連紋術式研究会
本当に欲しいものは容易く手に入らないか、望みを捨てた時にようやく手が届く。
それは誉れ高き探求者の血を引き継ぐ一門の長子として生を受けたレジル・ミラディールが、齢十二にして悟った人生の真理である。
レジルが子供の頃に心の底から欲しかったものは、おもちゃの木剣だった。
だが迷宮生物を勇ましくなぎ倒す英雄に憧れた少年に買い与えられたのは、初心者向けの魔術教本であった。
彼にはピカピカに磨き上げられた銅の盾も、柳の木で作った弓も与えてもらえなかった。
代わりに彼に手渡されたのは、樹人の小枝の杖や黒絹の長衣だった。
十二歳の誕生祝いの席で、レジルは思い切って両親にお願いしてみた。
剣を扱える奴隷を側につけてほしいと。
少年は両親の彼に対する期待を理解していたが、それでも自ら剣を取って戦いたいという気持ちを捨て切れなかったのだ。
剣士として前衛を務めながら魔術を使いこなす上級職、魔剣士という稀有な存在があったこともレジルを後押しした。
レジルの申し出を耳にした両親は顔を見合わせた後、普段と変わらぬ笑顔を浮かべたまま魔術士の家庭教師を紹介してくれた。
驚きの顔とまでは言わないが、苦笑の一つでも浮かべてくれれば、少年はまだ夢を見れたかもしれない。
だが平素と変わらぬ態度を装った二人の姿に、鋭敏な感性を持ち合わせていたレジルは真実に感づいてしまった。
両親は自分に剣の才が全くないことを知っていたのだと。
そのことを論じる行為そのものが、不毛な結果をもたらすだけだと。
家庭教師はダーランと名乗った。
ダーランはミラディール家の分家出身で、銀板止まりの初老の男だった。
口達者で人当たりはいいのだが、裏を返すと口さがのない男でもあった。
教師としては優秀な部類だと言えたが、授業の端々でレジルは彼の愚痴や与太話をやたらと聞かされる羽目になる。
嫌うほどでもないが、好意を持てるほどの人間ではない。
それがレジルのダーランへの印象であった。
そんな少年の態度をダーランはどう思ったのか、ある日、彼はレジルにこんな話を持ちかけてきた。
「坊っちゃん、聞きましたよ。アタシじゃなくて剣奴を欲しかったそうですね」
「それはもう終わった話です、先生」
「いえいえ、坊っちゃんはまだまだお若い。人生これからじゃありませんか。どうです? よろしければアタシが剣の稽古をつけて差し上げますよ」
そう言ってダーランは、片目をつぶってみせた。
以前のレジルであれば、ダーランの申し出に跳び上がって喜んだに違いない。
しかし少年は、すでに残酷な現実を知ってしまっていた。
戦士として迷宮に入ったダーランは、才能の限界を感じ三十の時に魔術士に転向した。
けれども魔術の才も乏しかったようで、結局、銀板のまま引退し今はこうやって子供に教えるのが関の山であると。
二十年の時をかけて剣と魔術を志した人間であるが、どっちつかずのまま彼の人生の頂きは過ぎ去ってしまったのだ。
己の才幹をわきまえたレジルは、キッパリと剣の道は諦めたことをダーランに告げた。
そして諦めたからこそ、あえて彼が声を掛けてきたことも分かっていた。
門閥の家の長子は、基本的に魔術士や射手になる割合がかなり大きい。
理由は様々にあるが、一番とされるのは後衛職の生還率の高さからである。
周りが死んでも彼らだけは死なないよう、生きて戻るよう教育される。
世襲組と揶揄される門閥であるが、代々の当主たちは探求者の本分を深く理解していた。
大事なのは道を切り開く勇猛さではなく、いかに生き延びて地上へ戻れるかという臆病さであると。
門閥の序列では下から数えたほうが早いミラディール家であるが、それでも分家を含めるとかなりの大所帯となる。
将来、その大勢を引っ張る主導者が、先達の教えを守らぬ愚か者であってはならない。
それを懸念した家長の祖父が、ダーランを通じて見定めようとしたのだろう。
剣の才能がないことをすでに両親から突きつけられていた少年は、敬愛する祖父の試しに首を横に振るしかなかった。
心の底から願うものは、それを望まないものにこそ与えられる。
彼が新たな教訓を見い出したのは、それからかなりの年月が経ってのことだった。
剣の道を断念し魔術の道へ傾倒したレジルだが、優秀な家庭教師がついたおかげもあって、そうそうに職業訓練所の魔術士上級講義の受講を許される。
そこで優秀な成績をおさめた彼は、若輩の身でありながら父の小隊に加入し実戦経験を重ね、若手の注目株となっていく。
訓練所や迷宮で出会った人々を見て、レジルは自分がいかに恵まれてきたかを知った。
わずかな講義代も捻出できず、才はあるのに去っていく同期生。
逆に上を目指せる適性もないのに、魔術にしがみつき無駄に歳を重ねるだけの古参たち。
的確に己の才を知り、幼少時から正しい訓練を受け続ける。
そうやって初めて魔術士は物になるのだと、レジルは改めて思い知る。
そしてこの見解は、探求者全てにも当てはまるのではと彼は考えた。
選ばれ生き延びる者には、それ相応のしかるべき理由があると。
こうしてレジルの中で、門閥家の在り方こそが真の探求者を育てるにもっとも相応しい姿だという考えが育っていく。
そしてその家門に生まれ落ちた自分こそが、真の魔術師を目指すに相応しい人物であるとも。
高慢の花は、誤解と偏見を肥やしに実を結ぶ。
剣を欲しがり英雄に憧れた少年は、いつしか鼻持ちならない青年へと成長していた。
レジルは二十歳を半ばにして金版を取得し、賢哲の二つ名を持つニーナク尊師の魔術研究会への参加が許されることとなった。
絶頂期であった青年は、そこで手酷く鼻っ柱をへし折られる事態に遭遇する。
門閥最上位三家の一つイーグランド家。
その御令嬢であるリーリアモルトとの出会いである。
レジルより五歳年下のリーリアは、艶やかなまっすぐの黒髪を持つ見目麗しい女性だった。
そしてニーナク尊師が直々に認めるほどの、魔術の才の持ち主でもあった。
さらに彼女を有名にしていたのは、イーグランド家の所蔵する秘宝中の秘宝、神遺物"標もたぬ黒杖"の適合者に選ばれたという事実である。
念じるだけで呪紋を展開するこの魔法具は、高速を超えた瞬間複合呪紋を可能とする性能ゆえ、魔術を志す者にとって渇望の品であった。
若きレジルは瞬く間に、彼女の美貌、才能、そして傲慢な性格の虜となった。
身の程を弁えていなかった青年は、何度もリーリアの前で己を見せびらかし、自分が彼女に相応しい存在であると訴えかける。
深く語るまでもなく、それは惨めな結果となって終わった。
リーリアが虹色級の探求者として覚醒し、研究室を退会するまでの間、彼女は青年の名を一度たりとも呼ぶことはなかった。
レジルの存在を認識していたかさえ危ぶまれるほどだ。
その時期、初めて七層に到達し、深層での真実と決して超えることの出来ない格差を目の当たりにしたことも、レジルの挟持を深く傷つけた。
だが本当に彼の心を打ち砕いたのは、リーリアにこれっぽっちも魔術に対する関心が存在しなかった点である。
杖に選ばれたことですらも、彼女は名誉ではなく迷惑だとニーナク尊師に言い切ったほどだ。
しかしそんな態度を取りながらも、彼女の魔術の腕は他を足元にも寄せ付けないほどに突出していた。
最初は嫌々ながら選んだ道とはいえ、今や魔術はレジルにとってかけがえのない己の一部である。
だが彼なりに研鑽を重ね真摯に向き合って来た成果を、彼女はいとも容易く超えていく。
それはレジルの培ってきた自尊心を、根こそぎ奪い去るには十分であった。
圧倒的な才能に出会い道を閉ざされる。
よくある話ではあるが、家門の期待を背負わされたレジルは挫折を容易く受け入れるわけにいかなかった。
なんとか抗おうと考え抜いた結果、彼が辿り着いたのは己に足らないものは外から補えば良いとの発想であった。
外、つまり強力な魔法具を身に着けることで、己を高み押し上げようと考えたのだ。
だが虹色級の宝箱を開ける機会は、八層へ進めない自分たちには絶対に訪れない。
誰かから買い取る?
ただでさえ苦しいミラディール家の財政状態で、その資金を捻り出すことはもっと不可能だ。
悩み苦しむレジルの前に、彼が唯一尊敬する師が一つの答えを提示してくれた。
それは六層に通い詰めることで手に入る暗影布の存在である。
当初は表面の飛び抜けた魔術耐性のみが重視されていた素材であるが、近年の研究によりその裏面の特性が明らかとなる。
その性質とは使用者の影を生み出すという一見、不可解な効果であった。
影は物理的な重量を持たないただの幻影なので、最近までちょっとした目くらまし程度の用途しかないと考えられていた。
だがその幻影に、混沌の力を呼び込む作用があると判明したことで状況は一変する。
即ち魔術士がこの布を身につけ呪紋を描くと、その布から生まれた影もまた全く同じ行為を繰り返すこととなる。
そして驚くべきことに影が描いた呪紋は、術者本人が描いた呪紋と全く同じ効果を発揮するのだ。
呪紋を一つ描くたびに、その効果が二倍となる。
この発見の後、暗影布の値段は元の数百倍に膨れ上がる結果となった。
もちろんレジルは、そんな大金を持ち合わせてはいない。
しかし彼には頼れる家族がいた。
そんな訳でレジルの六層通いは、弟や姪、婚約者を巻き込んでの日課となる。
コツコツと集め続けて数年、ようやく片手分を集めたところでまたも新たな事件が起きた。
弟のニドウがやらかしたのだ。
門閥外の連中と徒党を組んで七層の治安を乱したとの告発があり、ミラディール家は厳しい非難を受けることとなる。
当然、予定していた新事業の参入権も剥奪され、それを当て込んでいたミラディール家の懐事情はますます悪化した。
その件について、レジルは弟を余り責める気にはなれなかった。
ニドウには昔から人を利用したがる悪癖があり、それは兄として苦々しくは思っていた。
ただそれは外での苦しい日々で培われた生き残る術であり、それ故、弟に負い目を持つレジルには言い出せない領分でもあった。
実質、これまでのミラディールの奢侈な暮らしぶりを支えてきたのは、弟の傭兵での稼ぎが主であったのだ。
なので彼が愛想を尽かし、今の扱いに何らかの蹴りをつけようと考えても致し方ない。
弟としては外の連中を丸め込んで、七層の体制に風穴を開ける気でいたらしい。
けれどもその思惑は、連中に返事を保留されたことで勢いを逃す顛末となった。
その点は、門閥外の探求者と手を組もうとした弟の愚かさを嘆くしかない。
やはり彼らを信用すること自体が間違いなのだ。
結果としてニドウは謹慎の身となり、レジルは傾いた財政を助けるため、これまで集めた暗影布を手放すよう家長から命令される。
長年の苦労が水の泡となったことを師に報告がてら、いつもの研究会へ出向いたレジルはそこで理解しがたい出来事に遭遇した。
そして三つ目の教訓を得ることとなる。
「…………あの、これ良かったら……使ってくださいって、兄ちゃんが……」
「はい、なんでしょうか?」
講義室へ足を踏み入れたレジルを出迎えたのは、少女のか細い声だった。
拙い話し方をする少女の名前はモルム・セントリーニ。
この年若さで銀板を会得した期待の俊英である。
彼女もリーリアモルト嬢と同じく、ニーナク尊師の推薦枠であったなと思い返しながら、レジルは受け取った箱を開ける。
中身は真っ黒な布であった。
見覚えをのある光を全く通さない材質に、レジルは首を何度もひねる。
彼の知る限り、この希少な布はこんな一枚布ではなく、もっと継ぎ接ぎされた品のはずであった。
だが長らく集めてきた品でもある。それを見間違えるはずもない。
そう、間違えるはずも…………。
ガタガタと肩を震わせ始めたレジルに、少女は小首をかしげながら戸惑った表情を浮かべた。
布を手渡せば大喜びして飛び跳ねるはずだと、彼女の敬愛する兄は言っていたのだが……。
病人のような顔色になったレジルの様子に、兄弟子に当たる老人が心配したのか声を掛けてくれた。
「おや、レジル君、ご無沙汰ですな」
「お、お久しぶりです、ラドーン殿。あ、あの、こ、これは一体…………?」
「ああ、それですか。わしも頂きましたよ。出世払いで結構だそうで。いやはや、あの子には本当に驚かされますのう」
「……………………へ?」
「ま、これは遠回しなアレでしょうなぁ」
「……………………は? アレ?」
そこでラドーンは片目をつむりながら声を潜める。
「七層の攻略に、わしたちが大いに期待されとるということですのう。お互い頑張りましょう、レジル君」
そう言い切ると、老人は元の席へと戻ってしまった。
残されたレジルは、唖然としたまま少女へ向き直る。
「これを頂いても、今の私にはお支払いできませんよ」
「…………その……出世払いでと、兄ちゃんが」
「出世? 申し訳ないが、今ひとつ意味が」
「…………えっと、七層を攻略できたら、お金を稼げるようになるでしょうって」
その返答に、レジルの頭の中で単語が瞬間的に結びつく。
「その……あなたの兄という方のお名前をお聞かせして貰っても?」
「…………え? 名前はないです」
「……………………は?」
「…………だからナナシって呼ばれてます」
ようやく欲しかった答えを得たレジルは、満足気に嘆息する。
そしてその意味に気づいて、慌てて少女を問いただす。
「本気で七層へ挑む気なんですか?!」
「…………うん、あ、はい。兄ちゃんがそう伝えてほしいと」
余りにもあっさりとした答えに、レジルは続く言葉を失った。
話は終わったとばかりに立ち去る少女の背中を見つめながら、レジルは己の価値観の一つが崩れ落ちたのを感じていた。
普通に考えれば、こんな貴重な布を何の担保もなく手渡すことはありえない。
出世払い? 七層の攻略? 余計にありえない話である。
少年の思惑が全く理解できないレジルは、激しく動転しつつ懸命に答えを探す。
不意にその脳裏に、あの奇妙な少年について嬉しそうに語っていた弟の言葉が蘇る。
彼はこう言っていた。
「アイツ、試してみたいって言ったんだ。要塞の松ぼっくりに対してさ。間違えば誰かが死ぬってのに、試したいってさ。俺たちには、逆さになっても出てこない言葉だぜ。その後もさ、二門のとこで黒絨毯が目の前に迫っても、瞬き一つしないんだぜ、あの小僧。肝が座ってるっていう代物じゃない。頭がオカシイって段階をとっくに通り越してるよ。そう、その時に分かったんだ。アイツは自分が絶対に死なないって、分かってるてな。なあ、兄貴、行けるぜ。あの小僧がいれば、確実に村へ行ける。間違いねぇ。だからさ、期待しててくれよ」
ニドウの言葉に半信半疑であったレジルだが、彼もまた今この時に確信する。
――あの少年は頭がおかしいと。
手元の箱の中身を見ながら、レジルはなんとも言いようがない表情を浮かべた。
欲しくて堪らなかった品のはずが、未だに現実感が追いついてこないせいだ。
息を深く吸って着席したレジルは、真理とも言えないありふれた言葉をつぶやく。
「望みを失いかけたら手が届くとは、…………人生とは余りにも不可解だな」
だけど、そこが面白いんだろう。
と、飄々とした弟の言葉が聞こえた気がして、レジルは苦笑を浮かべた。