの?」
「私はね、死後の世界はないと思うんだけど、魂だけになって、この世界には残れると思うんだよね。」
「へえ。」
「それでね、みんなには見えてないんだけど、私はみんなのことをずっと見てられると思うの。」
夏鈴が真面目な顔で冗談のようなことを言うので少しだけ笑ってしまった。そんな僕を見た夏鈴は「本気だから!」と、わざとらしく怒って見せる。
僕は、少しだけ、もし夏鈴の病気が治らなかったときのことを考えてしまった。夏鈴も自分に全く関係ないことであると思っている訳でもないだろう。そんな気がしたから、少しだけ考えてしまった。
夏鈴がいなくなった世界を想像したとき、僕がその世界にいる理由があるのか分からなかった。夏鈴がいなくなったら、いよいよ親と教師としか話さなくなる。それに、教師との会話など、内容があってないようなものである。今まで意識したことがなかったが、夏鈴の存在は僕の中で大きなものになっていた。数少ない、というより唯一の親しい人間であるということ以上に、何か僕の中でなくてはならないような存在であるように思えた。
四
夏鈴の体調は少しずつ、でも確実に悪くなっていった。病室へ行っても、長い時間はいられないことが増えた。それでも、夏鈴は笑顔を絶やすことはなかった。ときどきそれが、痛々しくて見ていられないこともあった。
死後の世界の話をしてから、どうしても夏鈴の死が頭をよぎるようになった。こんなことを考えるべきではないことは分かっている。でも、現実がそんなに甘くないことも知っている。
今日も三十分くらいしか病室にいることができなかった。夏鈴は笑顔を見せているが、無理をしていることも充分に分かった。
病院からの帰り道、藍色に染められた空を見つめながら、目を細めた。
もうすぐ花火大会だ。夏鈴が楽しみにしている花火を見て、少しでもいいから元気になって欲しい。その後のことは僕にも分からない。心のどこかでは分かっているのかもしれないが、それを認められるほど、僕の心は強くなかった。
五
学校は夏休みに入った。部活に入ってない僕は、毎日夏鈴の病室へと通った。僕自身も、なぜ夏鈴に会いに行くのかもう分からなくなっていた。
いつも通り、病室の机で宿題をやる。夏休みの宿題は面倒なものばかりであるが、こうやって何かに集中力しているほうが心が落ち着く。
夏鈴は本を読んでいた。話すことが少なくなってしまった分、そのような姿を見ることが増えた。
「花火大会、もうすぐだね。」
少し掠れた声で夏鈴は言った。
僕は「うん」とだけ返し、どう話を繋げようか考えた。すると、僕が言葉を紡ぐより先に夏鈴が口を開いた。
「かずくん、もう病室来なくてもいいよ。」
夏鈴は表情を変えず、言葉を吐き出すかのように言った。その顔に、かつてのような笑顔はもうなかった。
「どうして…。」
僕は絞り出すかようにそう言った。最後の方はもう声になっていなかった。
「だって、かずくんは絶対死なないんだもん。私は死んじゃうかもしれないのに、元気に生きてる人なんかもう見たくない。」
夏鈴は真っ直ぐ僕を見つめていた。頬には一筋の涙が流れる。表情には僕には読み取れない感情が滲み出ていた。肩を震わせ、拳を握りしめている。 外から聞こえてくる蝉時雨だけが、病室の中に響いている。夏鈴はしゃくりあげながら言葉を続ける。
「どうすればいいか分かんないよ、もう。怖いよ、死ぬの。」
夏鈴は毛布に顔を填め、声を上げて泣いた。夏鈴がこのように泣く姿を、僕は初めて見た。病室に夏鈴の泣き声が響き渡る。
いつも笑顔だった夏鈴を思い出した瞬間、僕の目からも涙が溢れた。考えるより先に、口が動いていた。
「じゃあ、夏鈴が死んだら僕も一緒に死ぬ。それなら怖くない。だから、だから、もう泣かないでくれ…。」
僕も声を上げて泣いた。子どものように泣きじゃくった。
二人とも涙が枯れるくらいに泣き、ようやく落ち着いたころには、外からヒグラシの鳴き声が聞こえてくるような時間になっていた。
「ごめんね、急に変なこと言っちゃって。」
僕は目に溜まっている涙を強引に手の甲で拭き取り、声を出さずに首を横に振った。
「でも、嬉しかった。」
こちらが本音であるということは、僕にも分かった。
僕は本気だった。夏鈴が死ぬなら僕も死ぬ。それで良かった。夏鈴がいない世界に意味なんてない。夏鈴がいるから今の僕がいるのだ。それなら、夏鈴がいたくなったら僕もいなくなればいいのだ。
六
人の数が増えてきたのが病院の屋上からでも分かる。そろそろ花火が上がる時間だ。
結局、夏鈴は花火を見ることが出来ずに旅立った。彼女がいなくなった世界は、随分と色あせて見えるような気がした。
夏鈴は僕の全てだった。夏鈴がいなくなって、そう思うようになった。全てを失った僕は、もうこの世界にいる意味を持ち合わせていなかった。
夏鈴が望んだなら死んだっていい。夏鈴とならどこまででも行ける気がする。
病院の屋上から飛び降りれば、助からないだろう。その前に、夏鈴が見たがっていた花火を目に焼き付けておきたい。
手すりを乗り越えて、屋上の隅に立つ。闇の中に瞬く光を見つめる。
夏鈴が旅立ってから、一度も涙を流していない。悲しみも感じなかった。それは、またすぐに会えることを知っていたからだろうか。
すると、ざわめきと共に空気を切るような音が聞こえた。光の筋が夜空を駆け上がっていく。空中で時をとめた光は、黒いキャンバスの上で弾けて広がっていった。夜空に赤く光る花は、消えゆく瞬間に地響きのような音を届けた。
歓声が聞こえる。屋台の灯りが、暗い地面も空と同じように照らしている。 最初の花火を皮切りに、夜空を様々な色の光が彩ってゆく。
色あせた世界に、少しだけまた色がつけられたような気がした。
夏鈴もきっと見ているだろう。そろそろ、僕もそちらに行くことになる。目を閉じると、暗闇が目の前には広がっていた。一切の色が消えたこの世界に、僕は別れを告げた。
七
僕はまだ、色のない世界に留まっていた。目を開けると、夜空を彩る光の花が、再び目の前に広がった。
なぜ僕はまだこの世界に留まっているのか。そう自分に問いかけたときには、もう答えは出ていた。
足を踏み出そうとしても、一歩たりとも動くことが出来なかった。前に進むどころか、足を上げることさえ出来ない。先程から絶えず足は震えている。体がこの先に進むのを拒んでいる。
「動け!動けよ!!」
声を上げ、拳で足を叩いても何も変わらない。それどころか、体全体が少しずつ強ばっていくのが分かる。
僕はもう、自分自身の感情に気づいていた。
怖いのだ。死ぬのが。
死を目の前にして、僕は完全に怖気づいた。彼女が見た死の形を、僕自身も知ることになった。
「夏鈴はこんなものと…。」
体の震えが止まらなかった。怖い、怖い、怖い、死にたくない…。死への恐怖が体を蝕んでゆく。
夏鈴にあんなことを言っておいて、結局僕は死ぬことすらできない。夏鈴は自分の全てだったのだと思い違い、勝手に死ぬことができると思い込んだのだ。
そんな僕は今、「夏鈴がいなくなった色あせた世界」に必死にすがりついている。
とんだ道化だ。全てだと思っていた夏鈴を見捨て、色あせた世界だと決めつけていたものに泣きついているのだから。
夏鈴は僕の全てではなかったし、僕は夏鈴のために死ぬことはできない。
世界に再び彩を与えていた光も、今はもう鬱陶しい。派手な赤や青の光は、胡散臭く、衒いすらも感じる。まるで、先程までの僕のようだ。
僕はもう、この色あせた世界に留まることしかできない。そして、この世界が色づくことはもう二度とない。
そう思うと、下品な色を輝かせてた光は、その色を失っていった。光の輪郭だけが僕の目に写った。
言葉にならない叫びは夜空に吸い込まれてゆく。
透明な花火は、いつまでも僕を見下ろしていた。