揚げ物戦争
淡く発光する手の平サイズの球体たちが、湖面の上を静かに舞っていた。
光ったり消えたりを繰り返しながら、勝手気ままに飛び回っている。
青白い光を放つそれらは、互いにぶつかり合うこともなく自在に宙をひるがえる。
波一つない水上の真っ黒な舞台の上で、無音のまま踊るダンサーたち。
視界一杯に広がるその様は、幻想的で心惹かれる光景…………ではないようだ。
「また迷い火ですか」
「こう頻繁だと困りますね」
少女たちは、うんざりした態度を隠さず言葉を交わす。
蛍みたいで綺麗だとは思うんだけどね――。
薄っすらと記憶の中に残る光景を僕は思い起こす。
夕闇、水のせせらぎ、明滅する光。
いつどこで見たのかさえも、はっきりしない。
ただ綺麗だなと思った気持ちは、心に刻まれている。
そういえば蝉もいないし、この迷宮都市には本当に虫を愛でる風情がないな。
「どうされますか? 旦那様」
キッシェの問い掛けに、僕はぼんやりと思い出にふけっていた頭を急いで切り替える。
いつもの狩場、水棲蒼馬が出現する四層の北エリアは、たまにこんな風に迷い火が大量発生して狩りが不可能になる。
この迷い火は、死を忘れた者の中でも一番下あたりの存在なのだが、とにかく面倒な相手だ。
こいつらは物質的な存在ではなく、現象のようなものなので普通の武器が通用しない。
得物を聖水に浸してから攻撃するか、聖銀などで作った武器を使うしかない。
聖なる祈りが使える治癒士も居らず、弓矢が攻撃の主体である僕らの小隊では相性が悪すぎた。
一応、矢を聖水に漬けてから撃つという手段もあるが、毎回やるのは面倒だし当たる前に乾いたりして効果も薄い。
その労力に見合うだけの経験値やアイテムを落とす相手でもないので、真面目に相手するだけ無駄である。
それなら無視して水馬を狙えばと思えるが、ふわふわ飛んでいるだけで一見無害に見えるこの迷い火たちには非常に厄介な習性があった。
死者の魂がさまよい出たと言われるだけあって、生きた相手――熱を持つ存在に群がってくるのだ。
初めて遭遇した時に、好奇心の強いリンがつい水際まで近付いたところ、一斉に集まってきて纏わりつかれた。
岸辺に座って光の球と戯れる少女の珍しい姿に、無邪気に歓声を上げていた僕らであったが、リンが血の気の引いた顔でガタガタ震えだしたのでようやく異変に気が付いた。
どうも座っていたのではなく、力が抜けてへたり込んでいたらしい。
迷い火の接触には脱力の効果があり、油断していると体熱を全て吸い取られる羽目になる。
追い払おうとして近付いた僕たちも、迷い火にあっという間に囲まれて慌てて巻き戻した経緯があった。
見た目は輝く青い火なのだが触られた瞬間、氷を押し付けられたような感触が肌を走る。
それが続けざまに襲ってくるとなれば、声を失って倒れ込むのも無理はなかった。
最初の経験のせいか、未だにリンは湖の傍には近寄ろうとしない。
「うーん、今日は三層の希望多かったっけ?」
「10小隊ほど、申請が出てましたね」
「……四層で稼ぐしかないか」
水没通路と同じく、この迷い火大量発生も予測が効かない。
ただ最近は特に起こりやすく、予定を簡単に崩されるのは頭が痛い。
四層はここの水馬以外だと、挑めるモンスターが白鰐か大亀という酷い選択肢しか残らない。
安易な皿割りレベル上げはやらないと決めたので仕方がないが、一癖ある相手ばかりなのはどうだろうか。
考えてみたが、まだ週半ばだし白鰐を選ぶのは止めておきたい。
あれは翌日が休みだからこそ挑める相手だ。
死力を尽くして勝利したが何も落とさなかった時の徒労感は、言葉に出来ないダメージがある。
「………………亀るか」
「亀です!?」
憂鬱な顔で光が乱舞する湖面を眺めていたリンが、嬉しそうな声を上げて振り向いた。
両手斧を振り回せる機会が、楽しみで堪らない様子だ。
それに対し、キッシェの眉が少しだけ持ち上がる。
彼女は数回ほどリンの『回転斬』に巻き込まれた経験があるので、歓迎する気持ちにはなれないのだろう。
そんな二人を横目にモルムはいつも通り、くるくるととんがり帽子の鍔を回して遊んでいた。
新しい装備を気に入った彼女は、暇があるとその仕草をしている。
どんな相手でも自然体なモルムを見てると心が落ち着くな。
ついでに和み度ナンバーワンのミミ子の寝顔を見ようと振り向いたら、珍しく真面目な顔で光が満ちる海を見つめていた。
「…………お腹すいたのか? ミミ子」
黙ったまま首筋をぺちっと叩かれた。
最近のミミ子は、何だか少し大人しい。
▲▽▲▽▲
その騒動が起こったのは、ちょうど夕ご飯の時だった。
「ご飯出来ましたよ」
リンの呼び声に、居間のソファで寛いでいた僕は起き上がって食堂へ向かった。
すでにテーブルには、メイハさんとキッシェ、モルムの姿が見える。
我が家では特に座る席順を決めていないが、だいたい年長者が上座に座るようになっていた。
「こんばんは、今日もお疲れですか」
やや、やつれた様子のメイハさんに声を掛けると、力のない笑みを浮かべられた。
『回生』があるので肉体的には大丈夫のようだが、やはり久しぶりの迷宮で気疲れがなかなか抜けないようだ。
席に着くと、ちょうど散歩組が帰ってくる。
ニニさんを先頭に、白犬ピータとその背の上で両手両足をだらりと垂らしたまま寝こけるミミ子、その後ろにはちびっ子四人の隊列が続く。
毎回、散歩の後にちびっ子たちに井戸でうがい手洗いさせ、ピータとミミ子の足を拭うニニさんの世話っぷりには頭が下がる。
見ているとニニさんが、ミミ子をそっと抱き上げて丁寧に椅子に座らせた。
背中の重みがなくなったピータは、黙って食堂隅にある餌皿の前に座り込む。
ちびっ子たちがはしゃぎながら席に着くと、見計らったようなタイミングでイリージュさんとリンがお皿を運んできた。
一つ目の大皿は海老と茄子と玉ねぎのクリームパスタだ。
子供向けの優しい味わいな上、野菜たっぷりで栄養バランスも良い。
ちなみに使われている茄子と玉ねぎは、家の菜園の取れたてだ。
二皿目は香草とチーズを惜しみなくまぶしてオーブンで焼いたマッシュポテト。
それと緑豆のスープをよそった皿が各人に配られる。
問題は三皿目がテーブルに置かれた時だった。
生姜と葡萄酒で煮込んだ豚肉の薄切りに、麦餅と呼ばれる平たいパンが付く。
これに豚肉を載せて、くるりと丸めて食べるのが美味しいのだ。
この豚肉料理が登場した瞬間、ミミ子が露骨に顔を背けた。
不味い食べ物は露骨に嫌がるミミ子だが、食材の好き嫌い自体は見せたことがない。
リンとイリージュさんの料理なら、そういった心配もない筈だが……。
料理が揃い全員が席に着くと、皆の視線が一斉に僕に向けられる。
一応、僕が家長的な立場らしいので、両手を合わせて声を上げる。
「いただきます!」
「いただきまーす」「まーす」
僕の声に合わして、メイハさんとイリージュさんは創世の母神に、ニニさんが護法の男神へ祈りを捧げる。
キッシェたちやちびっ子たちは、僕を真似て両手を合わして声を上げる。
最初は皆きょとんとしてたが、今はこれがこの家のスタンダードになっていた。
それと良い子にして待っていたピータも、ようやく餌に口をつける。
スープに匙を伸ばし、ゆっくりと口に運ぶ。
染み入る甘さを味わっていると、キッシェがパスタをよそった皿を僕の前に置いてくれる。
こちらも大振りな具の歯ごたえが、堪らなく美味しい。
満足しながらふと気になって顔を上げると、やはりミミ子は料理に手を付けず横を向いたままだった。
よく見ると、何やら隣りの席のちびっ子たちに目配せしている。
「今日はカツレツじゃないの? リン姉ちゃん」
ミミ子の合図に気付いたのか、ちびっ子たちの一人、獣っ子のナイナちゃんが声を上げた。
「えっ、ああ、今日はちょっと献立を変えたんだ」
珍しく歯切れの悪い返答を返すリン。
そこに畳みかけるように、ナイナの双子の姉であるイナイちゃんが言葉を続ける。
「えー。リン姉、今日はカツレツにするって言ってたじゃん。美味しそうな豚肉が手に入ったって」
「最近、ぜんぜん油ものがないよねえー」
これは……ミミ子の仕込みか。
「いや、そのアレだよ。油ものだと胃にもたれやすい人が居るしさ」
その一言に、葡萄酒を静かに味わっていたメイハさんの手が止まる。
「私のことを言ってるのかしら? リン」
「えっ、いやその――」
「私が年寄りだから胃が弱いと、気遣ってくれてるのかしら?」
「母様、胃が痛いのですか? 私が治癒いたしますよ」
自ら年寄り宣言したメイハさんは、小さく笑みを浮かべたままリンを見遣る。
いつもならその笑顔は春風のような暖かみをもたらすはずだが、なぜか今は背景に吹雪が見えるようだ。
そして無視されたイリージュさんは、しょぼんとしたままスープを口に運ぶ。
やっぱり十代だらけのこの家で、最年長なことを気にしてたのか。
とても可愛いなあ、メイハさん。
「ちっ、違うって母さん。ほら、細かいこと気にしてると胃に来るって話で――」
「それは私が神経質だと、遠まわしに指摘してるの?」
能面のような顔になったキッシェが、言いがかりに近い声をいきなり上げる。
しかしこうやって見ると、メイハさんとキッシェってよく似てるね。
見た目じゃなくて性格がだけど。
「そっ、そんなことはあるかも」
「――ああ、そう」
うっかり本音が漏れるリンと、眉毛をぴくぴくさせるキッシェ。
和やかだった食卓は、一瞬にしてギスギスとした雰囲気に変わる。
「…………ミミちゃん」
「うん~?」
それまでマイペースに煮込み豚肉をぱくぱく食べていたモルムが、不意にミミ子に声を掛ける。
「…………これ美味しいよ。食べないの?」
黙って横を向くミミ子。そんなにカツレツを楽しみにしてたのか。
「…………好き嫌いしちゃ駄目だよ」
この流れは不味い。急いで回避しなければ!
僕の視界の中で、皆の動きがコマ送りに変わる。
そしてモルムから発せられた濁流の突破口を求めた視線が、僅かに持ち上がったミミ子の口端を捉える。
――――まさか!
「ゴー様だって、芋食べてないよ」
横を向いたまま、ミミ子はぼそっと禁句を呟きやがった。
同時に食卓の視線が、またも僕に集まる。
揚げ物喰いたさに、僕まで巻き込みやがったぞ、コイツ。
「……………………」
ここで巻き戻さなければ、いつ巻き戻すというのだ。
「巻き戻しても、また同じ結果だよ」
そう言いながら、ミミ子は僕とリンに交互に目を向ける。
まさかの強制イベント発生か!
と言うか、カツレツの為にそこまでするか――良いだろう、僕も覚悟を決めるよ。
「…………ニニさん」
「どうした?」
「僕に『不変』を掛けて貰えますか?」
「判った」
あっさりと承諾してくれたニニさんの口から、発せられた心地良い真言が僕の鼓膜を揺さぶる。
赤弓を手に持った時と同じ安心感。
うん、今ならどんな強敵でも怖くない。
匙を伸ばし、マッシュポテトを掬い上げる。
チーズが糸を引き美味しそうな匂いが漂うが、僕の心を何一つ乱しはしない。
一口で喉まで落とし込む。
口内の唾液が一瞬で吸い取られ――芋を口に含んだまま僕は動きを止めた。
駄目だ……これ以上は……体が拒否している。
多分『不変』がなかったら、僕の体中に湿疹が浮かんでるレベルだ。
脂汗さえ流せない僕に、そっとキッシェが水を入れたコップを差し出してくれた。
受け取った水で、無理やり口内のブツを胃へ流し込む。
咳き込みながら顔を上げると、皆がとても優しい顔で微笑んでくれていた。
ぱちぱちとちびっ子たちが、拍手をくれる。
「……ほら、食ったぞ、ミミ子」
涙目の僕の促しに、しぶしぶミミ子も豚煮に手を付ける。
「あ、これ美味しいね~」
ってただの食わず嫌いかよ。僕の尊い犠牲を返せ!
夕食を終え風呂を済ませた僕は、井戸の側のベンチに腰掛けて麦酒をチビチビ飲みながら、夜空を見上げつつ黄昏れていた。
ふと人の気配に気付いて隣りに目をやると、そこにあったのは薄い夜着を纏ったニニさんの姿だった。
彼女も何も言わず、空を見上げていた。
その形の良い顎のラインや夜でも輝きを失わない赤い瞳に見惚れていると、不意に彼女が話しかけてくる。
「今日は済まなかったな」
「何がです?」
「食事のことだ」
よく判らず首を捻る僕に、ニニさんは小さく笑みを浮かべる。
その何気ない笑顔に僕の心が溶かされていく。
「油ものばかりでは、ミミ子君の体に障るかと思ってね。リン君に頼んで控えて貰っていたんだ」
「そうだったんですか」
「おかげで君にまで、とばっちりが行ってしまったよ」
「気にしないでください。……君?」
気が付けばニニさんの呼び方が、お前から君に変わっている。
言葉遣いも最初にあった時のようだ。
「前の話し方は私の父母を真似てみたのだが、こっちの方が結局、話し易くてね」
「僕もどちらかといえば、そっちのほうが好きですね」
「形から入れば夫婦らしくなるとは思っていたのだが、今日の献立の件も含めて、まだまだ私には足りてないものが多そうだ」
「僕もまだまだですし、ゆっくり一緒に考えていきましょう」
正直なところ、結婚だの夫婦だのは僕にはまだよく判らない。
でもこんな風に正直に気持ちを打ち明けてくれるニニさんは、とても良い人だと思う。
好きかと問われたら、そこもまだよく判らないとしか言えないが。
「そうだな」
「ええ、そうですよ」
僕らはそれ以上、言葉を交わさず夜空を見上げていた。
ナイナ、イナイ―双子の虎娘。丸耳が可愛い




