桜ノ宮
人称がおかしいのは気にしないでください。
十二月五日
目が覚めた。僕は奇妙な部屋で寝ていた。
畳張りの床、漆かなにかで塗られた、木目の綺麗な壁。真新しい畳の青い香りが気持ちいい、十畳ほどの広々とした空間。
壁の中央にある「養生」と書かれた深緑色の掛け軸が、いかにもといった感じの静けさを演出している。あれは確実に、めくったら江戸時代につながっているタイプのやつだ。部屋は少し寒い。
掛け軸の前の段になっている部分には、左から皿、盆栽、壺が飾ってある。
さらに、梁から天井にかけての一メートルくらいの隙間に木細工の蓮が咲き乱れ、その間を縫うように鶴が踊っている。かなり手が込んでいる。
ここまではいい。
なにが奇妙かというと、こんなに美しい造りの和室なのに、僕が寝ているのは布団ではなく、洋物のベッドだったということだ。人ひとりが横になるには無駄な大きさ。
備えつけのオシャレなカーテンのひらひらがあざとくて、少し開いた窓から入り込む風に揺れて、顔をくすぐってくるのがうざったい。
ワクワクしながら高級旅館に泊まったのに、案内された部屋がロイヤルでスイートなホテルだった。そんな感じだ。
「なんて凝った」
僕はつぶやいた。そして意図せずダジャレになっていることに気がついて笑った。この部屋の持ち主のセンスへのあきれを意味する「なんてこった」と、装飾に対する「凝った」の二語が、喉をせりあがり舌で転がされながら開口を待つというプロセスの途中で化学反応を起こしてしまったことによるまったく偶然の産物で特に誰かの笑いを誘おうとしたわけではないが今のはとても巧い掛け言葉だったと僕は……。
「いかん、気が動転して」
この妄想癖は性分なので治しようがないが、さすがにこの部屋までもが僕の妄想だなんてことはない。
しかし、こんな旅館に遊びに来た覚えはない。
状況確認。もそもそとベッドから起き上がる。そうかと思ったら地べたに倒れてしまった。
「ん、あれ」
足がうまいように動かせない。見れば包帯でぐるぐる巻きにされている。そこだけがミイラの体の一部のようで、それなら僕に支配権がないのも当然だ、と変なことを考えた。
今までトンチンカンな部屋ばかりに考えが向いていたが、そこでようやく僕は自分の体に走る重苦しい痛みを感知した。
病院服のような薄布からは、包帯だらけの体がのぞく。足どころか、頭も体も全身ミイラだ。
動けない。あおむけになった。
……しばらく、畳の匂いを嗅いでいた。風の澄んだ草原が連想された。
単にけがを治すために細胞たちが眠りを求めているのか、それとも夢の中でこの草原に行ってみたいという欲求なのか、みるみるうちに瞼が垂れていく。まだ目が覚めて五分もたっていないと思う。
「おやす……」
「春くん!」
まさに旅立つ寸前だった。桜模様の障子が開け放たれ、イノシシか何かのような猛進で俺に駆け寄る姿が一つあった。
女の子にしては背の高く、綺麗な子が、しゃがみこんで俺の顔をのぞき込んだ。制服の、丈の短めのスカートが目の前でゆらゆらと左右に踊った。
それからその子は俺の頬に手を当てて、まるで命を救われたかのような、感情のある微笑を浮かべた。そのあと、かすれた声でなにかを言った。
「春くん、もう二度とあんなことはしないで……」
「あの、すいません」
「心配したよ……」
制服の少女は俺に話しかけているのに、俺と会話をしていなかった。
「その、すいません!」
「……どうしたの、春くん?」
今度は返事があった。
ところで、彼女は今、春くんと言わなかっただろうか。こんな綺麗な人が自分のことを下の名前で呼んでくれるなんて、ここは本当に俺の妄想世界なのかもしれない。
俺がうはうは笑っていると、なぜかぽかんとした顔の彼女が、不思議なことを言った。
「春くん、どうしてそんなに笑ってるの? そんな笑顔を見たのは久しぶり」
「久しぶり……? いやあなたとは初対面ですよ」
「え。冗談きついってば。え、えぇ?」
彼女はそんなことはないと手のひらをぶんぶん振ったのち、こちらを確認するように見つめて、それから停止した。
「君は誰? それとこれは、一体どういうシチュエーション……」
しばしお互い凍りついていた。俺の頭だけは混乱しすぎてオーバーヒート寸前だった。
自分の脳みそで暖をとる経験は、後にも先にもこれきりだろうと思った。
一時間が経った。彼女の持ってきた温かいお茶を二人ですすって、気分も大分落ち着いてきた。
「じゃあ、本当に何も覚えてないのね」
「そうだな。君には申し訳ないけど、何も」
がっくりとうなだれる彼女。結構ショックを受けているみたいだ。
それも当然だ。今回の件は、彼女にとっては大切な思い出がごっそり盗まれてしまったようなものなのだ。
一時間話してみてわかったことは二つ。
一つ目に、目の前の少女と俺、篠崎春は彼氏彼女の関係であるということ。
二つ目に、昨日その彼女とデート中に、俺が交通事故に遭ったということ。
それだけなら単に運がなかったという話で片付くところが、この話には不可解な疑問点があった。
それというのも、俺は交通事故になど遭っていないし、そもそも彼女なんて、生まれてこの方一度もできたことがないのである。
「一回整理してもいい? さもないと頭が発火することになる」
整理するも何も、包帯だらけの体が身に起きたことをすべて物語っているのだが、俺は想定外のことにとことん弱い人間であるため。
「何度でも構わないわよ。春くん、理解力ないから」
軽口を叩けるくらいには元気らしい。
「まず雪の日のデート中、スリップして突っ込んできたトラックから君を突き飛ばして、俺が身代わりになったと。えへへ」
「なに、そのヒーロー面。忘れちゃってるくせに」
唇をつんと立てる彼女。頬がほんのり紅色になっているのがいじらしい。
「それで、大けがを負った俺が運ばれたのがこの病院。それが一昨日。……もう一回聞くけど、本当に一昨日で間違いは?」
「ない。デートしたのも、君がひかれたのも一昨日、一二月三日のこと」
十二月三日。これが最大の疑問点だ。
「俺が昨日起きた時、目覚ましはたしかに九月三日だった。なんなら、ドラえもん誕生日スペシャルの細かい内容まで語れるけど」
「春くん君って人は……」
あきれ気味の彼女。何と言われようと、俺はドラえもんが好きだ。夢と希望と、なにより未来にあふれていて素晴らしい作品だ。
「ともかく。俺にとっての昨日が九月三日なのに、実際に事故があったのは一二月三日ってことだ」
それが本当だとすると、知らぬ間に三か月も進んでいるということになる。
そんな馬鹿な。
半信半疑の俺に、彼女は病室の棚に置いてあったデジタル時計を突き出す。
「この時計、ちゃんと一二月五日って書いてあるでしょ。あとほら、あれ見て」
彼女が窓の外を指さす。手を貸してもらって、痛む体を、それのあるほうに向ける。
ほつりほつりと真っ白な粒が空から落ちてくる。この近辺ではめったに見られない景色だ。
「雪、だな」
「こんな温かい地方だから、異常気象でも起こらない限り、九月に雪は降らないわ。機械仕掛けはともかく、お天道様は嘘つかないもの」
「納得した。だから、つまり、これは夢でも何でもないんだな」
「うん」
嫌なことを予感していた。それはもうほとんど当たっていると思われる。背筋を這い上がってくる不安。掛け軸に吸い込まれて江戸の世に丸裸で投げ出されるよりも、もっと身近で、皮膚を赤くなるまで掻きむしりたくなる焦燥感――。
「失礼します、院長の松田です」
医師と思わしき、にこやかな笑顔のおじいさんと、その連れ添いの看護婦さんが入ってきた。その白衣を見たので、俺はついに納得した。
「ここ、本当に病院だったんだ」
「こんなトンチンカンな病室はここだけですがね、篠崎君」
「どういう理由で作られたんです」
「もとは老人患者の憩いの部屋だったんだけど、最近は部屋が足りなくて病室にしたんだ。ところで、そちらのお嬢さんは」
「宮野です。篠崎君の知人です」
宮野さんというのか。
「じゃあちょうどよかった。篠崎君のことで混乱したでしょう」
松田院長が看護婦さんに言って、数枚の書類を受け取る。俺は彼女と目を合わせて、ごくりとつばを飲み込んだ。
「篠崎君、まず右腕と右足が骨折しています。あとトラックと衝突したときに強く頭を打っているね。昨日検査した結果、幸い体への後遺症はなさそうですよ」
強く頭を打っているね。
他でもない、記憶をつかさどる器官の脳に損傷があったのなら、この状況にも説明がつく。
予感的中の四文字を思考の外に追い払い、松田さんの次の言葉を待つ。
「このことは昨日お見舞いに来たお母さまにも伝えてあるからね。君をつきっきりで看病していたのは彼女だ。感謝するんだよ」
「お母さま……。ちょっと待ってください。俺の母親って、どんな人だったっけ……」
俺が今ここにいる以上、生んでくれた母親がいるのは当然なのに、その顔が全く分からない。
その存在自体、こうして先生に指摘されるまで気がつかなかった。
そんな馬鹿なことは。
「……うん、やっぱりだね。心身に異常はないが、脳波に少し乱れが見られたよ。記憶喪失って、めったにないんだけどね」
頭にズーンと、重い石を乗せられたような衝撃がのしかかった。
「記憶喪失……。でも俺、自分の名前も、昨日のことだって、はっきり思い出せます」
先ほどまではまだ、何かの冗談だろうと楽観していられたのに。
「まあ、落ち着きなさい。その言葉を信じるに、篠崎君の症状はそう重いものじゃあない。一時的なもので、すぐに治るさ」
松田さんは温かい手で俺の肩をポンとたたき、誰にも聞こえないようにして、なにやらひそひそと耳打ちしてくる。
「うらやましいなあ。こんなに綺麗なガールフレンドに看病してもらえるなんて。こりゃあ、僕らの治療はいらないかねえ」
「な、が、ガールフレンドって……!」
意地の悪い笑みを浮かべる医者。松田先生のこういう冗談にいつも困らされているのか、後ろの看護婦さんの苦笑いはどこか板についている感がある。
二の句を継げずにあたふたしていると、部屋の端に座布団を敷いて、ちょこんと置物のように黙りこくっていた宮野さんが助け舟を出してくれた。
「松田先生、患者の事情に深入りするのはよくないと思います。ただでさえ混乱している篠崎君を惑わすのはやめてください!」
実にはっきりとした物言いだった。これには老熟した医者様も少し驚いた様子。
「うーん、聞こえないようにしたのに、宮野君は耳がいいなあ。それじゃあ僕はこの辺で退室とするよ」
こんな方でして、すみません、と謝る看護婦さん。その間、すでに松田先生はスリッパに履き替えて廊下に出てしまっている。
「少年~、頑張んなさい! そっちの意味でもね!」
なんとも元気に手を振っている。しかし段々とその声も小さくなって、ようやく部屋に静けさが戻ってきた。
「嵐のような人だったな。かえってこっちは冷静になれたよ」
正直すこしうるさいとは思ったけど、ああいう人がいるから、暗い雰囲気の患者さんを元気づけられるんじゃないだろうか。買いかぶりか?
彼のおかげか、俺もようやく現実を認める気になった。
自分が記憶喪失。そうめったなことでは、こんな珍しい状況には出会えない。
「なにニヤニヤしてるの。春くんが落ち着いたことには感謝だけど、次に変なこと言い出した時は……あの人どうしてくれようか」
ガールフレンドと言われたことに照れているのだろう、松田先生へのあたりがやたらと厳しい。
まだぶつぶつとつぶやいている宮野さんを見て、俺は思わず笑ってしまった。
「君、最初はクールなお嬢様タイプかと思ったけど、結構わかりやすい性格してるな」
これは面白い人と知り合った。いや、実際はすでに知り合いであるらしいが。この様子だと病院生活で退屈する心配はなさそうだ。
「クールでもお嬢様でもありません。それと、いつまでも君とか宮野さんって、よそよそしいわ」
「そうはいってもこっちは君の名前が分からないんだが」
「あ、そういえばそうだった……」
「おい」
いよいよもって、彼女という人の性格がつかめない。とりあえず現時点で、クールでお転婆なうっかり屋さんとしておく。
「わかった、じゃあ俺から自己紹介するよ。名前は篠崎春。覚えてる限りだと、向いの山の高校の三年。君の名前は?」
「私は宮野桜。君と同じくあそこの三年生。あらためてよろしく」
同級生か。名前を知らないということはお互い離れたクラスだったのだろう。
「よろしく。とりあえず今思いついた呼び方は、桜さん、宮野、ノミ、クララ。どれがいい」
「後半二つのセンスはどうにかならないの」
「即興だから」
正直、今のは最悪の出来だった。
「前にもこんなやり取りした覚えがあるわ。記憶がなくなっても同じこと言うなんて、さすが春くん」
「俺は俺ということですね。それで、どう呼べばいい?」
宮野さんは顎に手を当てて悩んだ。
「やっぱり、今まで通り桜がいいな。言い慣れてる言葉だから、記憶が戻る助けになるかもしれないし」
「未来の俺は、女子を下の名前で呼んでたんだ……」
なんだろうなあ、このむず痒い感覚。
「できればそう呼んでほしいな。桜っていう名前、結構好きなんだ、私」
そう言って嬉しそうにはにかむと、彼女の頬にくっきりと深いえくぼができた。
そんな顔で言われてしまうと、もう彼女を桜と呼ばない道理はないじゃないか。
「では……、桜と」
「急に口調が侍になった! ふふふ、おかしい……!」
何がツボにはまったのか、彼女は突然大笑いし始めた。俺自身笑いをとろうとして言った訳ではないので、かなり驚いた。
自分もたいがいだと自覚しているが、彼女も相当の変人らしい。
そのモデルのように細い体の、一体どこからねじればそんな声が出るのだろう。あんまり笑い過ぎて、目じりにうっすら涙が浮かんでいる。
心配になってきたところで肩を揺さぶってやる。正気に戻ったかとおもうと、今度は恥ずかしそうに顔を覆ってうつむく。
「ごめん、普段あまり笑わないから、つい。ところで、もう五時になるし私帰るね」
言われて外を見ると、すでに日は隠れて、町がうす暗くなりはじめていた。
そうか、十二月なんだ、と一瞬遅れて違和感の正体をつかんだ。
彼女は丁寧に座布団のしわを正して、元の場所に戻して靴を履き替えていた。
その後ろ姿にベッドから一声。
「どうなることかと思ったけど、君のおかげで助かったよ。ありがとう」
「どういたしまして。また明日も、あさっても必ず来るね」
彼女は振り返って、一瞬微笑んだ。さっきまでとは少し違う、優しげな表情だった。
俺は心が洗われるような気持ちで、気をつけて、と返した。彼女はつやのある長い髪をひるがえして帰っていった。
ひとりになった。
デジタル時計は日曜日の表示だから、明日は普通に学校の日だろう。
俺のどこがよいのかは全く謎だが、ずいぶん好かれているらしい。そうじゃなければ日ごとに病院通いなんてしない。
やはり何か裏があるのだろうか。
九月三日から十二月三日にかけて無くなった記憶。そして九月三日までを知る今の僕は、彼女のことを今日出会うまで知らなかった。
つまり、消えた記憶と僕が彼女と過ごした期間が、ちょうど重なるのだ。
偶然とは考えにくい。多分、そこでなにか大事なことが起こったのだ。
これからのことを考えると、憂鬱と期待の混じったような不思議な心地が、胸を不安定に脈打たせる。今日はもう来客もなさそうなので、ここらで一休みすることにする。
こうしてみると、案外ベッドも悪くないものだ。僕は草原を目指して眠りについた。
十二月六日
寝るのが早すぎた。そのせいで、目が覚めたのは老人が起きるような時間だった。
目がさえて二度寝どころではなかったので、一人和室でラジオ体操をしていた。若い看護婦さんが入ってきて、すごく微妙な空気になった。
看護婦さんは母親から預かったという僕の荷物と朝食だけをおいて、そそくさと退散した。
「早起きは三文の得って言葉。あれ嘘だな」
今は看護婦さんが運んでくれた荷物の中からペンと手帳を出して、日記をつけているところだ。こんな一生に一度あるかないかの経験、書き留めておかなくてはと使命感に駆られるのも自然のことだと思う。後世に語り継ぐぞ。
とはいえ、この状況が長引くのは喜ばしくない。僕は高校三年生。十二月と言えば、受験が目の前まで迫っている時期だ。実は、成績だけはかなり良いほうなのだが、楽観してはいられない。
この三か月の記憶が抜けているということは、おそらくその間に勉強した内容もすべてパーだ。もとの僕――なんて存在がいるとして、彼が聞いたらきっと泣くだろう。
苛烈を極める受験戦争で三か月のハンデというと、いくら頭がよくてもかなり厳しいのは明らかだ。
かといって今更どうなる話でもなさそうなので、今は、記憶が戻ったら三か月分の知識も一緒に返ってくることを期待して、勉強には手を付けないこととする。
そんなことよりも、僕の無駄に大きい思考リソースを割くべきなのは、どうやって記憶喪失から復帰するかだ。こうしていろいろ考えられる時点でかなり軽い症状なのかもしれないが、のんびり自然回復を待っているわけにはいかない。
元の自分に戻るための作戦。まず最も効果がありそうなのは、空白の三か月のキーパーソンとコミュニケーションをとること。彼女と話すうちに、ふとした拍子に手がかりをつかめるかもしれない。専門的な知識がない以上、結局できるのはそのくらいのことに限られる。
「よし。大体方針が決まった」
僕はこうして物思いにふけっているときが好きだ。雑念をうまく手繰り寄せて一つの説にしてみるのもいいし、くだらない妄想で笑うのも楽しい。暗いことはできるだけ考えたくない。
脳内会議がひと段落したところにアナウンスが鳴った。ごはんの合図だ。僕の部屋にもすぐに
病院食が運ばれてきた。放置していた食欲を思い出させる匂い。カレーだ。
しかし俺の体は燃費がいいので、まだそんなに腹は空いてない。その旨を若い看護婦さんに告げると、
「食べて体力つけなきゃ病気は治りません!」
と一喝されてしまった。
しかし食べたくないものは食べたくないのだ。俺は名案を思いついた。
「あ~、骨折した腕が痛いなあ。あーんをしてもらわないと、とても食べられないな!」
「そんなものは彼女さんに頼みなさい。それに骨折したのは右腕だけでしょう」
返り討ちにされた。しぶしぶ、一人寂しいランチタイムを過ごした。
昼食の後、三十分くらいの昼寝をとっていると松田院長が様子をうかがいに来たので、散歩の許可を申し出た。
さすがに安静にしろと言われるか、と思っていたら、運動はいいことだと快諾された。部屋に松葉杖が立てかけてあった。
松葉杖を使うのは中学二年生以来だったので、最初は進むのに苦労したが、十分もたつと慣れた。あの時はたしか体育祭の騎馬戦で、背も高いのに無理を言って上をやらせてもらって、みっともなく転げ落ちたのだった。
松田病院はかなり広かった。地方を代表する某政令指定都市の中心街に建つ病院なので、設備は特に充実していた。俺は妄想のネタ探しに面白そうな場所を探索していった。
本棟と副棟の間に、小さなドーム状の中庭があった。左半分のコスモスの花壇と野菜畑では、いろんな年齢の患者が穏やかな笑顔を浮かべて水やりをしていた。
右半分はプチ植物園になっていた。花の名前は分からないが、両脇を赤、橙、黄、緑、水色、青、紫のグラデーションに彩られたフラワーロードがきれいだった。僕は端から端まで歩いてみて気が付いた。
「この順番、虹になってるんだ」
虹の花道。小さな空間ではあるけど、その中で一生懸命名前も知らない花たちが、自分の色を誇るように咲いている。まさに生きているという感じで、心から羨ましく思う。
君の色は何色だと聞かれたら、僕には透明色以外にはありえない。だから、この景色はとても心に残るものだった。
また明日くるのを楽しみにして、僕は部屋に戻った。学校が終わるのはちょうどこの時間帯だから、そろそろ桜が来るかもしれないのだ。
彼女は面白い性格をしているから、いじりがいがありそうだなあ。
ふすまを開けて部屋に入ると、案の定人影があった。奥のベッドの前で椅子に腰かけていて、顔は見えなかった。
「やあ」
声に気がついて、その人は振り返った。そうして見えた顔に、彼女の持つ桜の花びらのような瑞々しさはなかった。代わりに細いしわがたくさんあった。背格好は桜に似ているが、全く人違いだった。
ただ、目鼻に自分の面影があった。
「母さん、ですか」
知っているはずなのにわからない。知らずのうちに、口をつく言葉は畏まっていた。
「ああ、母さんのこと覚えてないのね。篠崎日和、あんたの母親です。記憶喪失ってめんどくさそうねー」
俺はどんな返答をすればいいのか迷った。
記憶喪失なんて、場合によれば一気に雰囲気を重たくしてしまう核心だ。それをこの人は世間話でもするように言った。
自分の彼女に続いて、実の母親までも忘れてしまっているとは、自分が恐ろしい。
まずは、心配をかけていることだけでも謝ろうと思った。
「すいません。トラックに飛び込んだりしたことと、母さんを忘れてしまったこと」
「ああそんなこと。気に病むことじゃないわ」
何ともあっさりしていた。
だってトラックに突っ込んだのだ。かなり手ひどく怒られると思っていたので、俺はえ、と次の言葉を詰まらせた。
「母さんは俺を怒らないんですか」
おどろいて訊くと、この人は意地の悪そうな笑顔を浮かべた。
「怒るといえば、もしあの女の子が轢かれるのを何もせずに見てたら、母さんはあんたを殺すくらい怒ったわ。だって、そんな情けないことってないでしょ」
母さんはそう言って俺の目を見た。それは今の言葉がまぎれもない真実だという証明だった。
息子が間違いを犯したとき、それと同じだけの償いをためらいなく行う勇気を持った人。ともすれば息子を殺すことのできる人。
それは、常識のなかでは異質と呼ばれるに違い発言だった。しかし同時に、とても美しい生き方だと思った。彼女といい、俺の周りには癖の強い人が多い。
俺はこの人が自分の母親であることを嬉しく思った。
なんというか、俺の母親であることを運命づけられたような人間像だった。あ、そりゃあ当たり前か。俺がこの人から生まれたんだから。
そんなことを考えていると、なぜか頬が緩んでいた。いつもの妄想癖が……。
母さんはそんな俺を見て笑った。
「とまあ、あんたの母はそういう人なので、罪悪感とかは無用です。むしろ誇るべきよ~、自分の身をていして女の子を守ったんだからねえ」
それを誇っているのは、間違いなく母のほうだろうと思った。
この人は照れ隠しのように、息子が彼女を見捨てる最低な奴じゃなくて良ったわーと言って笑った。
「……」
「あ、そういえば! あんたに彼女がいるのは知ってたけど、まさかあんなに良くできた人だなんて思わなかったわ」
うわ、変な話題を持ち出してきた。
「いつ桜と会ったんですか……」
「へえ、桜ちゃんっていうの。あの子、事故の日は夜通しで病院にいたし、一昨日も朝早く看病に来てたし、相当いい子よ」
「本当、どうやって俺は彼女と付き合えたんでしょうね……」
この騒動で最大の謎がそれだった。
「うーん。わが息子のことながら、あんた顔はいいけど根暗だし、その妄想癖がねえ」
はっきりと言われた。自負していたことだが、自分以外の人に指摘されると、なんだかもやもやする。
だけど、形の上だとしても、今の俺には彼女もいるのだ。根暗、直さなければ!
「彼女がこんな変人を好いてくれてる限り、俺もそれに応えようと思ってます。俺、どうすればいいんでしょう」
きっといい助言が得られると思って、聞いてみたのだが。
「そういうのは当事者が考えることよ。母さんも青春と言えば、父さんといちゃいちゃしたり、大喧嘩したりしたものよー」
もっともな話だった。俺は急に冴えた気分になった。
そうだ、これは自分の問題なんだ。これからどうしていくかは、あとで彼女とゆっくり話していこう。
と、なにか耳に残った言葉があったような。
「……父さん。そういえば、父さんは来ないんですか」
聞くと、母は
「ああ、そんなに昔のことも忘れてるの。父さんは哲学の学者さんで、昔外国に旅立って、それっきりよ」と答えた。
「そりゃあまた、変わり者だなあ」
「ちなみに父さんの手伝いしてたから、私も結構そういうのには詳しいわよ。あんたの妄想は間違いなく私たちの遺伝ね」
母は冗談っぽく言った。夫と離れ離れだというのに、その表情に悲しさの作る影はなかった。作り笑いとも思えない。
「じゃあ、俺が記憶喪失になったっていうのは、父さんはまったく?」
「実は、毎日夜父さんとビデオ通話してるのよ。昨日あんたが記憶喪失だって言ったんだけど、そうしたらあの人なんて言ったと思う? ねえ聞きたい?」
母はいかにも嬉しそうに語りはじめた。想い人なんだから当たり前か。
「父さんのこと、大好きなんですね」
「『貴重な経験じゃないか、楽しめよ!』だってさ。本当仕方のない人よね~」
完全に自分の世界に入ってしまった母を前に、どうしようかと考えていると、
「宮野です。お見舞いに来ました」
ちょうどよく襖が開き、彼女が入ってきた。
それに母も気が付いて、のろけ話は不完全燃焼で打ち止めとなった。
彼女は彼女で、部屋に俺しかいないと思っていたのか、少々驚いた様子で母に向き直った。
「あっ、春くんのお母さんですか。初めまして、宮野桜です」
「母です~。息子が心配かけてごめんねー」
「いえいえ。でも春くんは危なっかしい人なので、正直心配しました。無事……ではないけど、よかったです」
「まったくよー。本当、わた雲みたいなやつだから、桜ちゃん、ちゃんと監視しててね。あなたがいないと、風でどこかに流れちゃうわ」
「それ、言えてます。監視は任せてください」
俺を見ては一緒に笑う二人。
お互い話したこともないはずなのに、二人の間には既にいい雰囲気があった。
俺を置き去りで、ひとしきり世間話をして盛り上がった後、母がはっとして、申し訳なさそうに言った。
「ごめんなさい。男女水入らずのところを、おばさんが邪魔しちゃって」
俺は別によかったけど。それに、彼女も気にしてない様子だし。
そう伝えたものの、母はそれを聞きもせずに、「また来るわねー」と言い残して、そそくさと退散してしまった。
「男女水入らず、とかデリカシーのない言葉を使うのに、そういうところは空気を読むのか……」
「あの親あってこの子あり、って感じね」
「そんなに似てる? ……あそうだ、それより聞いてみたいことがあるんだ」
なになに、と続きを促す彼女。
「ずばり、俺と桜の馴れ初めを知りたいんだ」
「な、なれそめ。そんな、夫婦でもあるまいし、なれそめって……」
急に口ごもって、視線をうろうろと逃がす彼女。見ているだけで楽しい。
ここでもっともらしいことを言って、追い打ちをかける。
「それを聞いたら、なにか記憶を取り戻す手掛かりになるかもしれないんだ。頼むよ!」
手を合わせて、目をぎゅっとつぶって、お願いします! もちろん手がかりなんてのは出まかせで、ただ彼女が困っている顔が見たいだけである。我ながら意地悪だ。
渾身の演技が決まった。そう確信して瞼を開くと……。
「あ、嘘ついたわね」
「え」
彼女はやや冷ための視線で、俺を睨んでいた。そしてお返しとばかりに、刺々しく、針でも刺すように言った。
「君。出まかせを言うとき、相手を手玉に取ったきになって、ついにやけちゃうでしょ。分かりやすい」
「なるほど、次から気をつける」
「別に次から言わなくていいから!」
すぐさまツッコミ。愉快だ愉快。
会話の主導権を取り返されたのに気がついたのか、彼女は平静を取り戻して口をつぐんだ。
しかし、黙られてしまうとこちらも困る。彼女とのおしゃべりが楽しくてついふざけているが、俺と彼女の関係の始まりは、本当に不思議な事柄なのだ。
どうしようか、ふざけすぎたか……と気をもんでいると、突然、彼女はすまし顔で爆弾を投下した。
「実は私、春くんの記憶が一発で戻る方法を知ってるの」
俺は驚きのあまり口をポカーンと開けて、しゃくれ顔で三秒くらい、桜を見つめた。眼力で穴が開きそうなほど。
「な、なんで昨日言ってくれなかったんだ。記憶が戻るって、それが分かれば一瞬で退院じゃないか!」
「骨折は……まあいいか。知りたい?」
「知りたいよ! ずっと記憶が戻らなかったらどうしようか心配してたんだ。よかったよかった。万事解決だ」
これで悩みの種は無くなった。少しの間だったけど、不思議な遊びができたようで楽しかった。そうと決まれば明日から受験勉強や遊びに励もうじゃないか。
今後の計画の練り直しをしていると、彼女が
「教えるなんて、一言も言ってないけどね」とわざとらしく舌を出して笑った。
焦らす気だな。お上手な人だ。
「もったいぶるなよー」
笑顔で彼女の肩をたたく。彼女は俺の手をぴしゃりとはねのけた。
「え?」
「残念だけど、今はまだ言えないの」
言えないの、いえないの、イエナイノ……。残酷なお告げが、耳の奥底に残響を残して消えていく……。
「ほ、本当か。なにか言えない理由があるの?」
「きわめて個人的な事情が」
「なら、それだけでいいから教えてくれないか」
俺は必死になっていた。目の前のチャンスをみすみす逃がすほどの余裕はない。
「だめ。教えたとしても、今の春くんじゃ実行できない内容だから」
取り付く島もない。今の俺にはできないことって、何だろう。
これではいつまでたっても聞き出せそうにない。すこし妥協しよう。
最善が狙えないなら次点。今すぐ記憶が戻らなくとも、別に死にはしない。
「じゃあ、どれくらい経ったらその方法を教えてくれる? 一週間とか」
「ううん、時間の問題じゃないの。言葉にしづらいけど、春くんが人間的に成長したときに教えられるもの、というか」
なんとなく話が見えてきたような気がする。
「君は俺のことを試してるのか」
「そう。早く元の生活に戻してあげたいのは山々なんだけど、そうした方が、お互いにとっていい気がするから」
いままで明るめだった彼女の雰囲気に、ふっと影が差しこんだ。気に病んでいるような、どこか重たい一言だった。
「……うん。よくわからないけど、その話が冗談じゃないってことはわかった」
「わかってくれてよかった」
安心した、と言って、ほっとため息を吐き出す彼女。そうすると部屋の雰囲気も軽く、温かくなった。桜の吐息が部屋を温めたみたいだった。
「それで、人間的成長って、俺は何をすればいいの?」
「すごく簡単なことよ。ただ私とデートしてくれればいいの」
「ああデート、デートね。まかせて」
え? デートって、想い人同士が一日一緒に外出する、あのデートのことだろうか。
……無理だ無理! だって俺彼女がいたことないし、デートなんて勿論したことない。
しかし、今の俺は仮にも彼氏というわけで。
こんな動揺と焦りのオンパレードな内心が知られたら、「ええー、だっさい」と軽蔑されるかもしれない立場であって。
「……いや、それにしても今日は暑いなあ。窓を開けてくれないか」
内心を悟られないよう平静を装って、自然に話題を変える。桜がベッドから離れて窓を開けているうちに、せめて額に滲んだ冷や汗をなんとかしなくては。
「熱いって、今一六度だけど」
「あ、そ、そうだったな……」
「さっきから歯切れも悪いし、春くん。まさか体調悪いんじゃ……」
話が変な方向に逸れていく。しかも質の悪いことに、それが純粋な善意なので、いまさら言い訳だなんて言えない。
桜の白くて細い手が、額に当てられる。冷たくて気持ちいい……ああもう、そうじゃなくて。
「うわ大変、すごい汗だ」
ちがうそれ冷や汗!
ナースさんを呼ばなきゃ、といって、慌てて出ていった彼女。
「また面倒なことになった……」
彼女は俺の体調に関して、ちょっと異常なくらい神経質だ。どうにかならないか。
数分後、看護師さんがぞろぞろやってきた。
彼女が看護師さんに事情を話して、俺は体温を測らされた。発熱なんてあるはずもなく、結局恥ずかしい真実を話す羽目になった。
「くたびれた」
「自業自得です」
「けど、君がはやとちりしなかったら、十分も説教を受ける必要はなかった」
「そうね、デートを想像するだけで脂汗を流すくらい動揺した春くん」
「そうだな、わき目もふらず人を呼びに行くくらい、俺のことを心配してくれる桜さん。嬉しいなー」
どちらともなしに軽口の応酬が始まる。ラブラブカップルとは程遠いやり取りに、すこし苦笑する。
俺も彼女も、思いつく言葉を適当に投げつけているだけなので、まるで子供のじゃれ合いのようだ。特に意味のない時間なのに、なんでこんなに楽しい気分になるのだろう。あ、そっか。
「俺、こういうのやってみたかったんだ」
「女子との冗談話を? よほど異性に飢えてるとみえる」
「ほら俺ってこんな性格だから、友達少ないだろ。こうやって一対一で話すのは新鮮だ」
実は友達が少ないことを嫌に思っているので、ちょっとだけ恥ずかしいカミングアウトだった。
彼女はそういえば、という顔でうなずいた。
「教室を訪ねた時、いつもヘッドホンしてノートに何か書いてた」
「そうでもしないと休憩時間が余って仕方がないんだ」
クラスメイトと親しくなりたい気持ちはある。あるのに、肝心な場面に限って俺のおしゃべりな口は閉じてしまうのだ。もしくは思ってもない変な発言をしてしまったり。
または、別人を演じたり。
「辛い」
「その気持ち、私もわかる……」
「桜も人づきあい苦手なタイプ?」
「下手に成績がいいせいで、宮野さんは一人が好きだから、って空気ができちゃって」
「……なるほど。ということは二人ともはみ出し者か。似た者同士のカップル、ここに結成だ!」
おどけてみせると、彼女は自然な笑顔を浮かべた。良かった。
「似た者同士か。ちょっと照れるな」
「てっ、照れ顔いただきました~」
「ほら、すぐそうやってふざける。顔赤いわよ」
「う、うるさいな」
僕のへたくそなお道化なんて、きっとこの人はすぐに見抜いてしまうのだろう。
でもそれも仕方ないことだと思う。目の前で女の子が照れるところなんて見てしまったら、こっちまで恥ずかしくなってくるよ。
「だから、春くんにそんなふうにすぐうろたえない立派な彼氏になってもらうために、人間的成長は不可欠なんです」
話を強引に捻じ曲げられた。ちょっといい雰囲気だったのに、もったいない。
しかし今のやり取りの後だと、妙に説得力があって言い返せない。
「じゃあ、携帯出して」
「え?」
目の前に差し出された真っ白な手のひらを見つめる。
「いいから」
今の流れでどうしてスマホがいるのかと首をかしげつつも、バックからそれを引っ張り出して手渡す。
すると彼女はポケットから自分の端末を出して、両手並行でLINEを開く。高校に入り世間体でインストールして以来、存在も忘れていた。
「桜もLINEとかするんだな。しかもすごい器用。スマホのスの字も知らないと思ってたよ」
「えっ、そんなに似合わない? 私だって、一応女子高校生だからね」
「そんなもんか」
すると突然、彼女が二刀流のスマホをシェイクし始めた。
唖然。どうした、どうした……と見守っていると、位置情報で連絡先を交換する機能なのだと教えてくれた。
「これでよし」
「連絡先交換するの、これが初めてなんだな。前はどうしてたの?」
「自分でわかると思うけど、春くんLINEとかメール面倒がるでしょ。だから電話ですましてたの」
「たしかに俺ならそう言いそう」
自分のことだから当たり前のようにわかる。
「でもこれからは伝えることも増えるから、いいかなーと思って」
「了解。ついては、その伝えることとは……」
「デートの」
「ハイ分かった」
「話がはやくて助かるわ」
この人本当デート好きだな。
「いいだろう、行ってやろうじゃないか」
ここまで来たら腹をくくろう。がぜん燃えてきた。一体どうしてそんなに俺を成長させたいのか、すぐにでも暴いてやる。
「楽しみにしてる。じゃあ今日はこのあたりで」
立ち上がる彼女。一瞬、柔軟剤の優しい匂いがこっちへ流れてきた。
「うん。桜のおかげで今日も退屈しなかったよ」
それは良かった、と嬉しそうな様子で彼女は帰っていった。
病室が急に広くなった気がする。
一人ってこんなに静かだったか、なんて、いつもとはベクトルの違った感慨が湧いてくる。
「よし、日記の続きでも書くか」
今日は楽しかった。しかし、同じだけ疲れた。
それがずっと続いてくれたらいいな。
食事を終えてしばらくボゥーとしていると、夜も十一時を回ったころだった。突然、携帯が森のくまさんの一節を奏でて震えた。
ちょうど眠気にまかせてまどろんでいるところだったので、不意を打たれて反射的に身構えてしまった。
画面をスライドしてみると、LINEに通知があった。思わず連想したのは彼女の照れ顔だった。トーク画面を開く。
「どれどれ。こんばんは、宮野です。夜遅くにごめんね、起きてた?」
ちがう、朗読してる場合か。待たせたら悪い、早く何か送らないと。
ちゃんとした文面を仕立てるのに三分かかった。
『こんばんは。ちょうど起きたところ。十一時に起床ってのも変だけどね』送信。
『生活リズムは大事』
光の速さで返事が来た。これは心配してくれているんだろうか……?
ただでさえコミュニケーションが苦手な二人。加えて互いの表情も見えないので、当事者たちから見てもちぐはぐなトークが繰り広げられる。
苦闘しながらキーボードに向かううちに、自然な流れでデートについての話になった。先ほどは承諾したものの、不思議なもので、後になるほど次々と後悔の波が押し寄せるのだった。
そんな僕のセンチメンタルな内心をさておいて、話はとんとん拍子に進んでいった。来週末、九時に駅前の公園で待ち合わせ。そこから彼女が大好きな場所に連れて行ってくれるらしい。
病院から公園は目と鼻の先の距離だ。僕への配慮なのだろうが、それなら別に、ここ集合でいいんじゃないかと思った。雰囲気の問題なのだと怒られてしまった。
ふと画面の端に目をやると、もう日付が変わる時間になっていた。一時間が一瞬のように感じられた。
「眠くないのかな、あの子」
寝なくていいの、と一言。
『あ、そろそろ寝ないと!』少し慌てた様子の返信が送られてくる。
じゃあおやすみなさい。そう打とうとして、ふと昼間のことを思い出した。書きかけの文に手を加えて、こう付け足した。
『おやすみなさい。……病院の中庭の花畑、明日行かないか』
それで満足して、スマホの電源を落とした。布団に丸まって、デート当日どんな服を着ていくか、またどんな会話をしようか、作戦をたてていると、いつのまにか眠っていた。
十二月七日
翌日の土曜。『ごめん、外せない用事ができたから、明日』とのことで、予定は空白に逆戻りした。
朝、やってきた母さんに、できるだけかっこいい服を部屋から持ってきてくれと頼んだ。
午後からは教えられたリハビリに精を入れて取り組んだ。早く治したいのが半分、久しぶりの運動が案外楽しかったのが半分。体を動かしながらの考え事はよくはかどった。例えば、明日は日曜だから、彼女は制服じゃなくて普段着で来るのか。どんな感じだろうと想像を巡らせていた。
リハビリが終わると、何もない病室ですることは勉強しかなかったので、うろんげに参考書を眺めて過ごした。けど、それも数分で飽きが来た。
「暇だ……」
入院して数日たったが、病院暮らしに最初期待していた楽しさがないことが判明した。
穏やかは好きだが、停滞は怖い。
畳のいい匂いも、手の込んだ調度品も、すでに色あせて、何を感じることもなくなった。身に起こった変化を「そういうもの」として飲み込んでしまったのだ……。
久しぶりに、独りぼっちの時間が僕を襲った。
「あぁ……」
なにも、僕だって楽しいことばかり考えて生きているわけじゃない。時折、なにか哲学的な妄想が脳を席巻してくるときもあった。
それが嫌だからだろうか、僕が母さんと父さんのことを忘れてしまっているのは。彼らが哲学やまどろっこしい妄想癖を僕に伝えたから、それを忘れたかったのだろうか。
いや、その理論でいくと、彼女を覚えていない理由も、彼女のことを忘れたかったからになってしまう。そんなことはないはずだ。
なにかもやもやとした嫌な気持ちがして、窓の外に意識を逃した。雲がゆったり流れているだけで、何の変わり映えもない景色だった。
籠の中の鳥に唯一与えられた、柵の隙間から差し込む「変化」を眺めることができないのなら、きっと息苦しいだろうなと思う。けれど鳥は動物だから、竹ひごの内側に充満する無限の透明色に息を詰まらせることはないのだ。
物寂しい荒原に桜が一本根を巡らせれば、それは実際よりもはるかに鮮やかに写るだろう。
白紙のキャンバスに一滴の色彩がにじんだのなら、出来不出来はさておき、それは芸術と呼べるだろう。
それと似た意味で、僕はこのかぎりなく停滞に近い生活(籠)に差し込んだ彼女という変化を欲していた。(この数日、ほとんど必ず僕の近くに彼女の存在がある。それを除けば、僕はまさに透明で、死にたくなるような時間を過ごしているのだ。このように。)
ただし鳥と違って、人間は厄介だ。それには感情がある。この奇妙な和洋室が僕にとってすでに当たり前になってしまったように、彼女という色彩さえ、時間が経てば透明になって、見えなくなってしまう。
桜は、誰から見ても魅力的な女の子だ。だが、会って日の浅い今だからこそ僕の目はそうと認識するのだと思う。鮮やかな、奇妙な日常だと。それが過ぎてしまうと、彼女のことさえ僕は×××と感じてしまうのだろうか……。
薄情だ。
僕と彼女が当たり前の関係になったとき、自分がどういうことを思うのか。ぼんやり想像がついてしまうところが薄情だというのだ。
停滞は怖い。けどそれ以上に変化も怖いものだ。詳しくは変化の結果と、いつかそれに順応してしまう自分が、腐臭を放つ暗くおぞましいもののように思えてくるのだ。
だから彼女と話す時だけは、上から香水を塗りたくって、それを隠す。これまでの二日とは、その努力が生み出した偽物の光明だった。
周りでは「ぼんやりしている」とされる僕が、ひとたび一人の時間を与えられれば、実はこんな物の見方をするということが、明確ではない誰かを裏切っているようで、もうしわけがなかった。
「早く明日になってくれよ」
昨日が楽しくて、明日も楽しいのだと考えると、今日とはその分の負債を返す時間であるかのようだ。今という時間が刻々と重たくなっていく。
リハビリを経て、今日の空模様のように澄み渡っていた内面が、濁った銀色の乱層雲にずぶずぶと埋もれ沈んでいく。止められない。気を紛らわすことのできる学校のほうがまだよかった。
一人になると、こういう暗い思いに囚われることがずっと前からあった。それを相談できるくらいに信頼している人は一人もいなかった。
本当に治すべきなのは精神のほうだな、と自嘲の笑いが抑えられない。
前の僕は、彼女と過ごした三か月で、停滞と変化を越えて前に進めたのだろうか。
それを知るためにも、彼女と真剣に向き合わなければいけない。今までみたいに、ピエロのようにおどけていたらダメなんだ。
成長って、そういうことを言っているのか。だとしたらドンピシャだよ、桜。
十二月八日
「ここ、昨日見つけたんだ」
「綺麗……」
昼前病室を訪れた彼女を連れて、例の植物園にやってきた。棟の端のあまり目立たない場所にあるので、彼女も知らなかったみたいだ。
「今日の服、この花道を背景にしたらすごい似合ってる」
嘘ではない。部屋からここに来る途中、上に羽織っていたブラウンのコートをリュックにしまった彼女は、真っ白なセーターと薄桃色のスカート姿。それがやわらかく可憐という印象で、ここの景色のイメージガールなのかと思うくらいマッチしている。
褒めすぎた? 彼女は明らかに照れていた。
「実は着る服に一時間悩んだの」
特にスカートがお気に入りらしい。
「気合入ってるな」
「女子はそんなものです」
こころなしか気分の良さそうな彼女に相槌を打ちながらゆっくり歩く。時折しゃがみこんで花の名前を当て始める彼女に、それはナニナニこれはナニナニと正解を教える。
「もの知りね」
口をぽかんと開けてこっちをのぞき込む彼女に、グーグル先生バンザイ! と真相を告げる。「ず、ずるい……」盛大な苦笑いを買う。
「そういえば。昨日の朝の急用があるってLINE、何だったんだ」
「あとで教えてあげる」
「……ん?」
しばらく二人して通りを行ったり来たりしていたところ、ほとんど同じタイミングで、腹の虫がゴロゴロと雷を落とした。幸い雷鳴は小さく、周りの人の耳には届いていないようだったが、俺たちは顔をぽっと沸かして、おたがいを見合った。
「べ、弁当を作ってきたの。食べよう」
「お、食べよう食べよう」
周りを見回すと木のベンチが一つあった。高校生二人が腰かけるには少し小さく、肩と肩が触れ合うくらい彼女と接近した。
「近く、ないか? ないか」
ひとりであたふたしているうちに、彼女のリュックの中から弁当が二つ出てきた。丁寧に淡い水色のハンカチで包んである。
「はい、味に自信はないけど」
両手で、どうぞと突き出されるのを受け取る。こんなにしてもらっていいのか、と聞きながら、手はすでにハンカチをほどいてふたを開けていた。
「すごい、おいしそう」
小さめの弁当箱には、定番のたこウインナーや綺麗ではないけど一生懸命作ったのがわかる卵焼き、中央にミニトマトが乗ったかわいらしいサラダ、桜の花びらの形のにんじん……などなど、見ていて嬉しくなるような品々が詰められていた。
どれも文句なしに美味しかった。下段のわかめご飯はおかずを半分食べるより前に無くなってしまった。
「おいしい!」
本心からの感想を言うと、自分のを食べながらちょくちょく心配そうにこっちを伺っていた彼女が、花咲く笑顔を浮かべた。
「良かった。料理下手だから、昨日母さんと一緒に作ったの」
「昨日? 急にできた用事って、お弁当のことだったのか!」
こんなに良くできた彼女は、日本にこの子くらいだろう。どういう顔をしてお礼を言えばいいのか、測りかねた。
「春くんが自分から誘うってことはお気に入りの場所なんだと思って。だからお弁当くらいは、ね」
急に心がざわついた。
なんだろう。少しできすぎな気がした。
俺はこの上ない幸せを感じながらも、このとき、自分が強い不安に襲われていることに気が付いた。
自分があんまり幸せをもらいすぎて、そのツケが――あの泥のような思考が自分の中に舞い戻ってきたのだ。つまり、それは彼女を信じられていない証拠だった。
けれど、それを押し殺して普段通りを装ってもダメなのだと昨日考えたのだ。
だからここらで、常々感じていた核心に触れていかなくてはならないと思った。憂鬱と期待の混じったような不思議な心地を、今ここで吐露すべきだと思った。他人と接する為の道化師「俺」ではなく、自分の内面で話すのだ。
無償の善意ほど怖いものはない。どうして俺にこんなに優しいのか。尋ねなければ。
「あのさ、桜はどうして僕と付き合ってるの」
「春くんに猛タックルされたから。君なら俺を変えてくれる、って。聞いてるこっちが恥ずかしくなるようなセリフ」
それは確かに恥ずかしい。
「よくOKしたね」
「なんだこの変人は、って気圧されて、断われなかった。でも話聞いてると、ちゃんと色んな事考えてる人なんだってわかった。いいなって思ったよ」
彼女は僕をまっすぐに見据えた。それで別段僕をフォローして言っているわけではないと分かった。本心だ。けれどその気持ちがますます痛い。やはりこんな人を自分なんかにつき合わせていてはだめだ。
「今まで隠してたから知らないと思うけど、実は僕って桜が思うような良い人じゃないんだ。考えることは陰気臭いし、飽きたらすぐ人に見切りをつけるんだ」
自分のクズさ加減を教えようとする舌に熱がこもっていく。彼女はそんな僕を見て悲しそうに目を伏せて、静かに続きを語る。
「春くんはたまに落ち込む時があって、何を悩んでるのかって聞いても全然教えてくれなかった。薄々おかしいとは思ってた。結局春くんは私に打ち明けてくれなくて、最後の最後になってやっと気が付いた。ひかれそうな私を助けた春くんが笑った時。私を助けられたことに笑ってたんじゃなくて、春くんは丁度いい死に場所を見つけて笑ってた。春くんは自分に嫌気がさして、でも変わろうと、人と関わりを持とうと私に告白して、私が何もできなかったばかりに、死んだの」
他人が聞けば妄想だと一蹴してしまいそうな内容だった。けれど僕には本当だと分かった。
彼女をかばって死に飛び込む勇敢な男。その勲章。それほどクズの対極の存在はない。どうせ死ぬなら周りにいい印象を残して死にたいという浅はかな願望が透けて見える。
まさに僕が考えそうなことだった。そんなうってつけの死に場所があれば、きっと僕も飛びつくだろう。
実際、母さんも誇りだと褒めていた。僕の作戦は見事にみんなを騙して、自分一人楽に逝ってしまったわけだ。彼女である桜のことは考えずに。そして運悪く生き残り、彼女と過ごした三か月を残酷にも忘れ去ってしまった残りかすの僕が残った。
記憶喪失と聞かされた時点で、彼女はそれを全部悟っただろう。
だけど桜は僕と再び出会うことを選んだのだ。絶対に、「私が何もできなかったばかりに」なんて、彼女が謝る必要はない。
「桜に悪いところは一つもない。そうやって想ってくれる人のことも考えずに自分勝手に死ぬような奴が悪いんだ!」
どうして桜が僕にあんなに優しいのか、毎日やってくるのか、僕の体調に厳しいのか、ようやくすべてが腑に落ちた。
彼女は僕がまたそういう行動に走るのではないかと恐れているのだ。自分が止めなければならないと。
それは正しい。実際、昨日も一昨日も一昨昨日も、死について考えない日はなかった。最初自分がトラックにひかれたと聞いた時、僕はそのまま死んでいたらよかったと思ったのだ。
彼女のそれは一種の義務感とも呼べた。僕が優しい彼女をそんなことに縛りつけているのだとしたら……。胸が裂けそうな心地だった
「桜に責任はないんだ。だから、辛いならもう僕にかまわなくてもいい」
緊張で喉が渇いて、かすれる声で語り掛ける。すると彼女はこれまでに見たことのない、燃え上がるような形相で僕を睨みつけた。
「勘違いしないで。私は責任感で動いてないの! 誰が悪いかなんか分からないけど、一番辛いのは春くんでしょ! 私のこと心配する暇があるなら、一緒に前に進もうよ……! このままじゃ、前と同じだよ……」
激しい怒りは次第にしぼんで、最後には消え入るような声で彼女は懇願していた。周りには
誰もいなかった。
それは彼女が内にため込んでいた感情の、ほんの一部に過ぎなかっただろう。
だけど重みが違った。真剣さが。
僕はすぐには言葉を返せなくて、古い木のベンチの軋む音だけが、静寂の間を縫った。
ここはそういう場面じゃない。どんなに気まずくて申し訳なくても、取り繕うべきではない。 僕のお道化では彼女はごまかせない。
停滞と変化。
このままでいるなら、きっと未来は変わらない。前の自分と同様、僕は近いうちにどこかで自殺するだろう。それはつまり、なにもかもから逃げるということだ。
けれど、彼女の手を取って不甲斐ない自分と戦って生きるのは、それよりもはるかに苦しい未来だろう。
ここでどちらかを選択するということは、僕の人生はもちろん、少なからず彼女の人生も変えてしまうということだ。決して、彼女への申し訳なさなどが理由で決めていいことではなかった。
「時間がほしい。来週のデート――君がまだ行ってくれるつもりなら、その日までに決めてくる。それまでは、一人で考えたい」
「わかった」
「必ず行くから」
「わかった。待ってる」
弁当箱をハンカチに包んで返した。ベンチを立って、虹の花道から踵を返した。
最後に食べた桜型のにんじんの甘さを必死に思い起こして、後ろから聞こえてくる嗚咽を今は耳の外に追い出した。
そうしないと、偽物の意思で彼女の手を取ってしまいそうで怖かった。
病室の真っ白なベッドシーツがいびつなまだら模様を描いた。毎晩、僕はこれからどうするべきなのか考えた。
滴った涙はシーツに滲んで、じわじわと、僕の内にあふれる不安をあらわすように、黒の面積を膨らませた。
多分これまでの人生の中で一番いろんなことを考えた。
最後の日まで考えて、自分が彼女に対して抱いている感情の一部だけを、僕は知ることができた。
十二月十五日
服を選んで病院を出た。大通りに沿って五分歩くと、すぐに約束の公園が見えた。
市内の公園ともあってかなり広いが、目印になるものは噴水しかないので、言うまでもない。 十分くらいして彼女はやってきた。例の白セーターと薄桃色のスカートを着ていたので、すぐにそれと分かった。
「久しぶり」
「うん、久しぶり」
馴れ馴れしく話すような雰囲気ではない。あちらは気まずいと思っているだろうか。あんな別れ方をした僕は、正直合わせる顔がなかった。
彼女が謝った。
「この間は、いきなり怒ってごめんなさい」
僕も突然暗い話を持ち出してごめん、と謝ると、彼女はじゃあお互いさまで、と微笑んだ。
噴水のふちに並んで座った。三度ためらって、ようやく口を開いた。
「桜は、あの三か月、あんな僕のことを好きでいてくれたの?」
「好きだった。ずっといろんなことを考えて、何でもないことで笑ったり落ち込んだりする君が」
彼女の中では、今の僕も前の僕も同じに見ているのだろうか。
僕には、彼女と二人一緒に過ごした記憶がないけど、彼の失敗は、そのまま僕の失敗なのだとは思っている。
「僕はずるくて卑屈なやつだ。決定的に道を踏み違えたのも僕で、やっぱり悪いのは僕なんだ」
彼女は何も言わず、黙って聞いている。見守るような、柔らかい視線を受けた。多分、以前の僕と同じ選択をしても、この人はもう否定をしないだろう。
「子供の時から怖いんだ。今持ってるものも、いつか必ず色あせて透明になって、意識の外にいってしまうって。どんな人も結局は離れていってしまうってわかってるから、そんなふうに考える自分が怖くて、誰とも関わってこなかった。多分僕は、桜のことでさえ、いつかは飽きたと思ってしまう」
そんなことを言っても、桜はまったく怒るそぶりを見せなかった。底抜けに優しいのだ、彼女は。
「ただ、一つ意地汚い言い訳をさせてほしい。そういう風に思うのは、周りの目を気にしてるんじゃなくて、周りの人を傷つけてしまわないか、不安なんだ。ただ期待もしてた。身勝手でクズって称号すら言い訳の名目にする、こんな僕に負けないくらい強い人がいないか、探してた」
「うん」
「だからこれは予想でしかないんだけど、きっと君の代わりに死のうとした僕は、君のことを放っていった訳じゃない。君のことを、自分の身勝手に耐えてくれる強い人だって信頼してたから、思う存分自分勝手ができたんだ」
なりふり構わず自分の言いたいことだけを言っている自覚はある。僕は今、この世で一番うざくて、気持ち悪いことを言っているやつだ。
「信頼か。ずるい言葉」
「僕はずるいんだ。だからもし義務感じゃなくて、今の僕のことも好きになってくれるなら、それにつけこんで、君のことを利用したい。できることなら君の支えで立ち直って、一緒に前に進んでみたい。これまで停滞ばかりで歪んでた僕の性根を、君に叩き直してもらいたい。結局全部、君任せだけど、それを許してくれるのが桜なら……!」
受けてみろ。受けてみてくれ。これが「僕」だ。そんな臭いセリフは恥ずかしくて、最後まで言えなかった。
一週間考え、僕は停滞も変化も怖くて、結局自分の意志では選べなかった。
ただ自分の人生の背中を、他でもない彼女になら、どうとでも押してもらって構わないと思った。
信頼。出会って数日の男が女に対して抱くには、あまりに軽々しく、無礼な気持ちだった。
彼女が僕の目に余る思い上がりを、気持ち悪いと断るならそれでもよかった。
もしも受け入れてくれるようなことがあれば、リュックサックの中に隠した、昨日家に帰って母と作った弁当を、この前のお返しに渡すつもりだった。
「……春くんは勘違いしてる。私はそんなに強い人じゃないの」
僕の熱弁詭弁に対して、あくまでも彼女は冷静だった。
そりゃあダメか。と現状を受け入れる言葉が口をつく寸前だった。彼女の一度閉じた唇が、また言葉をかたどりはじめた。
「……だから、春くんのいう身勝手に我慢できずに、怒ったり、大喧嘩したりするかもしれない。
でも言ったでしょ。私の心配をする暇があるなら、一緒に前に進もうって」
桜が顔を上げて、手を差し出した。
僕はこの時初めて、本当の意味で自分に自信を持った。僕の身勝手な一面が、人生で初めて前進を勝ち取った瞬間だった。
僕はバシッと彼女の手のひらを握りしめて、
「宮野桜さん、今、僕は君のことがすごく好きです! 僕と付き合ってください!」
告白した。
たった数日だけど、これだけ一緒にいて楽しいと思う人はこれまでいなかった。
これは、過去の僕ではなく、別の選択をした今の僕と向き合ってほしいという、わがままの意思表示でもあった。
「はい。篠崎春くん、あらためてよろしくお願いします!」
今までで一番の笑顔だった。たまらない嬉しさが、僕の頭から足までを百週くらい駆け巡った。まだ昼まで三時間もあるのに、桜の胸に弁当箱を押しつけた。
桜は僕の顔に自分の顔を近寄せた。彼女のまつ毛が揺れた。それで僕も応じた。蝶が蜜花に止まるときの速度に似た、優しい着地のキスだった。
唇と唇が重なり合って生まれた熱は、僕の素顔をかたくなに覆い続けていた鉄仮面をゆっくりと溶かしていった。
それは摂氏一五〇〇度のキスだった。
こうして、僕たちは恋仲となった。
後日談
「一発で記憶が戻る方法」というのは、なんとかして僕を変えようとするための嘘だったらしく、いまだに記憶は戻らないままだった。
あの三か月の記憶がいつか戻ってくるのなら、その時僕は今の僕のままでいられるのか。彼女のことを好きに思う僕は、その時がきたら過去の僕に塗り替えられてしまうのではないかと不安になるときもあった。
それを相談すると、その時はその時で!と桜に笑い飛ばされてしまった。
彼女には頭が上がらない。
これからの試験ラッシュに出遅れた形の僕に、彼女はかなり丁寧に勉強を教えてくれた。もともと二人とも頭は良かったので、晴れて、県内の同大学に合格した。
学校には、冬休み明けから復帰している。
今は、ようやく高校生活すべてがひと段落したところ。つまり、卒業式が終わったところ。
「よっ、変人カップル。大学でも元気でなー」
「美男美女なのに、不思議とあいつらには爆発しろなんて思えないんだよなー」
以前よりも積極的に話すようになって、知り合いの数も少し増えた。僕は彼らに手を振り返して、桜と共に校門をくぐる。
「そうだ、春くん。前にLINEでお気に入りの場所に連れて行くって話したじゃない」
「あ。結局教えてもらってなかった、そういえば」
「だから、今から一緒に見に行こう」
名案だ、と顔を見合わせた。そうして、彼女の向かった先は、学校の裏山の登山道だった。
見晴らしのいい丘にやってきた。そこには半咲きの、野生の山桜が一面に広がっていた。
まだ蕾のままの枝がいくつもあった。
「私が桜っていう名前を好きなのは、ここで春くんが私に告白したからなの」
この僕が、そんなにロマンチックなことをするとは。よほど桜に惹かれたんだろうと思う。
「なら僕は、その元カレよりも君のことを好きになる。君をずっと好きでいられるように、良いところも悪いところも、これから見つけていくよ」
「ありがとう」
そうして、僕たちは二度目のキスをした。あの優しい熱が僕の体に伝わってくるのと、視界の奥で花びらがふわりと着地するのが同時だった。
それから、桜の木の下で、二人だけの卒業写真を撮った。
「まだ完全に咲ききってないところが、僕たちらしいと思うんだ」
「本当。ねえ、山桜の花言葉は知ってる?」
舞い落ちる花びらをそっと人差し指でつかまえて、桜は彫りの深いえくぼを作った。
「――あなたに微笑む。だって」
ここまで読んでくださりありがとうございました。嬉しいです。
この話は普通列車と関係があります。