五層ボス戦序
「すまないが、そろそろ離してくれないか。こんなことをしてる場合ではないだろう」
美人の大鬼のお姉さんを抱きしめて、なんか良い雰囲気に浸っていたら、真顔で至極もっともなことを言われました。
「それもそうですね……」
名残惜しい気持ちを断ち切って、ニニさんの背中に回していた手をしぶしぶ離す。
見た目は細く引き締まっている印象だけど、胸板に当たっていた感触の弾力と大きさは素晴らしかった。
つい、本音が口から溢れる。
「もうちょっと駄目ですか?」
「……いや、あと少しで『不変』が切れる。そうなる前に離れてほしい」
切れると何がどうなるかよく判らないが、嫌がる人に無理強いはしたくない。
僕の腕から解き放たれたニニさんは、ホッとしたような表情を浮かべた。
そう言えば『不変』を掛けてても、あの暗闇を抜けるのはこれ程きついのか。
と不思議に思ったが、後で聞いたところ心身を変化から守る『不変』は、外からの刺激には強いが内から起きる衝動には弱いそうだ。
思い返せば僕の芋嫌いも只の食わず嫌いってことだから、あの時効果が薄かったのも頷ける。
「ところで……お目当ての方たちには会えましたか?」
「いや、会えなかった。代わりに母に会えたよ」
「そうですか。暴走状態になってたらと、ひやひやしてました」
「心配をかけたな。すまなかった」
すっかり落ち着きを取り戻したニニさんだが、辺りを見渡してぴたりと動きを止める。
今、僕たちがいるのは、第六回廊の暗闇を抜けた先に広がる中心部だった。
ところどころ割れたり剥がれたりしているが、ほぼ隙間なく敷き詰められた石畳が中央の建物を取り囲んでいる。
巨大な石造りの建築物は、丸い屋根の部分が骨組しか残っておらず廃墟のように見える。
ここから見る限り入口は、直ぐそこに見えている大きな両開き扉しかないようだ。
素早く腰の縄を解いたニニさんが走り出す。
てっきり廃墟の偵察に行くのかと思ったら、比較的ましな石畳の上に寝かせていたミミ子に飛び付いただけだった。
「無事か? ミミ子君!」
「それ寝てるだけです。起こすと怒られますよ」
暗闇でかなり耳鳴りにうなされたらしく、着いた途端ミミ子は尻尾にくるまって寝息を立て始めた。
まあ非力なミミ子に皆を引っ張る手伝いは無理だし、僕の背中にリバースしなかっただけでも十分頑張ったと思って放置していた。
無防備な寝顔を晒すミミ子を、目を細めたニニさんが心のおもむくまま愛で始める。
普段はブラッシングが終わると、さっさと逃げてしまうのでチャンスだと思っているのだろう。
「まだ二人残ってますし、手伝って下さいよ。ニニさん」
「ふむ。まだ体調が戻ってないようだ」
さっき僕と抱き合っていた時よりも、遥かに良い笑顔になっている。
ミミ子に夢中になっているニニさんからの支援を諦めた僕は、まず軽い方のメイハさんを引っ張ることにした。
縄を軽く二度引くと、向こうからも引っ張る感触が伝わってくる。
女性の歩幅を考えて遅めのペースで誘導すると、あっさりとメイハさんはゴールに到達した。
ニニさんの時のように抱きしめて慰めようと待ち構えていたら、暗闇から出て来たメイハさんは普段と変わらぬ穏やかな笑みを浮かべていた。
「あら、ご無事でしたか?」
「……ええ。仕事柄、結構慣れてますから」
少し寂しげに眼を伏せるメイハさんの様子に、耐え切れず僕の手が伸びる。
「えっ? きゃっ!」
僕が急に抱きしめたせいで、メイハさんは可愛い悲鳴を上げた。
触れた部分がどこまでも沈み込むような感触と、花のような心地良い匂いに僕の心が高まっていく。
「あの、見られたら誤解されるわ。ね、ちょっと落ち着いて」
「嫌です」
我がままを言いつつ抱きしめていると、僕の体を掴んでいたメイハさんの手から力が抜ける。
抵抗を諦めてくれたのかと思ったら、その手は上に伸びて僕の髪にそっと触れてきた。
「しっかりしてるように見えて、まだまだ甘えん坊なのね」
メイハさんの白魚のような指が、優しく僕の頭を撫でる。
押し寄せる多幸感にうっとりしながら、目の前の女神の胸にそっと顔を埋めた。
ふわりと幸せに包まれる。
もうどこにも行きたくないなんて考えていたら、僕の腰がグイッと引っ張られた。
舌打ちしつつ顔を上げると、僕らの邪魔をしていたのはソニッドさんの縄だった
待ちきれずに催促してきたのか。
溜め息をついてメイハさんから離れた僕は、最後の一人を引き寄せる為に暗闇へ向き直る。
縄をきつく引くと、反発するような感触が伝わってきた。
気にせず強引に引っ張る。
しばらく、ぐいぐいと引っ張っていると途中でぴたりと止まった。
同時にくぐもった悲鳴が、闇の向こうから響いてくる。
「ニニさーん、いい加減、こっちもお願いします」
ミミ子の横で一緒に寝っ転がってニコニコしていたニニさんだが、僕の催促に仕方なく起き上がってくれる。
そのまま腕を回しながら近づいてきたニニさんは、僕の腰の縄に手を掛けると一気に引き寄せた。
派手に何かが転がったような音がしたが、もうこの際気にせず一緒になって手加減なしで引っ張る。
ずりずりと地面を引きずるような音がして、胎児のように体を丸めたソニッドさんが闇の中から現れた。
びくびくと震えながら縮こまる姿を見るに、よほど遭いたくない誰かがいたのだろうか……。
ここで男女を区別するのは、僕の主義に反している。
地面に転がっていたソニッドさんを無理やりに立たせた僕は、がっしりとその体を抱き締めた。
▲▽▲▽▲
「…………助かったぜ、坊主」
「いえ、どういたしまして」
少し頬を染めてそっぽを向くソニッドさんに、僕は無難な受け答えをする。
何だかちょっと気まずい雰囲気だ。
「それで……あれが、終着点か。誰かもう中を覗いたのか?」
「いえ、全員揃ってから入ろうかと」
「……やはり居ると思うか?」
「居るでしょうね」
もちろんボスの話だ。
正確には階層主と呼ばれていて、その層の最終試練に現れて挑んでくるモンスターのことを指す。
と言っても噂だけの存在なのだが。
一層から四層にはそれらしいモンスターは居ないし、五層以下の情報は流れてこない。
そういう奴がいるらしいってのは、探求者御用達の酒場近辺で囁かれる与太話の一つに過ぎない。
でもその噂を信じている探求者は、圧倒的に多い。
高レベルが行方知れずになるのは、そういった強敵の存在があってこそだと思いたい心理なのかもしれない。
「ボスが居るかは判らないが、素直に鍵が手に入るとは思えないな。用心するに越したことはないだろう」
「だな。どうもさっきから変な気配がしてて、この扉の先が読み取れねぇ」
気配感知を使ってくれたのか、ソニッドさんが難しい顔をしながらニニさんに相槌を打つ。
『均衡』、『不変』、『安定』と続けざまにニニさんが皆に掛けていく。
メイハさんが持ってきた聖水を撒きながら、祈りを込めてくれた。
ソニッドさんは手持ちの武器と道具を確認しつつ、僕の方を見て突入の合図をよこせと待ち構える。
ミミ子を背負ったまま、弓を構えた僕は大きく頷いた。
大きな鉄製の両開き扉は、錆びついていたのか押しあけると軋んだ音を上げた。
目の前に、大伽藍の内部の光景が広がっていく。
やはり外から判っていた通り、屋根の殆どが抜け落ちていた。
残っているのは梁に張られた黒く汚れた蜘蛛の巣と、ぶら下がる数本の鎖のみ。
そして発光石の明かりが差し込む内部の床には、天井の一部が突き刺さりそこここに影が出来ていた。
床の上には他に調度品もなく分厚い埃がたまっており、彩りもないくすんだ壁と合わせて、建物の中はがらんとした空洞を思わせる。
奥の方が少し盛り上がっているのは、祭壇の跡だろうか。
他に宗教的な雰囲気を示すものは何もない。
祭壇の手前には、黒い骨が山積みになっていた。
骸骨の山の上に影が一つ。
黒衣を纏ったその人物は、骨の山がまるで玉座かと思える態でそこに腰掛けていた。
入ってきた僕らに気付いたのか、その人影は顔を上げる。
さらりと風もないのに、黒い長髪が宙をなびいた。
こちらを見据える瞳も、闇を含んだかのように黒い。
その人物は僅かに眼を見開いたあと、黒い紐に縫い合わされた唇の両端を持ち上げた。
「サアアァァァアリイイィィイイイイ!!」
黒衣の少女に笑みを見せ付けられたニニさんが、廃墟に響き渡る絶叫を放った。
聖水―創世の祈りが籠められており、死を忘れた者の攻撃を緩和してくれる




