馴染みの暗闇
取り敢えず穴に近寄ってみた。
真っ直ぐに引かれた直線が、綺麗に石壁と穴の部分を分けている。
どう見ても人為的に作られた入口だ。大の大人でも、十分に入れる高さと幅がある。
しかしその内部は全く見通せない。
発光石の光がたっぷりと降り注いでいるが、穴の部分は頑なに黒いままだ。
これには見覚えがあった。五層で苦労したアレとそっくりだ。
「二人でなに遊んでるんですか? 仲良しさんごっこ?」
背後からのリンの声で、今さらながらに気付く。
まだモルムと頬をくっつけて、蛙の目玉を覗き込んでいる姿勢のままだった。
ちょっと遊び心が湧いたので、リンを招き寄せる。
「何ですか? ――って隊長殿、腕が!!」
穴に腕を突っ込んでみせると、驚きの声を上げながら駆け寄ってくる。
「何これ?! 痛くないんですか?! 血は出てないし――どうやってるんですか?」
「腕が急に吸い込まれてしまったんだよ。これは困ったな」
騒ぎを聞きつけて、キッシェも近寄ってくる。
もっとも目を丸くしているリンとは違い、その顔は落ち着いていた。
僕の表情と声から、緊急性の高いトラブルではないと判断しているのだろう。
壁に埋まったかのように見える僕の手の辺りをしばし見つめたあと、キッシェはその周囲を慎重に触り始めた。
リンもそれを見て壁を叩き出す。
面白いことに、二人ともなぜか存在しない筈の幻の壁を律儀になぞっている。
これは単なる幻覚ではなく、もっと強い錯覚が生じているようだ。
魔術による心理操作っぽいな……ああ、それでこの蛙の眼が効いたのか。
たぶん『乱心』の効果で、認識能力が狂ったせいで幻が解けて見えたのだろう。
「うう、腕の……感覚がなくなってきた」
「大丈夫ですか?! しっかりしてください、隊長殿」
「モルム、ちょっとどうなってるか見てくれる?」
「…………うん」
慌てるリンが可愛くて、つい悪のりしてしまう。
僕の意図を悟ったのか、モルムはヒョイと穴の中に顔を突っ込んだ。
少女の頭部が、壁の中にすっぽりと埋まる。
「モッ!!!!」
その瞬間、リンの眼が赤に変わった。
同時に握り拳が、凄い勢いで壁に叩き込まれる。
リンの見事な右アッパーは、全く物音を立てず壁に吸い込まれた。
空振り状態となった拳に引っ張られて、そのまま穴の中にリンの半身が埋まる。
「えっ、あれ? 私、今どうなってます?」
「ごめん!」
「…………ごめんなさい」
妹を助けようと咄嗟に壁を殴りつける姉の本気に、僕たちは素直に頭を下げた。
半分壁に埋まったリンを、急いで引っ張り出す。
まだ首を捻るリンにもう一度、頭を下げていると、溜め息とともにキッシェが口を開いた。
「そろそろ説明して頂けませんか? 旦那様」
▲▽▲▽▲
「それじゃあ、行ってくるよ」
「無理はなさらないで下さいね」
「気を付けてね~」
腰に結びつけたロープの端を固く握る少女たちに手を振って、僕はわくわくしながら闇の先へと進み始めた。
こんな誰も来ない場所に、ひっそりと隠されていた通路。
期待するなって言う方が無理がある。
もちろん、入る前に一通りのチェックと説明は済ませてある。
通路の床をなぞってみたが、埃が積もっていた形跡はなかった。
これは掃除屋が行き来している証であり、五層の暗闇回廊みたいな亡霊が居ない証拠でもある。
まあ言い切るにはちょっと根拠が弱いが、僕なら亡霊の精神攻撃もなぜか平気だしあまり警戒しなくても良いと思う。
それよりも怖いのは、落とし穴なんかの罠だ。
暗闇空間の中で陰湿な罠を仕掛けられたら、解除する術がないので受けるか避けるかの二択しかない。
だから体を張って、場所を覚える必要がある。
ちゃんと保険として、リンから『殉教者の偶人』を借りておいたので、即死クラスの罠でも一回は耐えられるはず。
それと入る前に、矢尻にロープを結んで撃ち込んでもみた。
今回は泉の水質調査だけだったので、ロープは一束しか持ってきてなかったのが悔やまれる。
一応、ロープの動きから考えて直線二十メートル間には、何の障害物もないようだ。
斜めに何回か撃ち分けてみたら、すぐにロープの引きが止まったので、真っ直ぐな通路だとも判断できる。
――通り抜けるのは思ったより、簡単かもしれないな。
なんて楽観的な気持ちになりつつ、手の中の暖かみを握りつぶさないように気を付ける。
ミミ子の狐火は、標的追尾モードと直進モードの使い分けができる。
今回は直進モードで、まっすぐ前方に撃ち出して貰った。
この通路の向きはコンパスで確認したら、北へ向いていた。
つまり地底湖の方へ向いているのだ。
どこで聞いたかも覚えていない噂が脳裏を横切る。
地底湖の先には湖底神殿が建立されているとか、謎の番人が護る宝物庫があるって与太話だ。
速まる鼓動を闇の中で強く感じながら、壁を触る右手の感覚と足元の感触を頼りに前へ進む。
歩数を数えながら、慎重に一歩一歩。
そして丁度八歩目で、左手の中の温もりが消失した。
「あれ?」
思わず声が出るが、闇に吸い込まれて自分の耳まで届かない。
気が付くと、壁に触ってたはずの右手の感触も消え失せている。
恐る恐る周囲に手を伸ばすが、なにも触れない。
頭上から真黒な重みがのしかかってくるような気持ちに息を呑みながら、腰のロープをおずおずと点検する。
大丈夫、ちゃんと結んであった。
だが何かがおかしい。
背後に伸びるはずのロープが、なぜか横に伸びている。
いつの間にか、僕の向きが変わっていた。
まさかと首を捻りつつ、ロープを背中の位置に戻して少しだけ前へ進んでみる。
案内の狐火を失ってしまったので、おっかなびっくりで手を前に突き出して歩く。
何かに触った感触がする。
大きくて平たい……これは壁か。突き当りまで来たのかな。
悩んだ時は、右へ進むのが人の性だ。
今度は左手を壁に付けながら、ゆっくりと歩を進める。
そして二十二歩目で、とうとう僕は光の中へと到達した。
眩しい光に目を細めつつ、部屋の中に佇む人影に急いで目を凝らす。
それらはどこか見慣れたシルエットをしていた。
そして聞き慣れた声で、僕を出迎えてくれる。
「お帰りなさいです、隊長殿」
「…………おかえり。早かったね」
「……………………って、ここ入口かよ!」
最悪なことに暗闇空間には、回転床の罠が仕掛けられていた。
もしかしたらと思ったが、本当にこの組み合わせが来るとは。
この後、数度入り直して判った事は、まずモンスターは一度も出なかった。
通路は最初は一本道だが、途中で複数に枝分かれしている。
そして当然のことだが回転床も、複数個所に仕掛けられている。
ミミ子を背負って狐火を見失うたびに再点火することも考えたが、ミミ子曰くどっちが前か判らないから無理だそうだ。
壁伝いと背中のロープを頼って行けば、そのうち抜けられるかもしれないが、今日の僕にはもうその気力は残っていなかった。
温泉の湯を水筒に詰め込んだ僕たちは、諦めて引き上げることにした。
リベンジは、後日改めてすることにしよう。




