自殺しかけた自分への雑記
非常に暗い内容のまとまりのない文です。
読んで気分を害されても責任は負えません。
最近、自殺の計画を考え始めている。
こういう気持ちを文字にして吐き出すことで、気持ちが落ち着くかもしれないと考え、現在の心境をつらつらと書いていこうと思う。
特にこれを発信することで他者から何かを欲しがりたいとかはなく、自分の気持ち、気分の整理をどうつけようかと考えている足跡のようなもの。
自殺はやめましょう、とか、絶望しないで、とか、そういう応援が欲しいわけでもないので、そういうコメントをされても特に何も反応できないのでお許しください。
要するに、エッセイとして、面白くなるかなと思って書いているだけである。
自殺をしようと考えている状況、心境を細かく書くことは、小説を書く上で今後力になるかもしれないとも思っている。今後のことを考えているということは、自殺をしないかもしれないんだけど、衝動的に心臓をえぐりたくなるような瞬間もあるので、よく分からない。
これは完全に不定期に書き、自分がぼんやりとそういう気持ちになったら書こうと思う。
とりあえず、私はもうずいぶん昔からそういう気持ちが芽生えていて、生きていることがあまり楽しいとは思ってない。
その原因が、恋人との死別があったからなのは、明白だ。
五年以上前に、当時付き合っていた恋人が、交通事故であっさりと他界してから、何もかもどうでもよくなった。
愛する人のためならば、自分の人生の全てを犠牲にしてでも頑張っていけると思っていたからこそ、辛いことや理不尽な目にあっても、耐えられていたのに、それは容易く折れてしまった。
他人を支えにして人生の柱にしてはならないのだと、その時、思い知った。
その人が喪われたとき、何もかもが崩れ落ちていくためだ。
それから、誰かを好きになることが出来なくなった。自分も含め、ヒトという哺乳類が好きになれなくなった。
話は変わるが、去年中国で、十九歳の女性が飛び降り自殺しようとしているのを、集まった群衆が自殺を煽り、結果、その女性は死亡したという報道があった。
「はやく飛び降りろ」
「なんで生きてるの?」
と野次馬は動画を撮影し、動画サイトに上げて投げ銭を獲得する状況になってしまった。
ググったらすぐ出てくる事件なので、興味があったら見てみてね。
私はその時、自殺する人を見るのはエンターテイメントになるのだと知った。
なので、このエッセイも、そういうヒトに対して需要があるかもしれない。
ただ、自殺を煽るようなことをすると、法律的に警察に捕まってしまうので、そこは自己責任でお願いします。
私も、このエッセイに対して、「早く死んだら?」みたいなコメントを貰った場合、それなりの対応はしてみようかなと思っております。
とりあえず、心理をほじくっていくのは、とても大切です。(私としてはね)
私はそのためにこのエッセイを書いているだけですので、「へー」くらいの気持ちで読んでもらうのが一番いい距離感かもしれないです。
私は、自分自身に価値がないと思っております。昔、とある人から『ひとでなし』と言われました。ひとでなしは言い過ぎだろう、せめてろくでなしくらいで勘弁してほしいと、ちょっと頓珍漢な感想をもったことを今でも覚えています。
そういう意味でも、私のペンネームは、『人で無し』ではない『人で有る』ということで、『有人』としております。
尤も、私の感性は所謂『普通の人』とはかなりズレてしまっているのもあり、『ひとでなし』と評価したその方は、もしかすると当たっているのかもしれません。
恐らく、道徳的な観点から見ても、殺人をすることは悪いことなのでしてはいけない、というのが普通の考えなのでしょうが、
私の場合、『この人が死ぬことで、悲しむ人が一人もいない場合。また、その人が死ぬことで大多数の人が喜ぶ場合』は、殺人をしてもいい、と思っております。
これは、多分、非難されるべき考えなのでしょうが、もうこの価値観が揺らぐことはないように思います。
それを自分に当てはめると、自分が死ぬことで悲しむ人が居なくなったら、自分を殺してしまっても良いのではないだろうか、と結論を出したこともあります。
それから、徐々に人と深くつながることを避けるようになりました。
愛していた人をあっさりと喪ったあの日、こんなにも哀しく辛い経験をするのなら、人から好かれないほうが良いと考えたのです。
恋人が死に、私は完全に自分の中の何かが崩れるのを感じておりました。
その瞬間、自分も死のうと思ったこともありますが、恋人の家族がそんなことをすると悲しむと言うため、私は踏みとどまりました。
悲しむ。
これがその時、私に大きく圧し掛かってきました。
何よりも今、悲しみの淵にいるのは自分だと思っていたからです。
だから、こんなにも辛い気持ちにさせることを、私は最大級の罪だと考えるようになったのです。
私が死ぬことで、誰かを悲しませたくない。それがその瞬間に生まれた私のもう一つの生き方でした。
私はその日から、友好関係を減らし、人付き合いをできるだけ避け、寧ろ人からは嫌われるような人間になろうと思ったのです。
私が死んだとき、誰も悲しまないこと。それが何よりも大事になりました。
寧ろ、私が死ぬことで「やっと死んだよ、良かったね」と言われたい。そんなことまで考えてしまったのです。おかしいだろうと自分でも思いますが、今もその気持ちは心臓の根っこにあり、私の臓器が活動する役割を果たしているのです。
色々と矛盾しているようですが、矛盾するのが人の心だと思います。
おかしいヤツだなあと、自分でも思っているのですから、それは恐らく他人から見れば猶更奇妙に映ることでしょう。
ともかく、私は自分が死んで悲しむ人が居なくなるまでは生きていなくてはならないと考えています。
同時に、生きていて、とても空虚です。
恋愛小説を一本書籍化させた人間とは思えないでしょうが、それが私なのです。
奇妙な話ですが、私は恋愛や、家族愛を描いた小説が大好きです。
自分はそれを欲しがっているのだろうかと考えますが、答えははっきりしません。実際、リアルでは恋愛するほど人を好きになれなくなってしまったし、家族の価値観と自分の価値観が大きくずれていて、家にいると居心地の悪さを感じている毎日です。
とても我儘な人間ですね。私。
――話しを戻します。
私は、恋愛小説、家族愛を描いたヒューマンドラマが大好きです。
やはり、私は過去の恋人との思い出から、恋愛小説に惹かれているのでしょうか。家族と噛み合わないから、絆のようなものを求めているのでしょうか。それは恐らく、そうなのではないかと推察できます。
リアルでは恐らく、もう二度と恋愛をしないだろうし、家族との絆を深めることはできないと思っております。
だからこそ、空想の小説やドラマに憧れを持っているのかもしれないです。
ところで、私は、人とのつながりを捨てながら生きているのに、なぜ小説を書いているのだろう。
一応、書籍化した作品もあるし、それなりに、私の小説を好きだと言ってくれる読者もごく少数だが居てくださる。ありがたくて本当に、胸を締め付けられる思いです。
でも、私が死ぬことで、悲しむ人がいなくなることを目的にして生きている私にとって、その読者という存在は矛盾してしまう。
もし、私の小説の続きが気になってしまっている読者がいたとしたら、私が明日、自殺してしまった場合に、続きが読めなくなることにちょっぴり残念に思うことだろう。
私は幼い頃から、空想するのが大好きだったし、それを形にすることも好きだった。
クリエイター気質だったと言うべきだろう。子供のころはゲームを作ってみたり、漫画を描いてみたり、絵本を作ったりしていた。
小説を書き始めたのはつい最近の話だ。昔は小説を書くなんて考えもしなかった。
実は私はいじめられっ子だった。
小学校、中学校と、ずっとスクールカーストの底辺に居た。
そのため、自分は小さなころから無価値な人間だと思い込まされることになった。結果、他人が私を必要としてくれることに対してとてつもなく悦びを感じるようになった。
「私は、あなたがいないと生きていけない」
そう言われたら、もう、私はイチコロだろう。
じゃあ、私、頑張って生きるよ! と尻尾を振って頑張るのだ。
そう言ってくれた人は、先にあの世に逝ってしまったのだが。
何が言いたいかというと、生き甲斐というものはやっぱり私にもあるのだと言うこと。
生きていくのが空虚に感じながら、読者からの感想や応援の声を貰うと、信じられないほどエネルギーになった。
私は、この『花井有人』という名義の他に別のアカウントで執筆活動もしているが、そちらが最近、とても多くの応援の声を貰えている。
「あなたの作品に恋している」
とか、
「もっと読みたい、お金を払ってでもいい」
とまで言ってくださる方が増えた。
結果、最近そちらの名義でお金をカンパして貰えている。なんだかそれって物凄いことだと思った。
私は、リアルの生活の中では、世の中で必要にされることなどないと考えて生きているのに、小説を書くと、私を欲してくれる人がいることに気が付かされる。
それはある意味、私にとって命綱のようなものになっているのが現状だ。
今は私は、読者を悲しませないために生きているのだと分かり、この駄文を一度〆る。