鼻先の人参
現実世界で人の頭の上に名前を探そうとして引退を考えたでござる
「少しお聞きしたいのだけど。今、良いかしら?」
その問い掛けが僕に向けられたのは、メイハさん達が引っ越して来てしばらく経ったある日のことだった。
ちょうどその日は迷宮休みの週末で、僕は居間のソファーでミミ子を枕にしてぼーっと雲を眺めていた。
キッシェたちはちびっ子たちを連れて、仲良くお出かけしている。
近所への紹介を兼ねた日用品の買い出しらしい。
不意に聞こえて来た麗しい声に、僕は半分閉じかけていた目蓋を開く。
その目に向かいのソファーで、きちんと背筋を伸ばして座るメイハさんの姿が飛び込んできた。
慌てて起き上がった僕は、魅力あふれる薄着姿の女性を前に急いで居ずまいを正す。
「はい、何か御用でしょうか?」
「お休み中にごめんなさいね。でも大事なことなので、きちんと確認しておきたくて」
「いえ、確認は大事ですからね。何でも確認してください」
優雅に組んだ手の親指をくるくると交互に回しながら、メイハさんは思い切った感じで言葉を続ける。
「貴方が目指している先を、教えて頂けますか?」
「目指している……先?」
訊かれた意味がよくわからず、僕はオウム返しな言葉を漏らす。
「そんな不思議そうな顔をされる質問だったかしら。貴方がお持ちの目標とか夢を、宜しければ聞かせて欲しいの」
しばし考える。
そもそもの僕の目的は、何もない田舎から逃げ出して普通の暮らしをすることだった。
今は危険な迷宮を歩きまわる必要があるが、不便を感じるような生活じゃない。
それなら、可愛い女の子たちと一緒に暮らしてみたいという夢はどうだったか。
現在、我が家には10人の女性が同居している。
半分はちびっ子だが、夢は叶ったと言えるのではないだろうか?
格好よくモンスターを倒して、周りからちやほやされたいとか?
それはちょっとあるが、未だに目立つことで自分の能力がバレる方が怖いと感じる。
今のパーティメンバーの賞賛くらいが、調子に乗りやすい僕には丁度良い。
「夢は叶ったような気がしてます……」
「あら。では現状で十分、満足しているのですね?」
その言葉に、僕の心の内の何者かが激しく首を横に振った。
「いえ、満足はしてません」
「まだ叶えたい何かがあるってことなのかしら?」
「そうではなく……夢見てた暮らしにはなったのですが、果たしてコレがそうなのかと」
「違ったの?」
「いえ、方向性は間違ってないのですが、まだ途中のような。まだ物足りない気が」
「よく判らないけど、まだやりたいことが有るのですか?」
メイハさんが眉根を寄せて、僕の曖昧な答えを懸命に理解しようと努めてくれる。
端正な顔立ちだと、そんな悩ましげな表情も大変お美しい。
「そうですね。目標としてもう少し安定した収入が欲しい……とかはどうでしょう?」
「それは高レベルを目指すということかしら?」
三層で宝箱を漁っていれば、収入自体は安定するとは思う。
手強い筈と考えていたモンスターたちも、『蟷螂の赤弓』が手に入った現状では脅威ではなくなった訳だし。
でも三層を巡回していけば、レベルはいずれ上がってしまう。
そうなれば四層でまた同じように、地図を作ってレベルが上がるまで巡回するだけだ。
それで結果的に高レベルになっていくので、メイハさんの指摘に間違いはない。
でも目的かと尋ねられると、流れでそうなるだけで目指している訳でもない。
では僕はどうしたいのか?
ハッキリと言い切れるような欲求は、僕の中には残ってないようだ。
可愛い女の子とイチャイチャしつつ、三回の食事と狭くない寝床があれば特に不満は感じない。
多分、延々と繰り返した孤独な迷宮暮らしの中で、僕のそういった部分がすり減って消えてしまったのかもしれない。
静かに答えを待つメイハさんに、僕は何とか返事をすべく周りを見渡した。
真横で白い毛玉状態になって眠りこけるミミ子の姿に目が留まる。
「すみません、ちょっとだけお待ちください。ミミ子、ミミ子!」
「ふぁぁ。な~に?」
心地良さそうに丸まっていた少女を揺すり起こす。
「ミミ子の夢ってなんだ?」
「今みてたの? 空飛んでたら、揚げ菓子の雲から揚げ団子とねじり棒が降ってきてね」
「いやそんな砂糖と油まみれの話は聞きたくない。将来の夢だよ」
きょとんとしたミミ子は、少しだけ首を傾げたあと僕に大きなあくびを見せつける。
そして再びソファーの上で丸まりながら、半分眠りながらの声で教えてくれた。
「え~と、タルブッコさんのお店を買収して国中に展開することかな~」
「お前、凄い夢持ってたんだな」
早くもすーすーと寝息を立てだしたミミ子の頭を軽く撫でてから、メイハさんへ向き直る。
「という夢だそうです。いかがでしょうか?」
「それはミミちゃんの夢でしょ!」
「ええ、みんなの夢を応援したい。これが僕の夢です」
かなりのきめ顔で語ってみた。
僕の適当っぷりをあっさり見抜いたのか、メイハさんは呆れたような溜息を吐いて僕を真っ直ぐ見つめて口を開いた。
「私もあの子たちの夢を叶えてあげたいと思っていたわ。でも私が出来るのは、まともな生活の送り方を教えるのと人を癒す事だけ。治癒士としての才があれば生活には困らないと考えていたけど、それも二人だけで終わり」
現在、この家でメイハさん以外に治癒士の資格を持つのは、長女のイリージュさんと末っ子のマリちゃんだけらしい。
「亜人の血を引く限り、あの子たちがどんなに優秀で素晴らしい心の持ち主でも、まともな仕事を得ることは難しいと判っていたわ。でも出来ることなら、迷宮に関わる仕事は選んでほしくなかったの。亡骸も残らないような職場を、子どもに勧める親はいないわ」
仰ることはもっともだ。
安定して金を稼げるようになる銀板を得る前に、大半の人間が諦めたり怪我をして消えていく。
言葉通りその身ごと消えてしまった奴も少なくはない。
「それでもあの子たちが選んだことなら、今は応援したいと考えてます。それに貴方たちを見てると、凄く楽しそうで……。だからまずは、貴方が何を目標にしているかを教えて頂こうと思って」
なるほど、やっと質問の意図が理解できた。
以前、お世話になったモンスター生態調査部のリーガン部長から、メイハさんはかつて金板の凄腕探求者だったと聞いていた。
元探求者の立場として、助言なりをしてくれるという訳か。
それならいっそ、小隊に入って貰う方がありがたいな。
「僕の目標は……さっきも言った通り、みんなを応援したいです。そしてどんな相手にでも、決して怯まない小隊を作り上げてみせます。今度は僕が、彼女たちを立派な探求者に育て上げてみせますよ、メイハさん!」
あ、メイハさんの表情が物凄く不安げに。
その場限りの思いつきだと思われてるな。
確かにその通りなんだけど、これはこれで大した目標や夢を持たない僕にふさわしい気がしてきた。
「信じてませんね」
「………………そんなことは」
露骨に目を逸らされた。
なら説得するだけだ。
「僕が低レベルの時に、きつく仕込んでもらった師匠がいるんです。最初は反発しましたよ、特訓がきつすぎて。でも後になって色々判ることも有るんですね。今の僕が在るのは、師匠のおかげだって。そんな師匠も去年、鬼籍に入ってしまって……だから少しでも師匠の教えを広めたい。そう思っての目標なんです」
「そうだったのですか。失礼な態度を取ってしまってご免なさい」
血は繋がってなくとも、明らかにキッシェとの親子の絆を感じる。
僕は架空の師匠に、心の中で黙礼した。
「いえ、気にしないでください。あ、そうだ。お力を貸して頂けるんですね?」
「はい。私の出来うる限りですが」
「それでしたら、僕らの小隊に参加してもらえませんか?」
「残念だけど、私のレベルだと貴方たちとは難しいわ」
確かにレベルが違いすぎると、階層制限に引っ掛かってしまうな。
高レベル探求者が浅い層で暴れ回るのは禁止されているが、低レベル探求者を深い層に連れて行って危ない目に遭わせるのも、あまり奨励されない行為だ。
低レベル探求者を連れ歩くのに厳密な制限はされていないが、無茶だと判断されれば受付での探求許可が降りない仕組みとなっている。
「じゃあレベルが上がれば、一緒に行ってくれるんですね」
「…………それは少し考えさせて」
あ、用心されてる。
やはりまだ信頼されてないか。
ここは強引に行くべきだと、僕の中の何者かが囁いた。
腕を伸ばしてローテーブル越しに、そっとメイハさんの手を握る。
驚いて引こうとする手の動きに合わせて、逃げられないように指先を絡ませる。
メイハさんは戸惑った表情を浮かべたまま、繋いだ手と僕の顔を交互に見つめてきた。
「だったらお試しはどうですか? 僕がレベル4に上がった際に一度でいいので。多分、キッシェたちにも良い経験になると思うんですよ」
視線を外さず真正面から、メイハさんの青い眼を覗き込む。
さざ波に揺れる湖面のような瞳からは、不安と迷いが読み取れる。
少しの間が空いて、メイハさんは小さく頷いてくれた。
要求を小さくしたのと、キッシェたちの名前を出したのが正解だったか。
「……あの、手を離して貰える……かしら」
肌が白い人が照れると、胸元まで赤くなるのか。
メイハさんの綺麗な鎖骨が桜色に染まる光景に満足した僕は、握っていた手をゆっくりと開く。
解放されたメイハさんは頬を染めたまま無言で立ち上がり、僕に小さく頭を下げて部屋を後にする。
その見事なラインの後ろ姿を見送った僕は、隣で寝こけるミミ子の柔らかなお尻に思い切り顔を埋めた。
ふかふかの尻尾から溢れ出すお日様の匂いを、胸いっぱいに吸い込む。
うん。あの豊かなたぷたぷに、一度も視線を動かさなかった自分を褒めてあげたい。
よし、とりあえず突破口はできた。
あとは、さくさくと四層を攻略してレベルを上げるだけだ。
「よし。レベル上げ頑張ろうぜ、ミミ子」
しばらく待ったが、穏やかな吐息しか返ってこなかった。
『ねじり棒』―ツイストドーナツ。粉砂糖たっぷり
『春先の悪魔』―現在、作者を襲っている恐ろしいモンスター。隔日連載になったらすみません




