二つの心
時が止まったかのように、カップがゆっくりと床へ落ちて行く。
その内側で琥珀色の液体が静かに伸びていく様までもが、コマ送りとなって僕の目に映し出された。
手を伸ばし床に落ちる寸前で受け止め、そのまま時間差で落ちてくる香茶をすくい上げる。
右手で二つ分を同時にこなし、左手で残りの一つ。
ついでに傾いたお盆の位置を元に戻して、三つのカップをその上にそっと置き直す。
昨日からだが、集中すると動きが止まって見えるような現象が度々起きていた。
極限まで追い詰められて、新しい自分にでも目覚めたのだろうか。
この超スローモーション動作解析はこんな時に便利だが、発動すると目がかなり疲れるのが欠点だ。
「大丈夫ですか?」
瞬きしながら声をかけると、メイハさんは跳ねるように肩を震わせて、呆然とした瞳を僕の方へ向けてきた。
カップを落としそうになったことに、どうやら気づいてないらしい。
「あっ――ええ、大丈夫よ」
心ここにあらずといった顔のまま、メイハさんは香茶のカップをローテーブルに置いていく。
無意識のまま動いてる感じだが、その仕草はいつも通り優雅だった。
体の隅々にまで、上品な振る舞いが行き届いているように思える。
「ごゆっくりどうぞ」
「ありがとう。頂くわ」
軽く謝辞を述べて、カリナ司教の指がカップの持ち手に伸びる。
全く自慢にならないが我が家のお茶は、市場で売られているのを僕が吟味もせず適当に買ってくる品だ。
だがメイハさんが淹れると、それが途方もない美味しさを発揮する。
カップを持ち上げると溢れ出すふくよかな香りで心が弾み、口に含めば渋みと甘みの絶妙に混じった味わいが喉へするりと落ちていく。
うん、メイハさんが淹れてくれるお茶はいつも通りの味だ。
「相変わらずあなたのお茶は美味しいわね」
「母さん……どうしてここに?」
苗字が同じだったので怪しんでいたが、やはりカリナ司教とメイハさんは母娘だったか。
言われてみれば二人はよく似ていた。
細い金糸のような髪に深みがある碧眼、それと真っ先に目を引く胸部の大きさや腰のくびれ具合もそっくりだ。
もっともカリナ司教のほうは、やや顎のラインが直線的で意思の強さが現れているようにも感じる。
対するメイハさんは、その身を守るようにお盆を胸元に抱える様から既に気弱さが溢れ出していた。
どうも並んでいる二人を見ていると、母娘というより気の強い姉と大人しい妹のような印象を受ける。
押しつけ過ぎてお盆の横から胸がはみ出している娘の有り様に、カリナ司教は呆れたようにわざとらしく声を上げた。
「どうしてって、あなたが全然こっちに顔を出さないからでしょ。やっと市内へ戻ってきたかと思ったら、男の子の家に篭っちゃうし」
「えっ? そんなんじゃないわよ。母さん」
「そりゃ初めての彼氏に夢中になるのも分かるけど、実家に寄り付きもしない薄情な娘だとは思ってなかったわ」
「だから違うって言ってるでしょ!」
「だいたいあなたは三十も近いのに、未だにふらふらして。まったく、何時になったら母さんに孫を抱かせてくれるのよ」
「もう干渉しないでって言ってるじゃない!」
会話がすごくおかんと行き遅れた娘を連想させるが、お姫様がそのまま年をとった感じの二人なので違和感が酷い。
それとくだけた口調になったカリナ司教とは対照的に、メイハさんからはいつもの穏やかな雰囲気がかき消えてしまっている。
余裕がないと言うよりも、こっちが素なのかもしれない。
「すみません。その辺りで止めてもらえますか」
親子間のいざこざに口を挟むなんて僕の性分にはあってないが、メイハさんの瞳が潤みだしてきたので放っておくわけにも行かない。
「色々あるとは思いますが、もう少し落ち着いてからお話ししたほうが良いかと」
「それもそうね」
いや絶対に分かってて不意打ち訪問したんだろうな、この人。
それなりに一緒に暮らしてきて知ったのだが、メイハさんは予想外な展開に凄く弱い。
突発的にセクハラしたり強引に詰め寄ると、すぐにキャパシティを超えてしまうのか可愛い反応を見せてくれたりする。
「それとメイハさんは今はこの家で一緒に暮らす家族で、僕の大事な人なんです。あまり苛めないであげて下さい」
余計な一言かと思ったが、つい付け加えてしまう。
僕の言葉にカリナ司教は満足気に頷いて、席を立ち上がる。
「今日は楽しかったわ。ニニ、お暇するわよ」
大鬼のニニさんも素直に立ち上がる。
立ち姿で改めて見ると、引き締まった筋肉質な体つきにチャイナドレスは恐ろしいほどよく似合う。
彼女は僕に鋭い一瞥をくれると、何も言わず背を向けた。
「あなたとは、いずれまたお会いしたいわ」
上品と妖艶のちょうど真ん中の笑みを見せつけて、去り際の一言を僕の耳に囁いたカリナ司教は、停めてあった馬車へ乗り込んでいく。
査問会の時から思っていたが、やはりあの人は苦手だ。
人の感情を揺さぶるのが巧すぎる。
二人を乗せた馬車が角に消えるまで見送ってから、僕は小さく溜め息をついた。
居間に戻ってみると案の定、眠ったままのミミ子の尻尾に顔を埋めているメイハさんの姿が見える。
弱っている大人の女性の可愛さにくらくらしつつ、その背中にそっと手を添えると彼女の体が小さく震える。
静かに顔を上げて、僕に視線を合わせてくるメイハさんの目蓋は少し腫れていた。
「……………………ごめんなさい。やはり巻き込んでしまったのね」
「強力な磁石みたいな人ですね、カリナさんって」
「あの人はちっとも変わらないし、変えようがないの。昔からずっとそう」
悔しさと恥ずかしさが入り混じったような表情を見られたくないのか、メイハさんは顔を伏せて掠れた声で呟いた。
そして小さく頷くと、顔を上げて僕にまっすぐな視線を向けてくる。
「すぐに荷物をまとめるわ。ただ、その……都合の良い申し出でごめんなさい。子供たちをしばらく預かっていてほしいの」
「はいはい、ちょっと待って下さい。落ち着いて、ほら深呼吸しましょう」
柔らかな彼女の肩に手をおいて、大きく息を吸い込んで見せる。
戸惑った顔のメイハさんに、同じことをするように目で合図する。
三度ほど呼吸を繰り返させてから彼女の目を覗き込むと、湖面のような瞳にはいつものメイハさんらしい落ち着きが見て取れた。
「まずは事情を話して下さい。それからみんなで考えましょう。こういうことは一人で決めて行動しちゃうと、余計にこじれたりしますから」
僕の説得に考えなおしたのか、メイハさんは諦めを浮かべた顔で事情を話してくれた。
創世の教徒は、神によって創り出された命を守り育むのが教義だ。
そしてその教えは永い年月を経て、少なからず変質していた。
人はより長く、より健やかに生きるべきだと。
そのためには優秀な人間を集め、その血筋を重ねることで頑強で長寿な人種を産み出すことが当然とされた。
そもそも治癒の術自体が限られた血脈の人間にしか使えないので、優生思想に偏っていくのも無理はないのかもしれない。
現在の創世教の上位叙階は、人材の確保に成功して派閥化した家同士の熾烈な争いの場になっているそうだ。
そしてその一角を担うセントリーニ家も例外ではなかった。
メイハさんも幼少のころから、優れた人と結婚しその血を娘たちに残していくことを躾けられた。
それが高まって白馬の王子様に恋焦がれてしまったのは、カリナさんの計算違いのようだけど。
この都市で優秀な人間と言えば、真っ先に挙げられるのが高レベルの探求者たちだ。
メイハさんは十六の若さで迷宮に入り、その治癒の力を高める機会に恵まれた。
そして三年の歳月をかけて金板を手にした彼女は、ようやくそこで真実に気付く。
彼女の固定パーティのメンバーが、実はお見合い相手であったということに。
「それで逃げ出したんですか?」
「……だって、皆さん筋肉質で性格も粗野な方ばかりで」
物静かな白皙の美青年を夢見てた可憐な乙女には、胸板厚きおっさんはNGだったようだ。
「そっ、それだけじゃありません」
兼ねてより人を選別する考え方自体に疑問を感じていたメイハさんは、その件ですっかり教会自体に不信感を覚えてしまったらしい。
それで知己の手引きで街の外に出て、恵まれない貧しい人たちに接してみようと試みた。
人の優劣は生まれで決まるものではない。そしてどんな命でも生かすことが、創世の教えに寄り添うものではないかと。
子供じみた反抗から始まったことかもしれないが、それは結果的に貧民街の多くの人を救うことに繋がった。
当たり前にあった豊かな生活を捨て、荒れ果てた外街に根を下ろしてまでメイハさんは自らの考えを証明してみせたのだ。
キッシェたちと巡りあわせてくれたその生き様に、僕は何も言えずメイハさんの手を握るくらいしか出来なかった。
「まあ途中からは意地みたいなものでしたけどね。そんな意地も……」
「まさか、立ち退きの件が?」
「確証はありませんけど、母ならそれくらいやろうと思えば出来ますから」
「もしかして身売りって――」
「ええ、しつこく持ちかけて来たお見合いの話を受けようかと」
なるほど、それで色々と合点が行く。
今回の査問会自体が、カリナ司教の仕込みにしか思えなくなってきた。
てっきり闘技場を盛り上げるための当て馬にされたのかと思っていたが、娘に相応しいかどうかの見極めだったのか。
後継者の婿のお披露目と考えれば、闘技場出場の件もあっさり引いた理由がよく分かる。
一度っきりの出場の方が、話題には残りやすい。
「それでメイハさん、出ていくって言い出したんですね」
「ええ、ご迷惑をおかけして御免なさい。きちんと母に話をつけてきます」
「その後はどうするんです?」
「もう母の影響のない遠くの街かこの国の外に……あの子たちと別れるのが辛くて考えないようにしてましたけど、こうなったらそうも言ってられません」
ここでハッキリしておかないと、僕はあとあと後悔するのが分かりきっていた。
メイハさんたちが居なくなることは、今の生活への影響があまりにも大きすぎるし、何よりも僕が嫌だった。
肩に掛けたままの手に力を込めて、強引に彼女の細い体を手繰り寄せる。
「…………離してください」
「嫌ですよ。ここに居てください」
「こんな面倒なの、抱え込んじゃ駄目ですよ」
「僕じゃ駄目なんですか?」
「駄目じゃないですけど。絶対、後悔しますよ」
「僕は殆ど後悔したことがないのが自慢なんです」
子供のたわごとと思ったのか、メイハさんは静かに笑った。
その形の良い額に、ちょんと僕の額をくっつけてみる。
間近になった僕の顔に不意をつかれたのか、メイハさんは大きく瞳を開く。
一歩遅れて、触れ合った肌から熱い鼓動が伝わってきた。
「良いですか、メイハさん。もっと単純に考えましょう」
「はっ、はい」
「僕のことは好きですか?」
「好意はありますけど、そのキッシェたちとお付き合いしてるんでしょ? 私はかなり年上であなたはまだ随分若いし、今の仕事も続けたいし……、母も何かと口うるさいし……」
途中で嫌気がさしたのか、彼女は小さく溜め息をついて黙ってしまった。
その心地良い吐息が、僕の頬をくすぐる。
「それで好きですか?」
「怒らない?」
「怒りませんから、正直に言ってください」
彼女はそっと唇を重ねて来た。軽く触れるだけのキス。
「御免なさい。今は――」
言い掛けた言葉に、僕の唇を重ねて無理やり黙らせる。
メイハさんは僅かに身じろぎしたあと、僕のキスを受け入れてくれた。
かなり長い間、唇を合わせていると、突然メイハさんがもがきながら僕の胸を必死で押し退けてくる。
口を離すと涙目になって、大きく息を吸い込み出した。
どうも呼吸が出来なくて、苦しかったようだ。
「もう、死ぬかと思ったじゃない!」
「すみません、ちょっと気持ちが昂ぶってしまって」
「そうなの?」
「僕はメイハさんが好きですよ。優しいところも、気弱なところも、大人なところも、可愛いところも……全部好きなんです。だからどこにも行ってほしくないです。ここに居て下さい」
少しの間が空いたあと、メイハさんは恐る恐るといった風に僕に尋ねて来た。
「……キスは良いけど、その先はまだ待って貰える?」
「はい、我慢します」
「あと母がちょっかい掛けてきても、許してくれる?」
「はい、大丈夫です」
「本当に?」
黙って頷いてみせると、メイハさんは傍目でもハッキリわかるほど肩の力を抜いた。
そしてそのまま、深々と頭を下げてくる。
「……不束者ですが、よろしくお願いします」
▲▽▲▽▲
勇み角の氏族にとって相手の角を折るという行為は、自らの下へ組み入れると同等の意味合いを持っていた。
男女の間でなされた場合は、求婚の意味合いを指す。
生まれて初めて異性に角を折られたニニ・ラニフ・ニノにとって、その行為は驚きと安らぎという背反する感情を伴って受け入れられた。
あの時のニニは氏族の戒めに背き、己の感情を戦場に持ち込んでしまった。
その結果があのざまだ。
積み重ねて来た護法の心意を忘れ去り、無様に声を上げる獣と化した己の有り様を思い起こすだけでニニの腕に力がこもる。
意識のほとんどは心の底に押し込まれていたが、うっすらと自分が何をしていたのかは覚えている。
真黒な感情に押し潰されて、目の前の敵を追い回すだけの哀れな犬のような姿。
体の支配を奪われ、涙を流すことしかできなかった哀れな存在。
けれども彼が、そんな自分を戒めてくれた。
浅ましい獣の身に、人の心をもう一度取り戻させてくれたのだ。
あの時感じた痛みと喪失感、そしてそれを上回るほどの悦喜。
今もまだその感情は彼の顔を思い返すだけで、腹の底から浮かび上がってくる。
ニニの心と体を揺さぶった震えは、そのまま魂へ深く刻まれてしまったのだ。
すでに求婚の承諾は告げてある。
あとは早急に荷物をまとめて、彼の家に移り住むだけだ。
多くの女が彼の側にいたが、ニニは少しも気に掛けていなかった。
序列に拘るような性分ではない。
ともに並び立ち戦えば分かり合える。それがニニの信条であり生き様だった。
「楽しそうね? ニニ」
声を掛けて来たカリナ司教に、ニニは滅多に見せぬ笑みを浮かべてみせた。
この後の一話は、ノクターン出張版に繋がります。
「あなたの年齢、十八歳以上ですか?」「はい/いいえ」
内容的には息抜き回となりますので、本編に絡む要素は全くありません。
苦手な方は飛ばして頂いても、支障はありませんのでご安心ください。




