低級悪魔
領域へ足を一歩踏み入れたリンに、部屋の奥の人型モンスターはゆっくりと首を動かした。
こちらを見つめるその眼は強膜がなく、不気味な二つの穴が空いているかのようだ。
その姿に怯む素振りもなく、リンは『威嚇』を発動する。
敵意に反応したモンスターの赤茶色の肌が、内側から鈍く発光し表面の紋様を浮かび上がらせた。
第二の部屋の番人は、体中に呪紋を纏った厄介な相手だった。
「引き付けます!」
斜め前に飛び出したリンが、僕のために射線を空けつつ回り込みながら人型へ駆け寄る。
その背後には、身を屈めたキッシェが続く。
走りながら弓を構えるキッシェ。
放たれた矢は、前を走るリンの肩口を掠るほどの近さで通り過ぎ、モンスターへと向かう。
『騙し矢』と呼ばれる狩人の中級技能だ。
盾役の後ろから放つことで、敵対心をなすりつけることが出来る。
同時に僕の『四連射』も、モンスターへと放たれる。
頭部を狙った二本と首を狙った二本。
その着弾点が大きくずれた。
辛うじて一本が頭部の角のような突起に当たっただけで、他の三本はモンスターの背後の壁に消える。
キッシェの胴を狙ったらしき矢は、なぜかモンスターの腕に当たっていた。
この外れっぷりはこの間、黄金の蛙で体験したのとそっくりだ。
モンスターが動くたびに、その体のあちこちが不規則に光を放つ。
無差別に呪紋を乱発してくる相手に、思わず声が漏れた。
「乱心か。面倒だな」
矢を回避したモンスターは、リンへ向き直ると大きく腕を振りかぶった。
拳ではなく貫手のまま、無造作に腕が突き出される。
その指先には爪がない代わりに、先の方まで堅く尖っているのが見えた。
綺麗な『受け流し』で腕を跳ね退けて、モンスターの懐をがら空きにするリン。
ちらりと見えたその瞳は、紅く染まっていた。
僕の矢が外れたことで、瞬時に『乱心』の可能性に気付いたんだろう。
その絶対の信頼が、少しばかり心地良い。
空気を引き裂く片手斧の一撃が、モンスターの胸部へと叩き込まれた。
独特の質感を持つ肌が、不気味に割れて血が溢れ出す。
うん、意外と強くはないのか。
奇怪な呻き声を上げたモンスターは、両手を大きく振り回した。
追撃に拘らず斧を戻して後退していたリンは、余裕をもってそれを躱す。
盾持が離れた瞬間を見計らって、僕はつかみ取った矢を一面にばら撒いた。
狙いがずれるなら、数で押し切れば良い。
幸いにも蛙と違って、的はとても大きいし。
十二本のうち、半分がモンスターの胴に刺さり焦げ目を生み出す。
血を流しながら、人型はまたも大きな唸り声を上げた。
「このまま押し切るぞ!」
前衛二人に声を掛けながら、僕は腕の筋肉を少しだけ休める。
数分耐えてくれれば、矢の雨を降らすことが出来そうだ。
なんて考えながら視線を味方に移した僕は、眼の前に繰り広げられる光景に言葉を失った。
なぜかモンスターに背を向けたリンが、懸命に片手斧を在らぬ方向へ振り回していた。
それを止めようと必死の顔付きで近付いたキッシェが、妹の肘鉄を胸に喰らって跳ね飛ばされる。
「リン、何やってんだ?!」
「目が、目が見えません!」
「後ろ、後ろだよ!」
「分かりました!」
起き上がって再び背後からリンを羽交い絞めにしようとしていたキッシェが、盾撃をまともに食らってまたも宙に浮いた。
入れ替わるようにモンスターの振り下ろした一撃がリンに綺麗にヒットして、弾かれた少女はこっちへゴロゴロと転がってくる。
一瞬で優勢をひっくり返されて唖然としつつも、通路に控えている我が小隊の切り札へ急いで指示を飛ばす。
「ミミ子、時間を稼いでくれ」
「あいさ~」
僕の幻影がモンスターの前に躍り出る。
その隙にリンを通路へ何とか引っ張り込む。キッシェは無事だったようで、壁際で身を伏せながら僕に頷いて見せた。
不安そうに震える姉の顔を覗き込んだモルムが、少しホッとした口調で診断結果を述べる。
「…………これは、『盲目』状態だね」
「そっか、魅了じゃなくて良かったよ」
目が見えないリンをモルムに託した僕は、部屋の様子を窺ってまたも言葉を失った。
なぜかモンスターの数が増えていた。
と言っても人型は一匹だけで、新たに居たのは見たこともない小型のモンスターだった。
生まれてくる前の胎児のような不気味な格好のそれは、モンスターの足元の血溜りから文字通り生えていた。
見ていると人型の胸から垂れ流された血が床に溜まり、そこからまたも赤子のようなモンスターが這い出てくる。
へその緒のように赤い管で血溜りと繋がったまま、唐突に小さなモンスターたちは甲高い声を一斉に張り上げた。
黒板を引っ掻いたのとそっくりそのままな音に、僕は思わず弓から手を離して耳を塞ぐ。
叫びは十秒足らずであったが、こちらの動きを封じ込めるには十分であった。
特にミミ子は耳が良すぎたせいか、頭を抱えたままうずくまって身動き一つできない有り様だ。
棒立ちのまま動かない僕の幻影に、人型モンスターの腕が叩き込まれあっさりと消え去る。
やっぱり、そう簡単には倒せないか。
改めて番人の手強さを思い知らされた僕は、こちらへ向かってくるモンスターを睨みながら、戻れと小さく呟いた。
▲▽▲▽▲
「低級悪魔?」
「…………だと思う」
自信があるのかないのかよく分からない顔で、巻き毛の少女は小さく首を傾げた。
「悪魔なのか、あれ。あの小さいのも?」
「…………あっちは小悪魔」
この二日ほど、モルムはニーナク先生の書庫に潜入したり、お茶会の魔女姐さん方に聞いて回ってくれたらしい。
そして得られた結論が、あのムカつくモンスターどもの正体であった。
悪魔とは混沌の領域の住人で、情報生命体という分類らしい。
普段は肉体を持たず、情報を喰って生きているのだとか。
それがたまにあんな風に、混沌を広めるために現世に具現化するとのこと。
「押し付け迷惑だな。全力でお断りしたい」
「…………悪魔召喚は制限事項だから、そんな簡単には呼び出せない筈だよ」
まあ今回は迷宮が召喚主だし、文句を言っても始まらないか。
「で、リン。思い出せたか?」
「えーとですね。最初はちょっと怖くなったです。それといきなり目の前が真っ黒になって――」
「私も急に声が出なくなりましたね。あとなぜかリンを止めなきゃってことばっかり」
「…………『恐怖』、『盲目』、『沈黙』、それに『強迫』?」
「あとは『乱心』か」
まさに状態異常のオンパレードと言った感じだ。
「それに流した血から、仲間を呼び出せるのもあったな。あっちの対処も考えないと」
低級悪魔自体に、それほどの攻撃力はなさそうだった。
だが呪紋の効果でこっちの攻撃は当たりにくいし、当たったとして今度はその流血からモンスターが増えてしまう。
戦闘が長引くほど、どんどん不利になっていくな。
「ミミ子の幻影盾を使えば呪紋の効果はある程度無視できるし、あとは矢でちくちく削る作戦でどうだろう」
「難しいかも~。たぶんすぐに見抜かれるよ」
「えっ、そうなのか?」
「…………悪魔は嘘を見分ける能力があるって、じいじ先生が言ってた」
それは困ったな。
でもリン盾だと呪紋の状態異常が厳しいし、ここはもう諦めてニニさんに出張って貰うべきか。
と思っていたら、くいくいと袖を引っ張られた。
視線を下げると、モルムが誇らしげに顎を持ち上げていた。
「可愛いモルムさんは、もしかして何か素晴らしいアイデアでもお持ちですか?」
「…………うん、ちょっと良い案なら思いついたよ」
『騙し矢』―狩人の中級技能。たまに失敗して喧嘩になる
『盲目』―魔術士の第二階梯呪紋。視力自体を低下させるのではなく、視覚情報の伝達を阻害するので目薬とかは無意味
『沈黙』―魔術士の第二階梯呪紋。一種の失語症状態に陥り、発話障害が引き起こされる。声自体は出そうと思えば出せる
『強迫』―『集中』の反転応用。思考の固定化を行う。悪用が利くので禁止呪紋に指定されている




