窓辺の沈丁花
窓に映るその男は泣いていた。
手を繋いだ道程は嘘ではない。
確かに少女は笑っていた。
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男の母親はとうの昔にこの世を去っていた。その断片すら見つからない。
母親というものがどういう具合なのか、さっぱり見当がつかない。
覚えているのは酔っ払った父の怒号とやかんの沸く音。
希望はなかった。
男は常に絶望と共にあった。
明日の意味もわからず、ただただ黒い塊を育んだ。
それでも男は歩いた。
それは男に唯一与えられたものだった。
男は歩む以外に今日を終わらせる術を知らなかった。
希望を妬むようなことはしなかった。
しなかったというより、手にしたことがなかったゆえ、わからなかった。
その美しさと儚さを知らないまま日陰を歩き、齢を重ねてきた。
あの少女に会うまでは。
少女は箱の中にいた。
コンクリートの箱だった。
幾何学的なその箱は、規則正しく垂直と並行を繰り返す。
わずかな隙間もない、灰色の箱。
何もかもを遮断するその箱が、少女の生きる世界だった。
か細い身体に長い髪。
はにかむとえくぼが溢れる。
いつも窓辺で空を見上げて、歌を唄っていた。
それは希望の歌だった。
少女は希望と共にあった。
その絶望の箱の中で、晴れやかに、健やかに、小さな希望を育んでいた。
明日を夢見て、大人になっていく自分を想像した。
いつかここを出たら、溢れんばかりの歌声を世界へ放つ、そんな夢を見ていた。
その日、男は仕事でそこを訪れた。
緩やかなカーブを繰り返し、山を走っていく。
タイヤと道路の擦れる音が山間に響く。
まばらだった民家もついにその姿を消し、辺りは森と、男と、乾いたアスファルトだけになった。
そして、それは突然現れた。
うっそうと茂る森の切れ間。
灰色のその体は、あまりにも完璧な箱だった。
その箱は、明確な意思を持って混沌の世界を拒絶していた。そこには木漏れ日も、放射能も届かない、絶対的な何かがあった。
それは、希望とは対極にあるもの。
それは、男が長らくの間慣れ親しんだもの。
男は中に入ることを躊躇した。
しかし、すぐに思い直した。
今更どうなるというのか。
すでに深海の奥底まで重石を付けたまま沈んでいるのだ。
手を拡げ、遠い空を見上げられなくなったところで、何が変わるわけでもあるまい。
そもそもこれは仕事なのだ。
いつもどおり淡々とこなすだけだ。
事務所に立ち寄り、適当に挨拶を済ませ、約束事を確認し作業に取り掛かかった。
何か予感めいたものをはらんだまま。
男は窓を磨く。
淡々と磨く。
窓ガラスはいい。
いつだって平等に透明で、無垢。
男はこの仕事を気に入っていた。
窓はこうも美しくなるのだ。
それは、男が輝かせることができる唯一のものだった。
そして、そうやって作業をこなしていれば、今日という悪夢をいつのまにか終わらせることができた。
ふと隣の窓ガラスに目をやると、少女がいた。
唄っていた。
眩しいほど真っさらな純朴は、その美しく儚い声で、箱の中の僅かな希望を一身に受けて唄っていた。
初めて目の当たりにした。
男は動けなかった。
自分が生まれ落ちた世界に、これほど美しいものはなかった。
地面が歪む。
立っていられなかった。
逃げ出そうにもうまく走れそうになかった。
水切りと一緒に少女が動く。
希望が動く。
あっちに行ったり、こっちに行ったり。
少女は笑う。
えくぼが溢れる。
眩しかった。
波間に漂う光の反射のように、少女は笑った。
仕事の合間に箱を訪れるようになった。
灰色の箱に住む少女。
生まれて初めて出会った希望。
その歌声は、男の心をざわつかせ、その笑顔は、男に明日の夢を見せた。
少女は唄う。
真っ直ぐ笑う。
たくさん話した。
昨日のこと、明日のこと。
過去のこと、未来のこと。
『おじさんはどこから来たの?随分汚れた服を着てるのね。きっとたくさん働いているのね。』
『わたしはずっとここにいるのよ。病気なの。なかなか治らないんだって。時々外に散歩に行くの。この間は木漏れ日が眩しすぎて少しくらくらしちゃった!』
『いつかね、たくさんの人の前で唄うのよ。薄紅色のワンピースがいいな。みんな笑っているの。わたしも笑っているのよ。』
『明日もまた来てくれる?それじゃ明後日は?そう...でもきっとまた来てね。きっとよ!』
男は日向を歩くようになった。
今日を終え、明日を想うようになった。
昨日を糧に、明日を想うようになった。
その胸に僅かに灯った明かりを頼りに、男は暗闇から這い出ようとしていた。
その日、灰色の箱を訪れると、少女は窓辺にいなかった。
窓ガラスから差し込む光が、行き場を無くして彷徨っている。
音が無くなっていた。
森のささやきも、鳥たちのさえずりも、空のため息も。
心臓の音が静寂にとらわれて、息ができなくなる。
心が、ざわついた。
今日は帰ろう。
突然のことで、色々と準備ができていない。
そう思った。
しかし次の日も、その次の日も、少女は窓辺にいなかった。
とてつもなく重大な何かが起こっている。
直感的にそう思った。
今ならまだ間に合うかもしれない。
暗闇の残り香はまだ男の周辺をうろついている。
このまま引き返そう。
今までだってそうしてきた。
元の路に戻るだけだ。
それでも、男は意を決して箱の中に入った。
入ってしまった。
もう後戻りはできない。
少女は寝ていた。
真っ白なベッドに寝ていた。
たくさんの管が繋がっていた。
機械的に聞こえてくる電気信号の音以外に、何もなかった。
音のない影が少女の体を支配していた。
こちらの様子をうかがっている。
影が睨みを利かせている。
窓辺の沈丁花だけが、かろうじて生命の香りを放っていた。
訳がわからなかった。
横たわる少女と、電気信号の音。
真っ白なシーツと、窓辺の沈丁花。
これは一体なんだ。
何が起ころうとしているのだ。
男は窓ガラスを見た。
沈丁花が映っていた。
こちら側にあるはずの沈丁花が、窓ガラスの向こうに映っていた。
男は泣いた。
声なき声をあげ、見上げた空が滲むほどに泣いた。
男は望まれない人生を泣いたのではない。
小さな命の儚さを泣いたのだ。
己れの無力さを泣いたのだ。
男には金が必要だった。
たくさんの金が必要だった。
ありとあらゆることをやった。
金のためなら何でもやった。
来る日も来る日も、金をかき集めた。
それは、あまりにも純粋な欲望だった。
己れを食らい、絶望を排泄し、希望を育んだ。
男は懸命に生きた。
希望のためだけに生きた。
この世に生まれ落ちて初めて生を受けたのだ。
命の煌めきを知り、その尊さを知ったのだ、
男はいよいよ希望と共にあった。
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風が止んだ。
年の瀬の街中は人々で賑わっている。
クリスマスの余韻も薄っすらと残っているけれど、多くの人は年を越すのに忙しい。
ありきたりの日常に感謝し、新年をみな新しい気持ちで迎えたがっている。
誰しもに訪れる再起の時なのかも知れない。
雲は形を変えながら流れていく。
月も形を変えながら夜を照らす。
いずれまた、春が来る。
四季は繰り返す。
窓に映るその男は、窓ガラスを磨く。
次の日も、また次の日も、窓ガラスを磨く。
窓辺には沈丁花。
少女はもう箱の中にいない。
少し休もう。
よく歩いたね。
手を繋いだ道程は真っ直ぐだったよ。
音のない世界はもうない。
ひとまず今日を無事に終えよう。
明日のことは明日考えよう。
今夜はゆっくり眠るといい。
形あるものはいずれ壊れるというが、形は変わるものだ。
壊れるものではない。
僕らの未来はどんなだろうか。
あなたの明日が希望の形をしていますように。