峡谷の生態系
真下から吹き抜けてくる温い風は、どこか乾いた土の匂いがした。
だが見下ろした先には何もない。
ただただ、真っ黒な空間がどこまでも広がっているだけだ。
顔を真上に向けると、天井には光の点々がきらめいている。
もう一度、足の下を覗き込む。
どこまでも続く何にもなさに、背中がブルリと震えた。
底が知れない場所って、心の原始的な部分に訴えかけてくる怖さがある気がする。
「何か見えますか? 隊長殿」
「なんにもないね。土の匂いだけ」
「ああ、風に乗って匂ってきますよね。そうなると、やっぱり底があるんですかね? どっから下りるんだろ」
「そもそも、なんで風が吹くんだ?」
「そりゃ風って、どこにでもあるんじゃないですか?」
「窓を閉めた家の中で、風は吹かないだろ。空気が動くには熱がいるはずだけど、発光石は確か冷光だから関係なさそうだし」
「でも、ここの地上部って凄く蒸し暑いですよ。ああ、そうだ。いっぱい草が生えてるせいとか?」
「いや逆に暖かいから、植物が増えたんだろうな。ここから温風が上がってくるってことは、底の方に何か熱源があって――」
迷宮の考察は、そこまでだった。
唐突に足元が影に覆われた僕は、慌てて後ろに飛び退った。
「ゆっくり谷底見学も出来ないな。リン、頼んだ」
「まっかせて下さい!」
通路の奥へ向かうと同時に、大きな旗を振り回したような音が響いてきた。
次いで崖に面していた通路の出口が、大きな影に塞がれる。
ニュッと通路一杯に突き出されたもの。
それは僕らの背丈ほどもある、巨大な鳥の顔だった。
すかさず盾を持ち上げたリンが、通路の途中に立ち塞がり威嚇で注意を引きつける。
挑発された巨大な鳥は嘴を懸命に少女へ伸ばすが、胴体が大きすぎて通路に入ってこれず虚しく空を切った。
この間抜けな鳥の名前は、白羽岩鳥。
七層を分断する峡谷、通称"大断絶"を徘徊領域とするモンスターだ。
全身真っ白な羽毛に包まれているが、頭部にはなぜかほとんど毛が生えておらず、ギョロリとした目と大きな嘴が目立つ恐ろしい風貌をしている。
大きさは羽を広げると優に数十歩。尖った爪は、大の大人でも軽々持ち運び出来そうなほどである。
コイツラは峡谷につながる通路の端に居ると、目が良いのか上の方から滑空して襲ってくるのだ。
最初に飛んでるのを見た時は、弓で射落とそうとして、遠すぎて届かなかったくらい遠近感がおかしかったっけ。
「…………兄ちゃん、こっち!」
通路奥でハリーくんを散歩させていたモルムが、僕らに向けて赤い悪魔の指を持ち上げる。
――専念、少女の手袋が生み出す影が同じ線を描く――専念。
続いて、――盲目――盲目。
流れるように描かれた呪紋たちが、魔の導線となって大鳥の目を眩ませる。
一つでは弾かれても、二つとなれば成功率も二倍。いや、正確には七割半ほどの確率らしいが。
視界を塞がれた鳥は、怯んだ鳴き声を上げて闇雲に嘴を突き出してくる。
そこへ遠慮せずに、しこたま矢をお見舞いしてやる――ばら撒き撃ち改。
さらに僕の横に並んで立っていたキッシェが、すかさず水弾で追撃する。
突き刺さった矢が消え去った穴に、潜り込んだ水の弾が思う存分はじける。
曲芸のような連携を可能にしてるのは、二重に掛けられた専念のおかげだ。
顔のあちこちから派手に血を撒き散らしながら、大鳥は再び絶叫した。
痛手を受けた鳥は嘴を突き出すのを止めて、羽ばたきながら一旦通路から離れる。
塞がれていた出口から光が戻ってくると同時に、宙空に留まった大鳥が左右に翼を広げる光景が目に飛び込んでくる。
矢を撃ち込むのに絶好の機会であるが、騙されてはいけない。
大鳥の輪郭が微妙に歪むのを、僕の極眼がつぶさに拾い上げていた。
モンスターの体の周囲に、風が集まってきてるのだ。
最大限に広げられた両翼が羽ばたき、小型の嵐が生み出された。
吹き付けられた凄まじい暴風は、通路の中を荒れ狂う。
これ、初見の時は、全員壁に叩きつけられて酷い目にあったっけ。
僕の首に巻かれた白い羽飾りのついたケープが、荒れ狂う空気の塊をあっさり押し止め散らしてくれる。
この新装備、追い風のケープは、風の精霊を纏う白羽岩鳥、つまりこの大鳥の羽を使った加工品だ。
強風を打ち消してくれる他、飛び道具なんかも逸らしてくれるので、風搦めのケープの上位装備に近い。
ちなみにまだ三枚しか出来ていないので、呪紋を描き終えたモルムはとっくに通路の角まで逃げおおせている。
当然、ミミ子も、緑熊が頑張って安全地帯まで運び済みだ。
突風の勢いが弱まると、大鳥の周囲から風の精霊の気配が消えた。
今度こそようやく、格好の的となってくれたという訳だ。
「今だ! リン」
「はーい、イーさん。お願い!」
再び弓弦が揺れ、黒い光沢を放つ矢が大鳥の体に突き刺さった。
きっちりと水弾も追撃して、派手に羽毛が飛び散る。
さらにそこへ火龍の燃え立つ視線が重なる――熱線!
燃え上がる真っ赤な炎は、大鳥の翼に燃え移り火の粉を巻いて焦がし尽くす。
全身を炎に包まれた巨大な鳥は、甲高い鳴き声で叫びながら空中で燃え尽きて消えた。
その後に、ふわりと大きな白い羽が舞い下りてくる。
「よし、来い!」
「こっち、こーい!」
絶壁に半ば身を乗り出しながら、僕とリンが声を張り上げた。
これが、あの馬鹿鳥の面倒なところなのだ。
体が大き過ぎて通路に入ってこれない大鳥は、空中を飛んでいる時に倒すしかない。
無理に近くで火炎の息や熱線をすると通路に火が逆流したりして、もっと酷いことになったりするし。
ただ離れて倒した場合は、当たり前だがドロップ品はその場所に出現する。
おかげで毎回、風に乗ってこちらへ飛んで来るよう祈るしかないのだ。
今のところ、だいたい三割くらいの確率で、手が届く範囲に飛んできてくれるのだが……。
「こっちのほうが甘いよ~」
「根性を見せるんだ、羽!」
だが僕らの願い虚しく、谷風にふわりふわりと舞っていた羽は空中で動きを止めた。
そしてそのまま、中空でぼやけた色合いに変わり、ゆっくりと端の方から消えていく。
「ああああ、またかよ!」
「残念ですけど、クラゲが居たみたいですね」
実はこの峡谷には白羽岩鳥以外にもう一種、迷宮生物が生息している。
それが姿も色もさっぱり見えない、ただ空中に浮かんでいるだけの存在、浮遊水母である。
このクラゲどもは谷の上昇風に乗ってフワフワと漂うだけで、基本的に僕たちに襲い掛かってこない。
ただ、なぜか大鳥の羽が好物らしく、たまにあんな風に食べてしまうことがあるのだ。
もしかしたら、掃除屋さんの同種なのかもしれない。
「まーた、クラゲですが。何とかならないんですか? あの羽泥棒どもは」
「それについては、こないだの件でもう懲りたよ。潔く諦めたほうがマシだ」
透明かつ不定形なクラゲの体は、物理攻撃がほとんど通用しない。
それと熱にも強く、ミミ子の狐火や火龍の炎にも平気である。
唯一、通じたのは、シャーちゃんを使った貫穿もどきだけである。
そして当たり前であるが、クラゲを突き破った後、シャーちゃんは真っ逆さまに谷底へ消えていった。
慌てて巻き戻して事なきを得たが、もう二度とやる気にはなれない。
「…………兄ちゃん、そろそろ時間」
「お、もう時間か。いつもありがとうな、モルム」
砂時計を掲げる少女に頷いて、僕は脳内からキッパリと羽の件を追い出しながら、ソニッドさんたちとの待ち合わせ場所へ歩き出した。