第六話:腐椿の日
呻る怒声と豪の奇声、今にも泣きだしそうな迷子の手とその親の腕を引きながら俺は人込みの流れの中を駆け抜けていく。何度も鳴り響く乾いた鐘の音が、火事の知らせで人の足をとにかく浚っていく。
表通りの出たのがまずかったのだろうか、否、そもそもの運がなかったのかもしれない。
「お母さま! 魔族が、」
「大丈夫、だいじょうぶよエーテル。私たちは助かるから」
穏やかなその声に明確な恐れの匂いが鼻につく。
母親を見つけるのは簡単だった、確かにそこまではよかったのだ。良くなかったのはそのあとだ。
「Gaaaaaaaaaaaaaaaaaa──」
目の前に刳る牙と腐臭、風圧で人は押しのけられ嫌な悲鳴が場を波のように伝っていく。
化け物、と称するほかがないだろう。いうなれば魔物というらしいが、その魔物はゲームで相手するにもあまりにも違いすぎた。生々しくぬめる肉塊に照る涎の伝う牙、背に生えた翼でさえもまるで皮すべてを引っぺがしたかのようなそれである。
おぞましい、その証言が最も似合う化け物に俺たちは……街は蹂躙を受けていた。
「ヤツが怯んだら走れ! 頼むぞオルガ」
「言われなくても分かってるよ! とにかく生き延びるよ、みんな!」
安藤が叫び、それに応とオルガが続く。オルガに導かれ少し腐竜から離れ、物陰に隠れて様子を見る。
素人の加勢など無駄だと、今までですでに痛感しきっていた。
合図もなく安藤は目の前に飛来してきた腐竜に向けて、まさしく跳びかかる。煉瓦詰めの路地を抉る金属音、上段からの振り下ろしは腐竜を一歩引かせるには十分すぎた。肉と肉が引きちぎられるような音が響く、安藤の振るう鋸鉈が腐竜の眼球を一つ、真ん中から叩きそして挽いたのだ。
まさしく、鋸を挽くように。
つぶれた眼球を抉り出された腐竜は怒り狂ったように吠え、大口から燃え盛る火の球を吐かんとばかりに炎を漏らす。安藤が動くのは早かった、火の粉が見えた瞬間にはすでに駆け出していた。
「Gaaa!!」
火の溢れる大口に叩き落された鋸鉈が、まるで杭のように刺さり行き場を失った炎はその場で爆発を起こした。
爆風がこちらにまで飛んでくる、風の中で吹っ飛ばされて地面を転がる安藤の姿も辛うじて見えた。
「安藤!」
「大丈夫、だ! 今のうちに抜けるぞ」
焼け焦げた頬から滲む血を見ないふりをして、俺は迷子だった少年とその母親の様子を見る。怯えてはいるがまだ折れていないことが色からも分かる。だからまだ走れる。
「正門まであと少し、あと少しだから」
こっちのほうが早いとオルガが迷子だった少年を背負い、母親をせかすように声をかけながら走り出す。自分の得物を回収した安藤もまた同方向に駆け、俺もその背を追いかける。
道端で多くの人が死んでいる、倒れている。それでも助けることなんて浮かんでも選択肢としては見えなかった。気が触れそうなほどの血の匂いと靄の色が視界を支配しかけても、腕で振り払ってとにかく逃げた。
「藤咲、靄は」
「この先はまだ薄い、から人はいないと思う」
「よし」
靄の立ち上る場所には人がいる。逆手にとれば靄のないところには人はいないのだ。色のついた靄のことは学生生活のころから安藤にも相談してはいた、その時はどうにもならなかったが今はとんだ使い方があるのだと知ってしまった。
ただ、前方は晴れていても後方はひたすらに闇だった。
足を止めれば呑み込まれてしまうような絶望の色、においすらも感じることができない暗闇は今にも生き延びようと、逃げようとする人々から発せられているものらしかった。
それだけ、この街は平和だったのだろう。
「正門だ!」
「閉鎖処理が始まってるよ!? 急いで!」
瓦礫と死体を飛び越えて、ようやく門が見えてきた。しかも閉まりかけているじゃないか!
これでもかと力を込めて走り抜ける、門が閉じる速度はまだそこまで早くはなかったおかげで滑り込むことができた。勢いあまって門をくぐるところですっ転んでしまったが、門をくぐることは出来たのだからいまさらすりむき傷なんて痛みすらない。
「セーフ!」
後に続いてなだれ込んでくる街の人たちから逃げるように門から距離を取ると、街を覆う壁の向こうから立ち上っていた靄がさらに強くなったのが見えた。
「これ以上は無理だ! 閉門!! 閉門するんだ!!」
「ダメです閉じ鎖が起こしていて正門、閉じません!」
「釣り鎖を斬れ!! これ以上竜を外に出すな!!」
壁の上から聞こえてくる怒声が、熱風の中にあったはずの俺の血の気をさらに氷点下に叩き込んだ。
「まさか」声がこぼれる、誰の声だったかはわからない。傍らに卸された迷子だった少年は、母親の腕に抱かれて震えていた。
「冗談だろう……」
戸惑いの声が、大きな爆発音じみた金属の音でかき消される。
小さな地鳴りに近い衝撃音が消えたのちに蔓延った静寂は、ただ目の前で閉じてしまった正門が鎮座するのみだった。門の向こうから悲鳴が聞こえる、正門を開けろと怒声が聞こえる。しかしそれも、竜の咆哮が消えたのちに全てが消えてしまった。
自分たちは、生き延びた。
それだけの話だった。
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「それじゃあ、もう迷子にならないようにね」
呆然が抜けた正門城壁外園、近くの馬車屋に立ち寄り親子はそのまま故郷へと帰っていった。
力なく微笑んだ母親は今回の礼だといって紫水晶を俺に手渡し、そうして子供と一緒に手をつないで馬車に乗り込んだ。二人の命を助けることができたんだ、と安藤は言う。それでも俺にのしかかった重圧は、抜けようとはしなかった。
オルガは親子を送ったあとも、しばらく心配そうに正門を眺めていたが何を言うこともなかった。
「うっかりしていたよ、今日があの日だったなんて完全に失念してた」
街道であった旅道具屋で買ったらしい竹のような筒に入った水を手渡される。その矢先でオルガは疲れた顔でそうぼやいた。
今は正門から少し離れたところにある、廃止された関門の近くにやってきており、動きっぱなしだったこともあってもう休もうと夕暮れから夜に染まる木の下で休息をとっていた。
今日は野宿になるらしく、安藤はずっと腐竜を退けていた疲れからかさっさと木陰で眠ってしまった。
焚き木の様子を見ていた俺は、どっちかといえば目が冴えてしまっていた。
「あの日?」
「腐椿の日、アルテマ市街地が腐敗者たちに落とされる日だよ」
「……予告されていたのか」
「予告っていうか……うん、まぁ、ボクたちにとっては予告されていたようなものだよ。あそこの人たちにとっては、悪夢だけど」
オルガは俺の隣に座ると、おもむろにバッグから何かを取り出して俺にまた手渡した。
「まだ食べてなかったでしょ。大丈夫そうならお腹にいれといたほうがいいよ」
ラップのようなものに包まれたサンドイッチだった。確かにここまで何も食べてはいなかった、食欲はなかったけれど食べないといけない。
何が起こるか分からない、それをもう嫌というほど知ったのだ。空腹で動けないなんてなさけない状況にはなりたくない。
「藤咲くん、これからの行先は決まってるの?」
「え……あー、ええと……確か、アプリカントに向かえって言われていたような」
「アプリカントかぁ……」
オルガはうーんと考えると、すぐに顔を上げて俺の方に向きなおった。
「決めた。ボクも同行するよ」
思わず目を見開いた、同行する、一緒に行くということなのだろうか。
とても人についていくような人には見えなかったこともあってか、しばらくポカンとしてしまう。
「い、いいのか?」
「キミはすぐ倒れてそうだし、鋸鉈は戦闘に関してはすごいけど他がダメダメだもん。乗り掛かった舟ってやつだよ、嫌なら別に……あれだけど……」
「嫌じゃない! 嫌じゃないから、え、ええと……よろしくお願いします?」
「うん、これからよろしくお願いします。藤咲くん」
奇妙な気分だった。
あんな悲惨なことがあったはずなのに、今日の今で笑えてしまっていることが。