ご機嫌伺い
迷宮都市は、まず迷宮ありきである。
街の中心部には地下への入り口と、それを覆い隠す迷宮組合が建てられている。
組合建物の前は大きな広場となっており、集客力のある闘技場や劇場が軒を並べる。
もっとも以前は広場を取り囲むように石壁が作られ、迷宮からのモンスターの逆流に備えていたが、それも今となっては遠い昔の話だ。
地盤の沈降を考慮して、中央部での大きな建物の建築を禁止した法もとうに形骸化している。
だがその代わり、金板以上の探求者専用住居は中央部付近へ寄せられるようになった。
緊急時においてもっとも頼りになるのは、金の掛かる壁と警備兵ではなく、モンスターの扱いに慣れた高レベルという算段だ。
の筈であったが、なぜか元虹色級であるロウン師匠の家は、中心部からかなり外れた職人街の片隅にあった。
騒がしい路地の奥に辿り着くと、そこは別世界のような景色が広がっていた。
木枯らしなぞどこ吹く風と言いたげに、玄関を彩る鉢植えからは白い花々が顔を出し、潤いを帯びた温かな空気が周りを取り囲む。
よく見れば白い花の鉢植えは、我が家の玄関に置いてあるのと一緒であった。
なるほど、ここから株分けして貰ったんだな。
「ごめん下さーい。師匠、おられますか?」
扉を軽く叩いて、呼び掛ける。
少しの間が空いたあと、ゆっくりと戸が開き気難しそうな老人が顔を出す。
「なんじゃ。今日は小僧も一緒か――っと狐の嬢ちゃんもか」
「ラギギさんにお呼ばれで来ました。これリンが焼いたパイです。美味しいですよ」
「ほほう。小僧にしては気が利いとるのう。あいつなら、いつものとこじゃ」
ウズラ肉と卵のパイが入った籠を、ロウン師匠に手渡して中へ入れて貰う。
通い慣れたキッシェについて行きながら、家の中を失礼にならない程度で見渡す。
大きめの窓から差し込む光が、天井から吊るされた植木籠から伸びる蔓を照らし出す。
所狭しと並べられた鉢植えたちに、深い森の中を散策するような気持ちになる。
緑の通路を抜けると、そこにあったのはうららかな春の眺めだった。
もう冬支度が始まってる時期なのに、和やかに水を吹き上げる泉からは陽気な風が吹き寄せてくる。
季節感をどこかに置き去りにしたかのように、庭の隅々まで植物が生い茂っていた。
青々と蔓が垂れる棚の下、椅子に座る人影が見える。
丈の長い前あわせの青い服に白絹の手袋と、その人物はとても上品な格好をしておられた。
首元から顔全体を滑らかに覆う緑色の鱗と、藍色の大きな瞳。それとやや大きな口元。
竜鱗族のラギギ導師は、鱗肌を除けば普通の人と全く変わりがなかった。
むしろとてもお綺麗だった。失礼な話だが、もっと蜥蜴っぽい外見を想像していたのだが。
まあ混じりもののキッシェが、これだけ人間らしいのだ。もう少し推して知るべきだったな。
「こんにちは。今日はお元気そうですね、導師」
「あら、いらっしゃい。キッシェちゃん」
女性は手にしてた編みかけの籠をテーブルに置いて、僕らに微笑みかけてくる。
「初めまして。いつもキッシェがお世話になってます」
「あら、あらあら。キッシェちゃんの大事な人は、随分と素敵な方なのね。初めまして、ラギギと申します」
「ほら、ミミ子も」
僕に急かされたミミ子が、ぺこりと頭を下げる。
そのせいで、頭の耳付きフードがぱらりと落ちた。
獣耳が露わになったミミ子を、ラギギさんは目を細めて見つめる。
藍色の竜眼の瞳孔が縦に伸びると、ちょっと迫力がある。
「あなたが噂の火の導き手の方ね。あら凄い。ずいぶん愛されてるのね」
ラギギさんの言葉は、純粋な称賛に溢れていた。
その真っ直ぐな目が、ミミ子のショートパンツから伸びる三本の尻尾を映し出す。
僅かに瞳を翳らせながら、ラギギさんは言葉を続けた。
「もしかしてと思ったけど……あの方とご縁が?」
「はい。祖母です」
いつもと違うミミ子の真面目な口調に、僕はちょっと驚きながら振り返る。
ミミ子の端正な顔は少しだけ赤く染まっていて、そして心持ち沈んで見えた。
「やっぱり。どこか面影があるわね」
「ミミ子の御祖母さんとお知り合いなんですか?」
顔馴染みのように語り掛けるラギギさんに、思わず尋ねてしまう。
「以前、とてもお世話になった方なの。ご存知ないかしら、『大輪牡丹』の姫君と呼ばれた方よ」
「浅学ですみません。聞いたことないです」
と返事をしたら、キッシェが珍しく眉を大きく持ち上げる。
「旦那様、以前一緒に見た劇の……ほらあれです。『迷宮に咲くは、恋の牡丹』」
「ああ、ええ、えええ!」
たしかあの演劇は、超有名な虹色級の探求者が元ネタだったような。
そんな有名人の家系だったのか、ミミ子。
「立派な方でしたけど、とても気さくな人で、駆け出しだった私たちに色々と教えてくれたのよ」
「そうだったんですか。不思議な縁ですね」
「ええ、とても不思議」
そう言いながらラギギさんは、静かに頬を緩めた。
なんだか穏やかな空気が流れて、ほっこりした気分になる。
この中庭は外の喧騒が嘘のように深沈な佇まいで、ラギギさんの出す雰囲気ともあいまって、とてもゆったりと時が流れていた。
キッシェにあれだけ、落ち着きが出て来たのも納得がいく。
「なんじゃ、盛り上がっておるの」
そんな空気を打ち破る声に、僕はまたも慌てて振り返った。
ロウン師匠は本当に気配が読めないから、つい本気で反応してしまう。
「ほれ、茶を淹れてやったぞ。座れ座れ」
「ありがとうございます」
勧められるまま椅子に腰かけると、お盆に載せた湯呑を瞬く間に配っていく。
この都市では珍しい緑茶の渋みを味わっていると、僕をじっと見ていたロウン師匠が口を開く。
「小僧、たまには訓練場に顔を出せ」
「はい。近いうちに伺わせて頂きます」
言われてみれば組合の訓練場には、久しく顔を出していない。
この数ヶ月は、キッシェたちのスキルアップに夢中だったしな。
僕の返事に満足したのか、師匠は少しだけ嬉しそうに顔を綻ばせた。
そして急に真面目な顔に戻ると、奥方のラギギさんに声を掛ける。
「今日はどうして小僧が来とるんじゃ?」
「キッシェちゃんの大事な方を、一度紹介して欲しくて」
「そうか。小僧はどうだ?」
「ええ、とても良い人ね。流石、キッシェちゃんの選んだ人だわ」
唐突に褒められて、なんだかかなり照れくさい。
「少しお話しさせてもらっても良いかしら?」
「はい、何でしょうか?」
「そろそろキッシェちゃんの、精霊使いのレベルを上げて差しあげようかと思って」
「そうなんですか。凄いな、キッシェ。 ……うん? 上がるじゃなくて上げる?」
「そうなの。精霊の契約量って放っておいても上がるのだけど、ちょっとした技を使って器を広げることも出来るの」
「器を広げる?」
「ええ、精霊使いは元々、契約のために体の中に器を持っているの。それを少し手助けすれば、大きくするのも簡単なのよ」
そこで一息いれたラギギさんは、とても柔らかい表情で僕らと向き合う。
「ただね、精霊を扱うのって感情がとても大事なの。精霊たちって心に従う存在だから。だから多くの精霊と契約すれば、それだけ大きな影響を受けるわ……器を広げることは、良いことばかりじゃないの」
押し黙った僕らを前に、ラギギさんはさらりと言葉を続ける。
「なんて大袈裟に言ってみたけど、ずっと頑張ってきたキッシェちゃんなら、きっと大丈夫よ。こんな素敵な人が、支えてくれてるのだから。でしょ? ミミ子さん」
「うん。キッシェなら問題なしだよ~」
ミミ子の軽い太鼓判に、それまでの真面目な緊張感が鮮やかに打ち消される。
いい感じで肩の力が抜けたのか、いつもの顔付きに戻ったキッシェはラギギさんに静かに頭を下げた。
「お願いします、導師」
キッシェの呼び掛けに、ラギギさんはそっと白い手袋を外す。
現れた彼女の手は、黒ずんだ鱗で覆われていた。
「それって、もしかして――!」
「ええ、黒腐りよ。嫌なものを見せてしまって、ごめんなさいね」
「……わしらはこれに随分と悩まされておってのう。実は迷宮に潜っておったのも、これを完治させる魔法具や聖泉探しが目的じゃった」
前にメイハさんに聞いた話だと、この黒腐りの病は亜人の女性が感染しやすく、治療法や特効薬が未だに確立されていない病だそうだ。
主に血液感染で伝播し、それ以外の感染例は見つかってないとのこと。
そして罹患者は内臓、特に子宮の機能が失われやすく、子供を生むことが非常に困難となる。
だからロウン師匠とラギギ導師の御夫妻の間には、子供がおられないのか……。
「手を触ったぐらいじゃ決して伝染りはせんが、どうする?」
ロウン師匠の声には、いつもの飄々とした響きが少しだけ欠けていた。
その言葉に躊躇いもせず、キッシェの手がラギギさんの手に重ねられる。
「私の母は、この病で亡くなりました。でもなぜか私は罹らなかったんです」
「…………そうだったの」
「だから導師のことを……、導師にずっとお伝えしたかった。御病気を気になさらないでと……どんなことがあっても、私の大切な導師は、ラギギ様だけです」
キッシェの瞳から、小さな雫がこぼれ落ちる。
ラギギさんの頬も、同じように雫が伝っていた。
二人の雫が重なった手の甲で混じり合い、奇妙な共鳴を起こす。
それは幻想的な風景だった。
螺旋を描く水滴が、二人の間をゆっくりと巡る。
輝きを放つ水晶の粒が、キッシェとラギギさんを繋いでいく。
そのまま天に昇りながら、渦巻く雫たちは音もなく消えていった。
ほんの数秒の出来事だったが、それは決して忘れることの出来ない光景だった。
「ありがとう、キッシェちゃん。受け取ってくれて」
ラギギさんの一言に、キッシェは声を返せず小さく嗚咽を漏らした。
僕は何も言えず優しい笑みを浮かべるとラギギさんと、その肩にさり気なく手を添えるロウン師匠の姿に見入っていた。
師匠の家からの帰り道、ずっと黙りこくっていたキッシェが僕に深々と頭を下げる。
「ご心配をお掛けして申し訳ありません、旦那様」
「いや心配はあまりしてないよ」
「そうなんですか」
「僕はキッシェの判断に、全幅の信頼を置いてるからね」
「それはそれで少し困りますね」
キッシェは自分の導師そっくりの、落ち着いた笑みを僕に見せる。
「ところでお腹の調子は大丈夫?」
「お腹? いえ特に痛めてませんが」
「さっきの儀式の後、ずいぶんとお腹を庇っていたから何かあったのかと」
「ああ、それですか。実は内緒ですけど、精霊の器ってここにあるんですよ」
彼女は自分の下腹を、愛おしそうに撫でる。
「魔術や法術は頭で創り出します。治癒術や禁命術はここ、心臓ですね。そして精霊術は子宮から生まれるんですよ」
「初めて知ったよ。あ、もしかして精霊術って女性しか駄目なの?」
「いえ、男性にも使えますよ。男性の場合は、使役する精霊が脊髄に宿ると聞いてます」
そう言ってからキッシェは、何気ない風に言葉を続けた。
「導師と私には血の繋がりはありません。でもこうやって精霊を分けて頂いて、あの方と繋がりを持てたことが凄く幸せなんです」
そう言い切ったキッシェに僕は嬉しさを覚えた反面、少しだけラギギさんに嫉妬した。
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暗闇に五感の内、四つまで奪われながらも、キッシェは怯むことなく真っ直ぐに前へ進む。
不意にその行き先が歪められる。
回転床を踏んだのだと、体の奥底に潜む精霊たちが教えてくれていた。
ほんの軽く意識を集中させるだけで、入り口側の温泉の気配が楽々と感じ取れる。
水盤とにらめっこしながら、頑張って水場を読み取ろうとしていた頃を少しだけ懐かしく思い出す。
今のキッシェは『水探』に、わざわざ念じる手間を必要としなかった。
泉が背後に来るように意識しながら、暗闇空間を踏破していく。
一歩一歩、手に持った矢で先を探りながら、無音の闇の中を歩き続ける。
そして時間の感覚がやや薄れてきた頃、唐突にキッシェは光の中へ転び出た。
眩しい光に眼を細めながら周りを見渡すと、そこは石造りの細い通路だった。
暗闇から抜け出た達成感を噛み締めながら、腰のロープを揺らして到着を向こうに知らせる。
すぐに返事の振動が伝わってきた。
皆がやってくるまで、少し時間がかかりそうだ。
そう思ったキッシェは、通路の先へ忍び足で進む。
開け放たれた出口から見えたのは、中程の大きさの広間であった。
広間の一番奥に、立ち尽くす何かが見える。
眼をよく凝らしてみれば、それは骨の馬に乗り巨大な鎌を手に持つ骸骨の姿であった。
譲渡の秘儀―体内の精霊を、素養のある他者に譲り渡す儀式。親密な関係でしか行えない




