小さな小さな、あなたの旅路
小さな小さな旅人がいました。
旅人の服はボロボロで、靴もボロボロで、怪我だらけでした。
その胸元から猫の顔がのぞいているのですが、不思議なことに、上半身しかありません。
下半身は旅人の胸に、体の中に埋まっています。
旅人と猫はつながっているのです。
その猫も、ずいぶんとボロボロでした。
そして、ずいぶんとおびえているようでした。
旅人は、そんな猫を抱えるようにして、ずっとずっと歩いてきました。
旅人の目の前に広がるのは、荒地です。
その上には何もありません。何も。
あるのは、時折、底が見えない亀裂や断崖、登れそうもない絶壁とかで、とても厳しい風景です。
そんな風景と同じで、吹く風も切り裂くように厳しく、冷たく、空も濁って寒々としています。
厳しい大地です。
それはまるで、旅人のこれまでを表しているようです。
突風に切り刻まれて、吹き飛ばされたこともありました。
何日も冷たい雨にされされたこともありました。
風や雨だけではありません。
他の旅人に会うこともありましたが、この大地と同じような人がほとんどでした。
胸に狐を抱いた旅人にだまされたこともあります。
人の口から暖かい言葉が出てくるのですが、最後に狐の口から冷たい言葉が吐かれるのです。
左肩から大きな赤ん坊が垂れ下がっている旅人もいました。
何かにつけて、すぐに赤ん坊が泣き喚いて暴れるので、ほとほと振り回されました。
お腹に大きな拡声器を埋め込んでいる旅人は大変でした。
かちんとくると、途端に拡声器からものすごい叫び声をあげるのです。
鼓膜が破れる勢いで、小さな小さな旅人は何度もなぎ倒されました。
得体の知れない、何か、に囲まれたことだってあるのです。
身包みを剥がされて、突き飛ばされて、大地の亀裂へと突き落とされてしまいました。
真っ暗な亀裂の中では、旅人は泣くことしかできませんでした。
そして、何が大変かって、その度に胸元の猫も大暴れするのです。
おびえて、悲しんで、怒って、猫は叫んで手を振り回します。
その爪で、牙で、旅人は傷だらけになってしまうのです。
体は一つにつながっているっていうのに。
何で歩いているんだろう?
こんな大地を旅しなければならないのは、なぜ?
いつもいつも、旅人は悩んでいました。
心当たりは、これっぽっちもありません。
足はとても重く、踏みしめると荒地に少しめり込みます。
足跡が、また一つ。また一つ。
ちりん、と音がしました。
隣の旅人から。
亀裂に落とされたとき、先に底に居た旅人です。
亀裂から這い出るときから一緒に居る、同じように小さな小さな旅人。
彼の格好は似たようなものだったけど、違うところもありました。
彼には、何もついていませんでした。
狐も、赤ん坊も、拡声器も。
その代わりに、胸に大きな穴が開いていました。
向こう側が見える、首の付け根から肩まで届くぐらいの、大きな穴。
彼は、ただ居る、それだけだったけれど、動くと鈴が鳴るように、ちりんと音をたてる人でした。
彼は、旅人の足跡を指差していました。
首をかしげて、旅人は気づきました。
今まで、自分の足跡なんか見たことはありません。
彼の指先に誘われるように目を落とすと、足跡に小さな芽が生えていました。
よくわからないけれど、花ではなさそうです。ただの草です。
でも、みずみずしい、きれいな緑色でした。
顔を上げると、彼が振り返っています。旅人が歩いてきた方を。
同じように、振り返ってみました。
そこは、荒地ではありませんでした。
草原があり、林があり、廃墟があり、沼が広がり、川が流れ、砂漠があり、枯れ木があり、松明が燃えていて、燃え尽きていました。
あまりきれいな光景ではありません。廃墟は戦場の跡のようだし、沼は腐ったよう、砂漠は荒涼とするだけで、枯れ木は不気味です。
旅人は悲しくなりました。
でも、彼は見つめ続けています。
同じようにしていると、少し気づくことがありました。
ずいぶんと向こうに、ススキ野原が広がっているところがあります。
もう枯れる前だけれど、まるで黄金の野原のように、静かで美しいところでした。
ああ、あのあたりはあの子と歩いたところだ。
ずいぶん昔、ブリキのわんちゃんと一緒に旅したことがあったのです。
まるで自分自身のように、気の合う、すてきなわんちゃんでした。
それに、ヨーロッパの古い町並みみたいなところもあります。
大きな犬の上に人の上半身がくっついている、不思議な旅人と一緒に歩いたあたりです。
すぐに旅人の元へと駆けつけてくれて、何かと心配してくれる人でした。
旅人の目に涙が浮かびます。
胸の猫もごろごろと喉を鳴らします。
顔を摺り寄せる猫を、旅人は抱きしめました。
ほとんどは、汚いものです。きれいなのは、ほんの一部。
ところどころなど、何もない空間になっています。
でも、振り返ったその風景は、自分の足跡は、大きく大きく広がっていました。
そして、向こうへいけばいくほど、昔であるほど、すべてが枯れていくようでした。
汚いものも、きれいなものも。
不思議なことに、枯れると、汚いものはただの廃墟になっています。もはや、ただの跡、です。
それに比べて、ススキ野原のように、きれいなものは、枯れても美しいままでした。
いえ、枯れるほど美しいかもしれません。
ちりん。
鈴の音へと向くと、彼が一歩踏み出しています。
何もない、荒地へと。
旅人も一歩踏み出しました。
やがて、この足跡に何かが生まれるのでしょう。
そして、やがて枯れていくのでしょう。
それがどうした、とも思います。
意味はないのかもしれません。
答えではないのかもしれません。
旅人は、猫を抱きしめます。
猫は小さく鳴いて、目を細めます。
無と有の狭間で、小さな小さな旅人は歩き続けます。