第一話:間引き。
リハビリ作品。
人生ろくなものではないと一体何度思ったことか。
前略、高校二年生【藤咲智花】はとにかく運のない人生を送っていた。
高校生に上がったとき、なぜ通信制ではなく全日制を選んでしまったのだろう。どうしてわざわざ黒い靄で満たされている教室に行かなければならない選択をしたのだろう。学校なんて、結局勉学をするための箱だ。そこに押し込まれて窒息死する未来なんて見えていただろうに。
俺は、本当にバカだ。
「(頭痛い……)」
蹴られた腹を抱えて、壁に縋りつくように座り込んだままどれぐらい時間が経ったか。上級生の札付きの不良に目をつけられたせいで、やつらの気まぐれで俺の財布の中身は奪われる。
最近はもう無駄にささげるのも面倒だから、財布じゃなくて電子通貨に使えるカードを使うようにしたけれど相手方はやっぱり機嫌が悪くて、カードのカラクリはバレなかったもののしこたま殴られ、蹴られ……。
にやにや笑いの声が鼓膜について離れない、気持ち悪い。吐きたくなるぐらいの気だるさだけれどこれで吐いたら今日で嘔吐の記録を更新してしまう。酸っぱい唾液と胃液は無理やり呑み込んで、何とか立ち上がってチャイムを聞く。午後の授業が始まってしまった。
いつの間にか吹っ飛ばされていたメガネを拾い上げて、埃を払う。よかった、レンズは割れていない。フレームが少し曲がってしまったけれど、マシなほうだ。
「(授業……出るのめんどくさい……)」
目線を上げて遠くの教室を覗き見ると、相変わらず黒い、赤い、油彩絵の具をぐちゃぐちゃに混ぜたような靄が教室と校舎の中を満たしている。
此処からでも感じ取れる匂いは刺激臭で、大方、面倒くさい授業でもしているのだろう。
弁柄色は苛立ちの色、唐辛子の匂いは怒りの匂い。苔色は睡魔、赤墨は無関心。
汚い色が集まって混ざったら当然汚い色になるしかない。配色センスなんてないし線引きもくそもない、あんな場所にこれからまた行くのは本当に億劫で。
「(屋上、空いてるかな)」
保健室にいくの面倒くさいもんだから、ずるずる足を引っ張って屋上へ向かう。
靄の中をできるだけ息をせずに進んでいって、先生に見つかることもなく扉にたどり着くことができた。鍵は開いている、また鍵を閉め忘れていてくれたらしい。
扉を静かに開けば、湿っぽい風が吹き抜けた。相変わらず何もない、ただのコンクリート尽くしの屋上はあまり人も来ることがないサボりスポットだった。フェンスの縁に寝転んで、ぼうっと空を見る。今日は風があって幾分か過ごしやすい。
この様子だと雨が降るのだろうか。
「(どうでもいいや……)」
長くため息をついて、瞼を閉ざす。遠くから聞こえる喧噪の音と風の音だけが聞こえてくる。
だいたい、いつも通りだった。
「──とぅ!」
「うわぁ!?」
が、割とすぐに破られた。
額の上に何か冷たいものを当てられて飛び起きる、周囲を見るよりも前に悪戯の主はケタケタ笑って見せた。
「なんだ、一神か」
白い肌に染めたらしい金髪、長い尾のように縛った髪を風になびかせながらニコリと一神夕匕は笑った。
柑橘系の匂いと蜜柑色、あいかわらずの調子でなによりだと俺は起き上がってからため息を零す。
一神夕匕はクラスメートだ、というよりもあのクラスの中では結構珍しい友達というやつだ。
彼は海外とのクォーターらしくて外見は海外人寄りだが、れっきとした日本人。昔なじみというわけではないが、高校生としては一年の頃から付き合いがある。
性格もよくて豪快、皆の人気者だ。
まぁ、その人気者が思いっきり授業をサボっているのだが。
「チカの姿が見えないからまーた絡まれてんのかって思って探してたんだよ、その様子じゃ手遅れだったみたいだな」
「あはは……まぁ、そのとおりで」
「笑いごとじゃねえよ、チカ。そういうのはちゃんとセンコーに相談しねぇと、どうにもなんねぇぞ」
そうは言われても。
人は危機的状況になっても猫を被ってしまう人種がいる、それが俺、藤咲智花という人間だった。一神は本気で心配してくれているのだろう、悲哀の留紺色がにじみでている。でも、それでも。
言えないことには変わりないのだ。
「そういや話は変わるけどさ、チカ、お前は進路もう決めてんのか?」
「へ?」
「いやー、ほら大学とか就職とか、もう二年生の時に粗方方針決めといたほうがいいって言われてさー。お前はどうなのかなって」
考えるまでもなく、何も考えていないと答える。
そもそもここから先のことなんて考えたことがなかった。この変な体質のせいでしょっちゅう吐くし、人間関係が軒並みアウトだし、生まれてこの方バイトなんてものも出来たためしがない。俺のような人間が就職も、大学も選べるものなのだろうか。
「あ、やっぱそうなの」
「正直今の今まで忘れてた」
「うわぁ、お前らしいっちゃあらしいけど……あぁ、そうかぁ……」
参考意見が出なくて一神はため息をついた。
大きく風が吹いた、バタバタと髪がはためいて顔が痛い。
「なぁ藤咲智花、お前ってあの世は信じているか?」
風が吹き終わるその直後、妙に真面目に問われた。変だなぁと思いながらも「此処から飛び降りればあるかもな」と返す。
あの世なんて、お伽噺みたいなものだろう。でも無いと思い込むにしても寂しいから、いざ死ぬときになったら実際見ることができるだろうし軽く考えるだけでいい。
死んだ後のことなんて誰も分からないんだから……。
「残念だ」
「え?」
嫌に棘のある言葉で、俺は思わず振り返る。いつの間にか一神は立ち上がってこちらを見下すように見下ろしていた。
ただ、その状況に追いつくまでに時間はだいぶかかってしまった。
「一神、それ、なんだ」
潰されたような声で問う。
一神の手には何か四角い板のようなものが下げられていた。銀色と錆色に煌いて、曇りがかった世界でも鈍いそれは一体何だったのか。すぐに答えが出てこない。一神はごく自然に「それ」を引きずりながら、一歩、近づいた。
俺は思わず一歩引いた、とてつもなく心臓が痛い。恐怖、というものを後に追いついて理解する。
背にあったフェンスががしゃんと音を立てた。
「な、なぁ、なんだよ、それ。やめろよ、俺怖いの苦手だって、いつもいって──「対象藤咲智花、間引きを執行する」
大きく振りかぶった一神が、その手にもったそれを振り下ろす。他でもない俺に向かって。世界が急に速度を失ったようにゆっくりに見えた、その中で理解する。一神のもっていたあれは巨大な刃だった。そして俺はそのままフェンスごと突飛ばされて、屋上から足を離した。
遠くなっていく空が嫌にどす黒くて、一神の瞳がじっとこっちを見ているのが見える、風の音が靡く、一神から出る靄がなくなっている、匂いが何もしない、空が遠い、ああ、嗚呼──もうじき地面に着く。
俺は、ここで死ぬのだと。
そう理解するに時間は必要ではなかった。