四層地図作り仕上げ
水滴が落ちる。
受け止めた水盤の上に波紋が広がり、幾重にも円を描いては縁で消えていく。
複雑な模様を描く水面に人差し指を浸していたキッシェだが、意を決したのか顔を上げ右の通路を指差した。
それを受けて、僕は背中のミミ子に振り返る。
ミミ子は小さく顎を持ち上げると、可愛く鼻を空へ突き出して匂いを確かめた。
そして少女の鼻先は、無情にも左へ向けられる。
打ちのめされたキッシェは、がっくりと膝をついた。
「まあまあ。今のところ四勝二敗だし、勝率五割を超えてるだけでも凄いよ」
「ありがとうございます、旦那様。今回はちょっと自信があったのですが残念です」
立ち上がって水盤に溜まった水を水筒に戻しながら、キッシェははにかんだ笑みを見せる。
すぐに己を戒める言葉を口にしていた昔とは違い、今の彼女には声を掛けた僕を気遣う余裕さえ備わっていた。
水の精霊を味方につけられるようになってから、キッシェは以前と大きく変わった。
どこか少し思い詰めていた雰囲気が消えて、穏やかな顔をよく見せるようになった。
それと見た目もグッと女性らしさが増した。特に肌艶の良さは、別人のようにしっとりつやつやだ。
たぶん性格の部分は、精霊術の導師であるラギギ様の影響が大きいのだろう。
とても良い方向への変化だと思える。
些細なことですぐに眉を寄せていた彼女が、時折ふと懐かしくはなるが。
少女たちとの四層での経験値稼ぎは、すでに二ヵ月目に入ろうとしていた。
季節は秋を過ぎ去り、冬にぼちぼちと足を踏み入れ始めている。
僕らの日々に、さほど大きな変化はない。
相変わらず仲良く暮らしながら、たまに喧嘩したり仲直りしたりと平凡で忙しい毎日だ。
でも探求者としては、ちゃんと成長している。
皆も新しい技能や呪紋を身に付けて、この二ヵ月はその精度を高めることに費やしてきた。
キッシェが先ほど水盤を使って行った『水探』もその一つだ。
水場の位置を探る精霊術なのだが、空気中の水分まで感じ取ってしまうので情報の読み取りがかなり難しいらしい。
今のところはまだまだミミ子の鼻には敵わないが、正解率はかなり上がってきているし、水没通路を正確に判別できるようになる日はそう遠くないと期待している。
僕らはミミ子が指し示した左の通路へと足を向ける。
先頭はキッシェ。少し間を置いてリンが続き、モルムを挟んで僕とミミ子がしんがりだ。
自然に隊列を整えながら、僕らはキッシェの先導で西へ向かう通路を歩き始めた。
しばらく進むと、前方から騒々しい音が響いてくる。
気配感知を使うまでもなく空き通路の占領者、単眼蛙の鳴き声だと分かる。
リンが盾を構えたまま前に出て、後ろに下がったキッシェが弓を構える。
モルムが黒骨の杖を宙に向けたのが、戦闘開始の合図だった。
僕とキッシェの弓弦が爆ぜる。
『ばら撒き撃ち改』と『ばら撒き撃ち』。
十七本の矢が空を裂いて、気味悪い蛙どもを一気に仕留めに掛かる。
残った蛙は『熱狂』の呪紋で誘き寄せて、リンの盾で押し潰すだけの単純な作戦――の筈だった。
だが放った矢のほとんどが、目標を外れ床へ当たって消える。
そして大声でわめいていた蛙たちは、攻撃の意図に気付き一斉にこちらへと眼を向けてきた。
ぎょろぎょろと剥き出しに近い眼球を向けてくるモンスターにうんざりしながら、僕は背中のミミ子を揺すって起こす。
「またアイツか! ミミ子、頼む」
「うっ? 何~?」
「起きろ。金色蛙が出た」
「また~? はいはいっと」
欠伸をしながら、通路にじっと目を凝らすミミ子。
その間も大量のモンスターたちが、石床を蹴り飛ばして僕たちへと迫る。
数匹なら盾で防ぎきれるが、この量は流石に不可能だ。
だが盾を構えたまま、リンは微動だにしない。その背中には、一端の盾持の風格が備わっていた。
「…………任せて」
魔術士の少女は低くつぶやくと、宙に呪紋を描いていた杖をバトンのようにくるりと引っくり返した。
描きかけの呪紋を放置して、杖の反対側で新たな呪紋を即座に描き出す。
――――『誘眠』。
発動した眠りの束縛に、先頭の蛙たちがパタパタと床に落ちる。
寝入った仲間を乗り越えてくる後続の蛙に対して、モルムの杖が止まらぬまま新しい呪紋を瞬く間に描き上げる。
――――『恐怖』。
蛙どもの足が完全に止まったのを確認して、少女は帽子の鍔を弾きながら、くるりと胸元の砂時計をひっくり返した。
わずか数秒の間に二つの呪紋を描き切って、大量のモンスターを足止めしてみせた手腕に僕は内心で拍手を送る。
そしてモルムが稼いでくれた時間は、事態を打開するには十分であった。
「見つけたよ~」
ミミ子がのん気な声を上げて、指を鳴らす仕草をする。
生み出された『狐火』が、通路の奥へふわりと飛んでいく。
通路の闇に隠れ潜んでいたのは、一匹の単眼蛙だった。
一見すると何の変哲もない蛙だが、狐火に浮かび上がるその眼は金色に輝く。
単眼蛙の上位種、『金色目玉の一つ目蛙』だ。
蛙が長い時間、放置されると自然発生するこの上位種は、その眼の中に厄介な呪紋を秘めて生まれてくる。
『乱心』と呼ばれるその呪紋は、対象の認識能力を狂わせて狙いを外す効果を持つ。
先ほどの僕とキッシェが放った矢が、ほとんど当たらなかったのはそのせいだ。
上位種が放つゆえに生半可な抵抗では防げない凶悪な成功率を誇る呪紋だが、僕の小隊にはそれに打ち勝てる手段を持つメンバーが二人もいた。
一人目は狐火を放てるミミ子で、二人目は――。
「まっかせて下さい!」
狐火に導かれた白い鎧姿の少女が、通路を一瞬で駆け抜けた。
行く手を塞ぐ蛙どもを飛び越えて、標的の上位種まであっという間に距離を詰める。
金色蛙は取り巻きの蛙に紛れながら、背中のイボから麻痺毒を吹き出して対抗する。
少女の青い外套が華麗にひるがえり、受け止めた毒液を難なく弾き飛ばす。
そして睨み付けてくる金色の目玉に、リンの片手斧が一気に振り下ろされた。
あっさりと決着が付き、群れのリーダーを倒されて呪紋の加護を失った蛙どもは只の雑魚へと戻る。
後はいつもの清掃作業だ。
未だ動けない蛙どもに矢を撃ち込みながら、通路の奥から戻ってきたリンに手を振る。
「何か落ちてましたです。はい、どうぞ隊長殿」
蛙の体液にまみれた謎の物体を手渡してくる少女の瞳は、薄い赤に染まっていた。
見ている間にその瞳孔の色は薄れ、いつもの澄んだ青に戻る。
これがリンの新たに会得した力だった。闘血を高めることで、戦闘に対する集中力が一気に増すらしい。
なんでも赤い眼の通りニニさんのレべルまで、動体視力なんかの身体能力も上がるのだとか。
とは言っても生粋の戦闘種族には敵わず、効果は短時間で連発もできない。
けれどもこの『真紅眼』は、ここぞと言う時に使えるリンの必殺技でもあった。
リンも雰囲気が、ちょっと大人になった。
元気で前向きな言動は変わってないが、落ち着いた意見もたまに言うようになったりと。
上手くは伝えにくいが楽観的だった考え方が、楽天的な考え方に変わったような……そんな感じ。
なるようになると言いながら、そうなるように努力を惜しまなくなったと言ったほうが分かりやすいか。
忙しい家事の合間を縫って、ニニさんと熱心に稽古を続けたりと。そんなリンの頑張りが実を結んだのが、『真紅眼』だと思う。
そういえばリンのニニさんの呼び方が、いつの間にかニニ姫様からニニ姉になっていたな。
「で、なんだろうコレ?」
手渡された丸いそれは赤い体液がべっとりついていたが、ランタンに透かすと金色に輝く。
モルムが無言で差し出す布に載せると、丁寧に汚れを拭き取ってくれる。
「…………目玉かな」
「目玉だな……」
「目玉ですね」
金色目玉の一つ目蛙は、結構倒してきたが何かを落としたのは初めてだ。
そのままモルムに金色の目玉を預けて、先を急ぐことにする。
今日の目的地は、もっとずっと奥にあった。
▲▽▲▽▲
今回、四層のこんな場所に来てるのは、迷宮予報士のサラサさんとの会話が事の始まりだった。
「お久しぶりやね。どう、ボチボチやってる?」
「ご無沙汰してます。そうですね、まあまあな感じです。サラサさんの方はいかがですか?」
「最近はめっきり良い情報なくてねぇ。誰かさんが四層行ってからはサッパリやわ」
サラサさんの見透かすような眼鏡越しの視線を受けながら、僕は困った笑みを浮かべる。
この二ヶ月は地味な経験値稼ぎに勤しんでいたので、宝箱に出会える機会が全くなかったのだ。
銀貨一枚まで買い取り値を落としたが、水棲蒼馬のタテガミを売っていれば生活に困ることもないし、浮いたお金でちょこちょこと装備の買い揃えも出来た。
もちろん、ニニさんへの借金返済なんかもとっくに終わっている。
「なにか変わった事件とかは、ないんですか?」
「ないない、平和なもんよ。地味な案件と調査ばっかりで飽きて来るわ。ほんまウチも実生活で潤い欲しいわ」
そう言いながら、僕を意味あり気に見つめてくるお姉さん。
半年前ならまず間違いなくうろたえていた僕だが、年上の家族も増えた今は余裕で受け流せる。
「分けてあげたいですけど、こればっかりは難しいですね」
「君も言うようになったねぇ。ホンマ、相変わらず眠そうな顔やのに」
不満そうに口を尖らしていたサラサさんだが、不意に何かを思いついたのか口の端を持ち上げる。
「そうそう。そんな充実してる君に贈り物あげるわ。まさに君向けの一品やね」
「面倒事なら全力でお断りしますよ」
「まあまあ、そう言わんと。見るだけでもね」
お姉さんが強引に押し付けて来た依頼は、意外と面白そうな内容だった。
四層は南北に分かれる構造で、北は地底湖で行き止まり、南は枝分かれする通路となっている。
最南端の広場は、飛行器皿の狩場で有名だが、実は南西と南東にも通路は少しだけ伸びているのだ。
ただしメリットが全くないため、訪れる人はほとんど居ないのが現状である。
東の突き当りの広場は白鰐の生息地で、西の広場は地味な泉が一つあるだけである。
だから大抵の探求者は、最南端への往復が出来る地図しか作らない。
今回の依頼は、その西の泉の泉質チェックだ。
迷宮に湧く泉は神の奇跡の現れとして、建前上は組合の管理下に置かれている。
飲むだけで体力が回復したり、毒が中和されたりするらしいので、権利の独占的な面が大きいとは思うが。
その泉だが稀に水質が変化することもあるので、定期的な泉質調査が必要となってくる。
人気の泉なら、狩りの帰りにちょっと汲んでくれば済む。
だが近くに狩場もなく中継点にもならない泉の調査は、なかなか受けてくれる人が居ないらしい。
と言うか実は僕も、西方面の行き止まりに泉があったことは、今回の話で初めて知ったし。
「確かに面倒な依頼ですね。でも報酬はかなり良いのに……なんで受ける人が居ないのですか?」
「あ、やる気になってくれて助かるわ」
「いやいや、訳ありなんでしょ?」
「訳と言うほどじゃないんやけどねぇ」
あっさりと種明かししてくれた話によると、結局のところ時間に対して報酬が見合わないのが問題らしい。
誰も通らない通路は面倒な蛙天国になっており、その上時間を掛けて着いたゴールの泉にも何もない。
銀板級ならそんな割に合わない額をわざわざ稼がなくても、他のモンスターを狩った方がお金と経験値の両方が遥かに稼げるのだ。
「分かりました。お引き受けしますよ」
「しゃあないね。ウチもいい加減、報酬上げてってせっついてんのやけど」
「だから受けますよ」
「いやいっそ、報酬額を減らした方が――」
「サラサさんにはいつもお世話になってますし、今日は特に予定もないので」
喋るのを止めて、じっと僕を見つめるサラサさん。
そのまま無言で、僕をギュッと抱きしめてくる。うん、意外と大きい。
「もうウチ惚れさせてどうする気なん?」
「実は最近、ちょっとケルピー狩りに飽きて来てまして。気分転換に良いかなと」
「ホンマ男前になったねぇ。やっぱ唾つけとくべきやったか」
そんな戯言を言いながら、サラサさんはちゃっちゃと契約書類を作り始める。
サラサさんに恩義を感じていたのは本当のことだし、ケルピー狩りに新鮮味がなくなっていたのも事実だ。
でもこの依頼を受けた一番の理由は、四層の地図をきちんと完成させておきたかったと言うのが大きい。
地図って全部、埋まってないと何かイラッとするよね。
『水探』―水精使役術。精霊の居やすい場所を探るための術
精霊―人の目には見えない微細な存在。それ自体では自然現象を起こすことは出来ず、あくまでも現象の手助けをするだけの存在。例として火の精霊がいくら集まっても発火はしないが、燃えてる火に大量に集まると爆発する。
『乱心』―モンスター専用呪紋。感覚異常により命中率の低下を招く。現在も解析が進められているが、まだ人の手では描けない
『真紅眼』―リンとモルムがのりのりで付けたので、正式名称ではない




