静かな海
もしかしたら、ミミ子に起こされたのは初めての体験かもしれない。
とか思いながら寝起きの目を擦って、僕の胸を枕代わりにしてる狐っ子の寝顔を眺める。
どうりで、変な夢ばかり見るわけだ。
逆にミミ子の方は僕の心音に安心しているのか、いつも以上に穏やかな寝息を立てている。
間近で見るミミ子は、いつも通り寝顔美人だった。
透き通るような柔肌のせいで、艶やかに際立つ唇の赤から目が離せない。
閉じられた瞼を縁どる白い睫毛が、吐息にあわせて軽やかに揺れる様も愛らしい。
少しだけ眉間に皺が寄っていたので、指を当てて伸ばしてやった。
カーテンから差し込む光の加減と漂ってくる美味しそうな匂いからして、時刻は丁度お昼前といったとこか。
昨夜のボス戦で疲れ切って、今日は寝坊してしまったらしい。
まだ少し気怠い手足をベッドに預けながら、心地よい朝寝のまどろみに半分意識を浸す。
秋口に入った今頃は、少し空気がひんやりとして寝心地は最高だ。
どうせ今日は予定もないし、のんびりしようかと考えていたら、間の悪い小刻みなノックの音が響いてきた。
返事を待たずに開かれたドアから、大柄な影がするりと部屋に忍び込んでくる。
「たいちょーどの、起きてますかー? まだおねむですか? 起きないと悪戯しちゃいますよ」
囁くように呼び掛ける声と気配が、こちらに近付いてくる。
ほっぺにキスでもしてくれるのかと狸寝入りを続けていたら、ベッドを軋ませる誰かの重みを足元に感じた。
「もう、仕方ないなぁ。二番搾りも頂いちゃいますか」
「何やってんだよ、リン」
僕のズボンに手を掛ける赤毛の少女の頭に、おもわず起き上がってチョップを入れる。
「お早うです、隊長殿。お昼ご飯出来てますよ」
何事もなかったかのように挨拶してくるリンだが、その短めのタンクトップとショートパンツ姿は寝起きにはかなり不味い。
女の子のおへそって、男に軽々しく見せるものじゃないと改めて思う。
特にリンの腹筋は綺麗に縦線が入っており、僕の好みに物凄く当て嵌まる。
吸い寄せられた視線を外すことが出来ずにいると、さっき跳ね飛ばしたミミ子がベッドの端からずり落ちた。
▲▽▲▽▲
「よく、お休みになれましたか? 旦那様」
「ありがとう。逆に寝過ぎて体が少し怠いよ」
昼食の席に着くと、冷えたレモン水をキッシェがさりげない感じで手渡してくれる。
朝晩はだいたい一緒に食べているが、お昼に揃うのは珍しいなと思いつつ食卓を見渡す。
テーブルの奥では、エプロン姿のイリージュさんが子供たちの世話を焼いている。
今日のお昼は、薄く伸ばした麦餅に挽肉を包んで蒸した餃子と、干しブドウと松の実とレタスのサラダ、それにパンと林檎付きのコースだ。
「昼からなにするー?」
「冒険に行こう! こないだの噴水があった広場!」
餃子を頬張りながら、双子がはしゃいだ声をあげる。
その様子を、穏やかな笑みを浮かべたメイハさんが見守っている。
「お代わりはいかがですか?」
朝食の残り物らしい野菜たっぷりのスープを飲み干すと、キッシェがすかさず尋ねてくる。
甲斐甲斐しく付き添ってくれるのは、このところ一緒に小隊を組んでないせいか。
思えば彼女たちと出会ってから、こんなに長い間、別行動なのは初めてかもしれない。
キッシェのきりりと引き締まった横顔に見惚れながら頷くと、さっと湯気の立つスープをよそってくれる。
ちょっと熱いなと思いつつぼんやりと冷めるのを待っていたら、軽く前髪をかき上げて耳に掛けたキッシェが横からフーフーと吹き始めた。
「キッシェ」
「はい、なんでしょうか?」
「もうお昼、済ませたの?」
「はい、お先に頂きました」
だったら良いかと思い直し、キッシェにスプーンを手渡す。
僕の世話を焼くことで、彼女の心が満たされるなら何もいうことはない。
一口ずつ匙を口に運んで貰っていると、対面に座るモルムが林檎を噛りながら小さく首を傾げてくる。
その小動物のような仕草は、今日も素晴らしい可愛いさに溢れている。
「…………兄ちゃん」
「うん?」
「…………お昼から潜る?」
「うーん、どうしようかな」
ソニッドさんの小隊臨時加入は二週間の約束だったので、ちょうど昨日で終わりだ。
地図作りはほぼ完了したし、手伝いを約束しているボス戦は、連続でやるのはきついので今日は休みの予定だった。
軽く三層あたりで銀箱探しとかも良いなと思いつつ、返事をしようとしたらモルムの横に腰掛けていたニニさんが口を開いた。
「すまないが、今日はちょっと付き合ってほしい場所がある」
「良いですよ。ごめんな、モルム」
「…………ううん。その代わり来週は一緒だよ」
少女が小指を差し出してきたので、僕も小指を差し出して指きりの約束をする。
これもこの迷宮都市でしか見られない風習だが、何でも有名な演劇が切っ掛けで広まったんだとか。
「メイハも大丈夫かな?」
「ええ、私も特に予定はありません」
「どこへ行くんですか?」
「少し弔いに」
それ以上は何も言わず、ニニさんは食事に戻った。
口に運ばれる匙が震えていたので、脇を見るとキッシェの眉が凄い角度になっていた。
思わず手を伸ばして、眉根をほぐしておいた。
▲▽▲▽▲
「うわ、今日は一段と多いですね」
久しぶりにやってきた四層北区の地底湖の水面は、飛び交う光に覆われていた。
行ったり来たりと気ままに動き回る迷い火の群れを見ていると、思わず愚痴がこぼれる。
「最近は特に多くて、狩りにならなかったんですよ」
水棲蒼馬が狩れなくて、他の獲物を求めて四層をウロウロ歩き回った記憶が思い出されてくる。
「それは、ごめんなさいね」
なぜかメイハさんに、頭を下げられた。
「たぶん、私たちが原因だから」
首を捻る僕に、詳しい説明をしてくれる。
どうも五層の死を忘れた者たちは、少し特殊なモンスターらしい。
通常の召喚モンスターは、倒されると体の一部を残し消え去ってしまう。
だが煉獄より這い出てきたアンデッドモンスターは自然発生に近く、倒されると消えるのは一緒だが、その体を操っていた魂は残るのだそうだ。
その解放された魂の正体こそが、この迷い火というわけだ。
そして死者の魂は、水辺を好む習性がある。
これは煉獄で黒く焼かれた渇きを、癒やすためではないかという説があるのだとか。
つまり霊どもは下の階層からこの湖の水を求めて、わざわざ上がってくるのだ。
言われてみれば確かに僕らがここにやって来た時期は、メイハさんとニニさんのお二人がサリドールの形見を求めて五層の骸骨どもをなぎ倒していた時期と一致していた。
理由を聞かせてもらえれば、成る程と頷ける。
「それで、今日ここに来たんですね」
「ああ……別れをちゃんとしないと、化けて出て来そうな気がしてね」
ニニさんは黒い薔薇の花束を抱えながら、静かに頷いた。
サリドールが好きだった花らしいが、迷宮に持ち込む時に受付嬢のリリさんにかなり微妙な顔をされました。
湖面に近づき過ぎると迷い火たちが襲いかかってくるため、ちょっと離れた場所から祈りを捧げる。
特に今日は一際大きい輝きを放つ一団が、激しく飛び回っていてかなり危険だ。
「ゴー様、ちょっと下ろして~」
珍しくミミ子が自主性を発揮した。
床に降ろしてやると、気の抜けた顔のまま小さく指を鳴らす。
いや本人は鳴らせたつもりっぽいが、相変わらず音が全く出ていない。
ふわりと飛び立ったミミ子の狐火に、反応した迷い火が一斉に近づく。
お仲間と間違えているのか。それとも熱に惹かれているのか。
ゆっくりと湖面の上を進む狐火に、迷い火たちが従うように付いて行く。
湖の彼方へ消えていくそれらは、とても幻想的でなぜか少しだけ懐かしい気持ちになった。
「準備できたよ~」
「準備? 何の準備だ、ミミ子」
僕の問い掛けにミミ子は答えず、代わりに湖面を指差す。
そこには先程の目立っていた大きな迷い火たちが、狐火の誘惑を凌いだらしくまだ居残っていた。
「ケープは持ってきた?」
「あ、ああ。ここにある」
「じゃあ水に近づいて~」
サリドールの形見の白いケープを手にしたまま、ニニさんが水際に近付いて行く。
それに気付いたのか、大きな迷い火たちがニニさんに群がる。
止めようと思い近付こうとしたら、ミミ子の伸ばした手が僕の行動を遮った。
そしてニニさんが大きく掲げたケープに、輝きを放つ玉が集まっていく。
次の瞬間に起こった出来事を、僕はずっと忘れないだろう。
固まった光の玉たちは急速に輝きをなくし――人の形へと姿を変えた。
すべてが収まったあとに現れたのは、白いケープを羽織っただけで美しい裸体をさらけ出した少女の姿だった。
人形のように整った顔立ちのその少女は、僕らへと視線を移すとゆっくりとその可憐な唇を開いた。
鈴の音のような声が、僕らに語りかける――ことはなかった。
「…………腹が減ったのじゃ」
代わりに聞こえて来たのは、老婆のようなしわがれ声だった。




