クリスマスはおひとり様で
それは、ついさっきまでむし暑いライブ会場に箱詰めにされていたことが信じられなくなるくらい、冷たい寒空の下での出来事だった。
「ごめん永瀬くん。わたしもう帰るね。うちの親厳しくて、早く帰って来いってうるさいから」
白い息を吐いてそう言ってみせたのも、つい先週僕をとあるアーティストのクリスマスライブへと誘ったのも、どちらも彼女の方だった。
当日のライブが滞りなく終了し、近くのホテルでディナーの予約をしていたことを伝えた直後の彼女のその反応は、消極的拒否に他ならない。
"はっきりとは言わないけど、あなたとは友達以上の関係になる気はありません"。
緩めに巻いたマフラーに顔の半分を埋めて、彼女はそんなことを言いたげな目を僕から逸らした。
「……そっか。なら仕方ないね」
ゼミの飲み会の翌日、終電を逃して女友達宅に泊めてもらったって言ってなかったっけ? と問い詰める気にもならず、僕は曖昧に笑った。
そして、彼女とは呆気なくその場で別れた。用意していたクリスマスプレゼントの存在を匂わす暇もなかった。
こうしてクリスマスイブの夜、僕は女の子に振られたのだ。
僕と彼女はきちんと交際していた訳ではない。だけど、僕としては一言「付き合って下さい」と口に出していれば、それが叶う程度の友愛は勝ち取っていたと思っていたし、実際予約していたホテルのディナーを終えた後で、彼女に交際を申し込むつもりだった。
何がいけなかったのだろう。ライブでの僕の盛り上がり方が肌に合わなかったのだろうか。一日過ごしてみて、つまらない奴だと見限られたのかもしれない。
悲しさや寂しさよりも、そんな『なんでだろう』という思いが延々と僕の中で渦を巻いている。
そもそも僕は、彼女に対して身を焦がすような恋心を抱いてはいなかった。
大学のゼミが同じという共通点があり、いくらか話しやすい相手であり、どうやら嫌われてはいないらしい。それが僕が彼女を選んだ理由だ。
彼女も僕と同様、淡白な恋愛を寛容していたはずだ。とりあえず手近な誰かと付き合って、周りから浮かないくらいの大学生活を送りたい。それが僕と彼女の共通認識だった。
漫画やドラマのような燃えるような恋など、現実にはありはしないのだから。
リアルの恋愛で何をおいても大事なのは、妥協である。それは、彼女も同じ考えのはずだった。
師走の街に流れるクリスマスソングを掻き消して、いま僕の頭の中では、先ほどのライブのアンコール曲の一節が、やけに虚しくこだましている。
彼女の好きな、激しいラブソングだった。
僕らはほんの数十分前まで、おんなじ愛の歌に心を震わせていたはずじゃなかったのか。
なんだか無性にアルコールを摂取したくなってきて、僕は予約を入れていたホテルのディナーをキャンセルした後にスマートフォンで近くの飲み屋を探した。しかし映し出されるウェブページは揃いも揃ってクリスマス一色で、おひとり様は完全に門前払いだ。
これ以上、年の瀬のこの時期に感傷の風が心の中で吹き荒れるのに耐えられなくなり、踵を返して家路につこうとした僕だったが、そこで賑やかな通りの奥まったところにぼやけた看板が掲げられているのを見つける。
"Botchi Bar"。
「ぼっちバー?」
ちょうど横を通ったカップルの女の人の方が、不思議そうな顔で僕を見た。看板の文字を無意識に読み上げていたことに気付いて、少し顔が赤くなる。
それにしても"ぼっちバー"とは。
やけに皮肉がきいた名前である。
バーへなんか入る機会のない僕だったが、珍しい店名に興味をそそられて、足がフラフラと重たい色合いの扉の元へ引き寄せられる。
自分でも驚くほど、なんの葛藤も無くそれを開けた。
カランコロン。真っ先に僕を迎えたのは、大きなドアベルの音。
「いらっしゃいませ」
続いて投げかけられた声は、意外にも女の人のものだった。
てっきりバーテンダーは男だとばかり思っていたので、僕は大いに動揺した。
薄暗い店内に足を踏み入れて、背後でぱたんと扉が閉まると、更に落ち着かない気分に拍車がかかる。
とにかく、二十歳を過ぎたばかりのひよっこが一人で来るには小綺麗過ぎる内装だった。
独特なデザインの背もたれは間違いなく外国製のもので、よく磨かれたバーカウンターテーブルとの調和が良い。
あとはカウンターの奥に酒の棚が並ぶくらいで、余計なインテリアが一切ない。驚いたことに、席も一人掛け用がいくつか並んでいるだけだ。
こじんまりとした店内には、それぐらいがちょうど良いのかもしれない。
クリスマスだというのに浮ついた雰囲気は全く無い、大人びたお店だった。
僕は店内をきょろきょろと見回す。見たところ客の姿はなくて、カウンターの向こう側にショートカットのバーテンダー姿の女の人が立っているのみだった。
女性のバーテンダーというものが物珍しくて、ついつい僕は彼女の全身をじろじろと眺めてしまう。
服装は男性バーテンダーのものとほとんど変わらないようで、白いシャツに、襟元には蝶ネクタイ。
黒いベストはほのかに光沢のある質感で、同じ素材のスラックスはスラリと美しいシルエットを形作っている。
しかしその女性というのが、とりたてて美人と囃し立てるほどでも無いのだが(失礼だ)、一度見たら忘れられない魅力的な瞳をしていて、僕は不要な瞬きを何度も繰り返してしまう。
一見して二十四、五歳くらいだろうか。少なくとも僕より年上であることは間違いないだろう。
「おひとり様ですね?」
「えっと、あ、はい」
完全に挙動不審な僕に対して、バーテンダーの女の人は、ふふっと小さく笑う。その笑顔を前にした僕の心臓は大きな音を立てた。
笑うと出来るえくぼが控えめで、妙に心に残ってしまう表情だった。あまり化粧っ気はないのに、なんであんなに嫌味なく微笑むことができるのだろう?
「学生さん? うちね、複数人の来店はお断りしてるお店なの。おひとり様でしたら、どうぞお好きな席に」
店員さんは手のひらを上に向けて、マイルドに席を勧めた。
少し悩んだ後、五、六席しかないカウンター席のうち、僕は彼女からみて斜め右の座席に腰を下ろす。ここで女性の真正面に座る度胸があるなら、『彼女いない歴=年齢』なんて不名誉な称号を未だに大事にしているはずがない。
「初めてのお客さんよね?
面白い名前でしょう。"ぼっちバー"だなんて。一人のお客さんが入りやすいように、ってこんな名前にしてあるんです」
女性はグラスを磨きながら言う。
「あ、外国語とかじゃ無いんですか?」
てっきりどこかの言葉で『品のある』や『静かな』だとか、きちんとした意味があるものだと思ったのだが。
「ええ、残念ながら。
ここ、うちの父のお店なんだけど、元々は普通のバーだったのよ。それなのにある日突然、『一人でくるお客さんがゆっくりできる店にしたい』って言い出してね。それでこんな仕様になったの」
それじゃあまさに、今の僕にぴったりなお店だったのか。
しかし、この大人びた雰囲気に呑み込まれそう、というのが今の僕の正直な感想である。
さっさと酔っ払えばこの居心地の悪さも取っ払えるのかな、と貼り付けられたメニュー表に目を通すも、その値段の高さに頭がクラクラしてきた。よく行く居酒屋がいかに学生に優しい値段設定だったか、しかと思い知らされる。
初対面の女性と二人っきり、というこの状況に口が乾いてきても、こういうお洒落なバーではお冷なんて出されないらしい。初めて知ったことだ。
弱り切った僕を救うかのように、そこへ「カランコロン」と涼やかな音が流れる。
「ん。なに、誰か来てんの?」
ドアベルの音と共に、冷たい風と喧しいダミ声が静かな店内になだれ込んできた。
「あら、焚吐さん。今年も来たんだ」
顔馴染みなのか、バーテンダーの女性は軽やかに応える。表情は柔らかい。
つい気になって僕は後ろを向き、来客をまじまじと見つめてしまった。
重いドアの前に立っていたのは、髪があちこちの方向に跳ねた、少しだらしない印象の男の人だった。肌はよく焼けていて、口周りにはぼわっと無精髭が散らしてある。それだけ言うとまるで世捨て人のようにも思えるが、どこか異次元的な顔立ちのおかげで、敢えて汚れを施したようなビンテージ加工が際立っている。
羽織ったコートから見えるくたびれたネルシャツの襟は、ちょっと信じられないくらいに開いていて、だけどそれが様になっているのだから、きっと女性に困らない人生を送って来たのだろう、と一目で思わせる人物だった。
良い意味で年齢不詳。だけどなんとなく、三十は超えていそうだ。
反射的に『このバーテンダーさんの恋人かな』と、胸の内に黒い重しがのし掛かる。
「へー、ふーん。この店、俺以外にも客来るんだ」
そう言って、その人はさも当たり前のように僕の横に座った。脚を大きく開いて、じろじろと僕に無遠慮な視線を送る。
「なに、みさきちゃんの男? 俺、お邪魔虫だったかな」
「んもう、そんな訳ないでしょ。お客さんですよ、お客さん。初めての方なんですから、変な絡み方しないで下さいね」
焚吐というらしい客は、「けっはは」と特徴的な笑い声を零した。
「ほー、やっぱり見ない顔だと思った。なに、新顔くんまだ学生だろ?
長ーい冬休みに入って、腑抜けたようなツラしてる。
こんな日にこんなところでしょぼくれた顔しちゃって、絶対ワケありだろ」
「こんなところは余計ですってば。
……はい、いつもの水割りビール」
『みさきちゃん』と呼ばれたバーテンダーの女性は、男の人が注文する前だというのにグラスをカウンターの上に置いた。
僕は目を見開いてしまう。
小さめのグラスには、薄い黄色を呈した液体が注がれている。
……ビールって水で割るの?
「おお、サンキュー! 親父さんと違って物覚えが良いな、やっぱり」
焚吐さんとやらは嬉しそうにそれを傾けた。
「えっと、それ、ビールですよね?」
思わず疑問符が口をつく。グラスの縁に口を当てたまま、異様な雰囲気を醸す男の人は横目で僕を見やる。
「そうだ。ビールだ。
ビールの水割りは禁止、だなんて法律はどこにも無いぞ、青年」
それからもう一度、ぐびっと喉仏を上下させた。
そつのないその仕草に、かっこいい人だな、と僕は淡々と思った。
「そうだ、新入りくん。若い女の子が喜ぶプレゼントって、何か分かるか?」
早々にからになったグラスを置き、にっと白い歯を覗かせて焚吐さんは言う。
コロコロ変わる呼び名に不思議な思いをしながら、僕は少し考える。
「……クリスマスのプレゼントですか?」
「そうだ。この時期それしかない」
誕生日の贈り物とか他にも色々あるだろう、と思いつつも、口には出さない。
女性へのプレゼントのことなんか聞かれても、そんなの僕に分かるはずがないのだ。そんなこと他人に聞かずとも、この人なら経験と本能で分かりそうなものだけど。
口籠るばかりでなかなか返答をしない僕に業を煮やしたのか、焚吐さんは、「例えば、こんなの喜ぶと思うか?」と、床に置いていた大きめの紙袋から小包を取り出し、カウンターテーブルの上に載せる。
ためらうそぶりも無く、彼は意外にも丁寧な手つきでその包装を開けていった。
「……わあ。きれい」
カウンター越しのみさきさんが思わず、と言った風に率直な感想を呟く。
「だろう? なかなか悪くないと思ったんだ」
自慢げに、焚吐さんは胸を反らした。
「普通に可愛いクリスマスツリーじゃないですか。焚吐さんらしくないわ」
この格調高いバーカウンターに突如出現したのは、小さな小さなクリスマスツリーだった。
もちろん本物ではない。
しかしとても良くできた置物だ、と感心した。模造のモミの葉には薄っすらと雪化粧が施され、その上スイッチひとつでチカチカと点滅するイルミネーションの細工までセットされている。
「なんだよ、らしくないって」
焚吐さんは不満げだ。
「だって、毎年二十四日になるとよく分からない物を買ってきては、次の日落ち込んで店に来るでしょう」
上品に微笑えむみさきさんの顔には、綺麗なえくぼが浮かんでいる。
「そうだ。だから今年こそ、絢音を喜ばせてやるぞ、って」
会話の内容から察するに、どうやら焚吐さんは毎年クリスマスになると『絢音』という女性にプレゼントを贈るも、芳しくない結果に終わっているらしい。
すれ違った女性が、思わず振り返るような風貌の焚吐さんの意外な敗戦歴を耳にして、僕は少しだけこの色男に親近感を抱き始めていた。
空っぽになったグラスを下げながら、みさきさんが尋ねる。
「だけど、年齢的にもそろそろ厳しいんじゃないですか? 絢音ちゃん、いくつでしたっけ」
「今年で十六」
焚吐さんは整った顔立ちを少し変えることなく答えた。
水分を口に含んでいたら、間違いなく吹き出していただろう。
「じゅ、じゅ、十六⁉︎」
僕は素っ頓狂な声を上げる。
遊んでいそうな人だとは思ったけれど、相手が未成年じゃ犯罪じゃないか。
ふと見ると、みさきさんがくすくす笑っている。
「違うわよ。絢音ちゃんは、焚吐さんの娘さん」
「はあ、なるほど……って、え! ええっ⁉︎」
「反応面白いな、きみ」
焚吐さんは、やっぱりおかしな声で僕を笑った。
間を置かず、「みさきちゃん、ウイスキーちょうだい」と注文する。
「はいはい」
みさきさんは呆れ顔で応じる。
彼女は僕に顔を向けると、
「この人、これでも子持ちなのよ。それも思春期真っ只中の女の子の」
「そ。……って言ってもバツ付きだけどな。
家族に酒で迷惑掛けて、今じゃクリスマスプレゼント渡す時だけ娘に会わしてもらえる、淋しい男よお」
焚吐さんは目を細め、出されたばかりのウイスキーをあおる。
その色は黄金色の原液よりも一段と薄くて、ほとんど色付き水とでも言った方が良さそうだった。
「だけど、もしかしたら最近の子は、こういうシンプルなのより、もっと派手なのが好きなのかもね」
脇に退けられたツリーを手に取り、そんな呟きを発したのは、みさきさんだ。
焚吐さんは困ったように眉を曲げて、
「でも、『フェリシテ・ルパルク』のヤツと一番近いのがこれなんだ」
絢音が行きたがってるらしいんだけど、と付け加えた。
みさきさんは一瞬きょとんとしたが、すぐに合点がいったように、
「ああ、最近出来たっていう遊園地ですね」
その言葉通り、『フェリシテ・ルパルク』は都心に出来たばかりの遊園地である。アトラクションよりも絢爛な建物やイルミネーションに力を入れていて、若い女性やカップルがこぞって集まる賑やかなスポットになっている。
「クリスマスだけの特別なショーがやるらしいんだけど、そのチケットが取れなくてさ。本当はそっちをあげたかったんだ」
焚吐さんは悔しそうに言った。
あ、と僕の口から声が漏れる。それから、背負ったままになっていたレザーのボディバッグをさする。
「そのチケットなら、僕持ってますけど」
それは告白成功後、彼女へのクリスマスプレゼントとして渡そうと思っていたペアチケットだった。本来の予定では、クリスマス当日である明日、初デートとして『フェリシテ・ルパルク』へと向かうつもりだったのだ。
実際には彼女に断られ、ぼっちバーなる場所に迷い込んでいるんだぞと昨日の僕に教えてやったら、どんな反応を見せるだろうか。
「へえ。すごいな」
焚吐さんの目が一瞬、キラリと輝いた。純粋に驚いている顔だった。
「あの……良かったら、要ります?
日程的に、明日しか使えないですけど」
僕の提案に、焚吐さんとみさきさんが揃って目を丸くする。
「もう要らなくなったんで。持ってても仕方ないですし、それよりは有効に使ってくれる人に貰ってもらえれば」
これは見栄を張ったわけでもなく、心の底からの本音だ。苦労して入手した手前、転売する気にもならないし。
それに、この人に渡すのだったら、何故だか清々しい気持ちになれるような気がする。片手間で得られる自己満足感というやつだ。
だから、これは真っさらな親切心なんかでは全く無いのだった。
「しかもペアか……兄ちゃん、やっぱりワケありだったな」
バックの中から取り出したペア券を渡すと、焚吐さんはにやりと歯を見せた。
それからジーパンの尻ポケットから財布を取り出して、
「いくらだ? あんまし金は無いけど、元値分くらいは払う」
「お金なんていいですって」
僕は首を横に振った。自分から申し出ておいて、お金をもらったのでは格好がつかない。
「……そうだ、じゃあ代わりにこれをやろう!」
焚吐さんが高らかに言い、僕に押し付けたのは先ほどのツリーだった。
「物々交換だ」
僕としては無償でも一向に構わないのだけど、焚吐さんはそれでは気が済まないようだった。
「本物を見れるんだったら、これはもういらないしな」
その言葉は蛇足だったと思う。
「焚吐さん、良かったですね。ペアだったら、二人で行けるじゃないですか」
襟元に結わえられたリボンタイを揺らして、みさきさんが両手を合わせた。
そんな彼女に対し、魅惑的なウインクを放った後で、
「それじゃあ俺、もう行くわ。絢音に渡してやらんと」
そう言って焚吐さんは立ち上がり、レジカウンターへと向かう。
店員は一人しかいないので、みさきさんがレジに立った。
「そういや学生くん、なんて名前だ?」
お会計を済ませながら、焚吐さんは、ふと僕の方に顔を向けた。
そういえばまだ名乗ってすらいなかったことを思い出し、「永瀬です」と名を告げる。
「永瀬くんか。ありがとな」
じゃあまた、とごく自然に言い放ち、焚吐さんは再びカランコロンとドアベルを鳴らして去っていった。
嵐みたいな人がいなくなって、残された僕たちを待っていたのは静寂だった。
「……あの、注文いいですか」
勇気を振り絞って、僕は沈黙を破る。
「ええ、どうぞ」
既にカウンターに戻っているみさきさんに、僕は焚吐さんと同じ、水割りビールを頼んだ。
数分と待たずして出てきたグラスに、そっと口を付ける。
味はほとんど無いに等しくて、炭酸も軽く舌を障るくらいで──だけど、飲み干すのには都合が良い。
一体どんな気持ちで焚吐さんはこれを飲んだんだろう、なんてことを考えてみる。
年に一、二日しか会えない娘。それって、どんな感覚なんだろうか。娘どころか恋人もいない僕には、想像もつかない。
「……私の父ね、サンタさんなの」
「はい?」
勢いよくグラスを空にした僕に、みさきさんはほとんど囁くように言った。
「あ、町内会での話ね。私の住んでいる地域、子ども会とかが賑やかなの。
父は私が小さい頃からずっと、子ども会のサンタクロース役をしてるのよ。赤い服を着て、白いつけひげまで付けて」
みさきさんは僕の真向かいで両肘をついて、そっと目を伏せた。吐息がかかりそうなその距離感に、僕の柔なハートはいまにも悲鳴をあげそうだ。
「だから、毎年二十四、五日は基本的に、父が家にいない日だったの。今だってそう。いつもは交代で店に入ってるんだけど、父が店を空けるから、この二日間は毎年私が留守番。こんな日にお客さんなんてほとんど来ないし、最近のクリスマスは焚吐さんくらいしか話し相手がいなかったわ」
「それは……寂しいですね」
何を言うべきか分からず、僕は毒にも薬にもならない感想を吐いた。
みさきさんは、きゅっと目尻の上がった瞳を優しく細めて、
「ううん、これが当たり前だから。
それより永瀬くん、ありがとう。焚吐さん、本当に嬉しそうだった。あんなに喜んでる焚吐さんは久しぶりに見たわ」
「そんな、とんでもないです」
感謝されて悪い気はしないものの、僕は暗雲たる気持ちを噛み締めていた。
みさきさんの言葉の節々から、焚吐さんに対して、単なる常連客以上の感情が垣間見えるような気がしたからだ。
もしやみさきさんは、焚吐さんのことが……。
「うちの父はクリスマスには居なくて、焚吐さんはクリスマスにだけ娘に会える。全く逆なんだけど、なんだか他人事のようには思えないのよ」
僕の心情を察したかのような的確なタイミングで、みさきさんは言った。
僕は小さく安堵のため息をつく。
どうやら考え過ぎだったみたいだ。
「そうだ、永瀬くん。お支払いはもう済んでるからね。焚吐さんからのクリスマスプレゼントってことで、一万円分」
「えっ」
僕は年甲斐もなく目をぱちくりさせてしまう。
そうか、さっきの支払いの時に。全く気が付かなかった。
やっぱりかっこいいな、あの人、と僕は再び思った。
「あ、じゃあウイスキーお願いします」
「水で割る?」
一瞬悩んだが、「いえ、ストレートで」と付け足した。
せっかくなので本物のウイスキーを味わってみたかったのだ。あと、何も混ぜない方が男らしい気がしたから。
「ウイスキー、飲んだことある?
経験無いなら、ロックとかハイボールにするといいよ」
「……ロックでお願いします」
どうやら初心者には厳しいものらしい。
ウイスキーにも色々種類があるらしく、それによって味わいが全く異なるのだとみさきさんは説明してくれたが、ちんぷんかんぷんな僕は全て彼女にお任せすることにした。
みさきさんは唇を緩ませて、背後の棚からウイスキーを取り出す。
「それにしても綺麗だよね、このクリスマスツリー。お店でも用意すれば良かったかも」
みさきさんは冷えたグラスに、氷の塊をひとつ落とした。
カララン、と透明な氷がグラスの中で気持ちの良い音をたてた。その上から、半透明の液体が流し込まれる。
独特な、少し薬っぽい匂いがふわっと香った。
話題にあがった小さなツリーは、新たな所有主となった僕を歓迎するように、電飾を光らせ続けている。
「僕、正直こういうのに興味がなくて」
「そうなの? あ、男の子だもんね。興味ないか」
入店した頃よりも砕けたものになったみさきさんの口調が、妙に心地良く感じられる。
「もし良かったら、この店に置いてくださいよ」
言ってしまってからちょっと馴れ馴れしかったかな、と思い至ったが、もう遅い。
「え? そんな、だめよ。永瀬くんが貰ったものでしょ?」
みさきさんは困り顔で僕を見ている。
「でも、家に持って帰っても埃かぶるだけになると思うし」
「そんなの、ここだってそうよ。クリスマス過ぎたらしまっちゃうよ」
「だったら」意を決して、僕は言う。
「だったら、明日また引き取りに来ますから。今日はここに置いておいて下さい。せめてクリスマスの間くらい、楽しんでくれる人に見てもらった方がいいでしょうし」
『また明日来ます』
奥手な僕にとって、それは言うのになかなか度胸の要る言葉だった。
「……それなら、お言葉に甘えちゃおうかな。
本当、きれい」
うっとりと頬を緩ませて、みさきさんは呟く。その瞳の内では、反射したイルミネーションの光がキラキラと輝いている。
「でも明日も永瀬くんが来てくれるなら、ひとりぼっちのクリスマスにならなくてすみそう。
明日はきっと、焚吐さん来ないだろうし」
「娘さんとデートですもんね」
そう答えた僕の顔は強張っている。
ここで「みさきさんとクリスマスを過ごせるなんて、幸せです」だとか、気取った台詞を吐けるような性格なら、僕の人生はもう少し変わったものになっていることだろう。
「いいなあ、焚吐さん。私、デートする相手なんてもう何年もいない」
格好良くバーテンダーの制服を着こなしたみさきさんの顔は、その時だけ少し寂しそうに見えた。
そんな表情のひとつひとつにまで見惚れてしまう僕は、その時ようやく思い出して、差し出されたウイスキーを舐める。
……ううっ。
自然と顔が引きつるのを感じた。
初ウイスキーは、予想以上に強烈な味だった。
「ウイスキーは慣れないと飲みにくいかもしれない。
お水足そうか?」
「……いえ、大丈夫です」
何も強がりで断った訳ではなかった。
大きな氷は、解けるのに時間が掛かる。少なくともこれが一滴の水に変わるまでの間、僕は何も考えずにみさきさんの透き通った瞳を見続けていられる。
「ね、今度は私のおすすめを試してみない?
そうそう、おつまみも食べた方がいいよ。何しろ一万円分あるから」
みさきさんの柔らかい輪郭を描く頰に、二つのえくぼを浮かびあがる。
"その笑顔は、クリスマスの街に輝くイルミネーションよりも眩しく、僕の目に焼き付いていた"──なんて、少し気障過ぎるだろうか。