断りにくい流れからの七層探索出発
人はどんなに恵まれた環境にいても、簡単に慣れきってしまうものだ。
最初は感激し喜びに震えるが、徐々にその気持は薄れ、最後には当然のものだと思い込んでしまう。
そして失った際に、初めてその有難みを思い出し後悔の思いに人知れず駆られるのだ。
「今日はしっかり頼むぜ、ナナシの坊主」
ガッシリと筋肉に覆われた腕が、荒っぽく僕の肩に回された。
ゴツゴツした感触に、ついミミ子の柔らかな手触りを思い出してしまう。
「期待してるぜ、ナナシ」
無精髭が伸び放題のむさ苦しい見た目に、キッシェの涼しげな横顔やリンの屈託のない笑顔が思い起こされる。
「気合い入れていこうぜ! 坊主」
厚い胸板と元気があり余る野太い掛け声に、モルムの華奢な体付きと囁くような声を懐かしく心の中で振り返る。
ああ、女の子たちに囲まれてチヤホヤされながら迷宮に潜るって、本当にすごい贅沢だったんだな。
と、中年男性に囲まれながら、僕はしみじみ悟った。
「その……なんか、ごめんなさいね」
ゲンナリした気持ちが少し顔に出てしまっていたのか、サリーナ司祭が心配そうに声を掛けてくれる。
唯一の慰めである女性の声に、僕は小さく頭を振った。
「いえ、大丈夫です。今日は頑張りましょう」
「ええ、私も出来るだけのことはさせて貰うわ」
「よし、気持ちも一つになったことだし、サクッと七層を攻略するぜ!」
「おう!」
「任せとけ!」
ガッシリと腕を組み合うマッスル達の絵面を見ながら、僕は心の中で深々とため息を吐いた。
どうして、こんな流れになってしまったのか。
その切っ掛けは、ドナッシさんの御見舞へ行ったことが始まりだった。
▲▽▲▽▲
「こんにちわ、誰かいらっしゃいますか?」
ドナッシさんのお宅は、噴水広場近くの古い町並みが残る一画にあった。
メイハさんに教えて貰った通りの場所だ。
なんでもメイハさんの後輩の人がドナッシさんの治療を担当していて、一度頼まれて容体を診察しに行ったそうだ。
途中の屋台で買った串焼きの詰め合わせを手土産に、扉をノックするが反応がない。
家の中から騒がしい声が聞こえてきたので、ひと声かけてから覗き込む。
なにやら修羅場の最中のようだった。
女性の憤る声と、それを懸命になだめる男性の声。
次やったら死ぬとか、お前しかいないとか物騒なことばかり聞こえてくる。
うん、これは痴情のもつれって奴だな。
浮気がバレたとか、手を出した相手が不味かったとか、それ系に違いない。
日を改めますかと踵を返した瞬間、背後にいた人物とぶつかりそうになる。
そこに居たのは、買い物かごを下げたおさげ髪のあどけない少女だった。
うちのちびっ子たちと同じ年くらいかな。
僕を興味深そうに見上げていた少女は、ニッコリ笑みを浮かべて話しかけてきた。
「もしかして、お兄のお客さんですかー?」
「えっと、今、お取り込み中っぽいので、後にしようかと」
「お兄、お客さんだよー」
静止する間もなく、女の子は扉を開けて大きな声を張り上げる。
途端に言い争いはピタリと収まった。
「さぁさぁ、中へどーぞ」
「お、お邪魔します」
なんだか非常に気まずい空気の中、玄関へ足を踏み入れる。
古めかしい造りだが、掃除が行き届いており塵一つ落ちていない。
「今、お茶淹れますねー。こっちへどうぞー」
「そんな、おかまいなく」
なし崩し的に台所のテーブルへ案内されると、そこには先客がいた。
サラサラの長い黒髪に眼鏡姿の見目麗しい女性だ。
こんな美人な彼女がいるのに浮気はいかんでしょ、ドナッシさん!
女性とテーブルを挟んで、ラフな格好のドナッシさんが座っていた。
休養中で前髪を下ろしているせいか、いつもと違って年若い印象を受ける。
「すまん、来てくれたのか」
「もうすっかり大丈夫そうですね。これ良かったら召し上がって下さい」
「おお、すまないな。ペコ、晩飯のオカズを頂いたぞ」
「ホント! ありがとう」
ペコちゃんという名の少女が、ペコリと頭を下げてくる。
うん、礼儀正しくて良い子だな。
「えっと、この坊主は……ナナシって名前で良いんだっけ?」
「説明すると長くなるのでソレで」
「こんにちわ、ナナシさん」
「こんにちわ、ペコちゃん。そちらの方も、初めまして」
僕の挨拶に、女性は驚いた表情を浮かべる。
「この格好だと分かり辛いのかしら。こんにちわ、ナナシ君」
そう言いながら女性は両手で、髪を軽く束ねて見せる。
すると美人さんは、たちまち見慣れた知り合いへ早変わりした。
「えっ、あれ? もしかして、サリーナ司祭?」
「もしかしなくてもそうよ」
サリーナ司祭は迷宮一層の治療室で、何度もお世話になってことがある治癒術士の人だ。
同時に僕の中で、ピースが次々とはまっていく。
「それじゃ、メイハさんの後輩の治癒術士さんって」
「お姉様には、神学校時代からお世話になってるの」
「ひょっとしてドナッシさんに、命綱を掛けてあげたのも?」
「ええ、断りきれなくてね、ついね」
「そうだったんですか。お二人とも、結構長いお付き合いなんですか?」
「そうね、かれこれ二十年以上になるかしら」
これは幼馴染みからの大恋愛というやつか。
長年連れ添った恋人を裏切るなんて、男としてかなり駄目な気がする。
「そんな長い付き合いなのに、いつも心配ばっかり掛けて、そのくせまた同じことしようとするのよ。酷いと思わない?」
「おい、今、言うことじゃないだろ」
「いいえ、この際だからハッキリさせておきたいの。都合のいい女扱いされるのはウンザリなのよ」
「いや、誤解だって。そんな風に思ったことは一度もない」
どうもよりを戻そうと懸命なドナッシさんに、サリーナ司祭が愛想を尽かしかけている感じなのか。
「なあ、一緒に潜った坊主なら、俺がそんな口だけの男じゃないって知ってるだろ」
「えっと、よく分かりませんが、ドナッシさんにも何か余程の事情があったんじゃないでしょうか」
「そうそう、男の意地って奴は、そう簡単には譲れないからな」
いや、そこで開き直るのは、非常に不味い気がします。
「何が意地よ! その下らない考えのせいで、ずっと悲しむ人が居るのよ!」
ああ、やっぱりお怒りになられてしまった。
「ここは素直に頭を下げましょう、ドナッシさん」
「いや、頭ならずっと下げてんだが……」
「気持ちの問題じゃないのよ。何度も同じようなことになるのが嫌なの」
「その通りだな……。確かにこのままじゃ、前と同じ結果になるのは目に見えてる」
堂々と浮気再発宣言するなんて確かに男らしいですけど、それも何か間違っているような。
「よし! 頼む、坊主。俺に力を貸してくれないか」
「えっ? いやその、お手伝いでしたら出来るだけ協力しますけど、ここはやはり当人同士の気持ちが一番大事なんじゃないですか?」
流石に浮気阻止なんて、僕の手に余り過ぎる。
当人同士という言葉に悟るものがあったのか、ドナッシさんは何かを決めた表情を見せる。
「そうだよな。けじめはちゃんと付けておかないとな」
いつになく真摯な顔になったドナッシさんが、背筋を伸ばし姿勢を正した。
そして当惑顔のサリーナ司祭へ、真っ直ぐ視線を向ける。
これはまさか……プロポーズとか?
お茶を運んで来てくれたペコちゃんも固唾を飲んで、二人を見守っている。
「サリーナ、俺を信じてどうか」
「どうか?」
「どうか、うちの小隊に入ってくれないか?」
「……………………仕方ないわね」
「やったね、お兄! お姉ちゃんもおめでとうー」
パチパチと嬉しそうに手を鳴らすペコちゃん。
釣られて僕も拍手に参加してしまう。
末永く幸せになって下さい、ドナッシさん、サリーナ司祭。
どうぞ円満な小隊を築いてって……あれ?
「あのう、ちょっと確認ですが、お二人ってどのような御関係なんです?」
「どうって、抜き差しならない関係かな」
「一言で言うなら、腐れ縁かしらね」
「さっき揉めてた死ぬとか、お前しかいないとかは……?」
僕の問い掛けに、二人は少し恥ずかしそうに目を伏せる。
「やっぱり聞こえていたのか。実はなもう一度、命綱を掛けてほしくて頼んでたんだよ。あんなにお布施の安い心当たりは他にいなくてな」
「前の時もかなり危なかったのに、また治癒術士を同行させずに、七層へ行くって言い出すから。命綱は、あくまでも緊急処置でしかないのよ」
僕の中で、またもピースが次々とはまっていく。
これ痴話喧嘩じゃなくて、探求絡みの話だったのか。
「ま、次は頼りになる坊主が一緒に来てくれるんだ。前みたいな有り様には、簡単にならんさ」
「そうやって油断するから痛い目に合うんでしょ。ナナシ君、無茶なお願いなのに、聞き入れてくれて本当に助かったわ」
「えっ? あの、その……どういたしまして」
今さら勘違いでしたと、断るのも気まずい。
巻き戻ししようかとも思ったが、また悪臭まみれに戻るのも辛い。
それにこれは、もう良い機会だと捉えるべきか。
僕の巻き戻しは、たまに抗えない流れが存在する時がある。
今回のは、それのような気がしてならない。
あと酷い言い方だけど、ソニッドさんたちなら、かなり危ない目にあっても大丈夫だし……。
愛想笑いを浮かべていたら、ペコちゃんがこっそり耳打ちしてくれた。
「お姉ちゃん、ホントはお兄のこと大好きなんだよー」
言われてみれば、サリーナ司祭のドナッシさんを見る眼差しはとても優しげだった。
「なんだか複雑そうな関係だね」
「大人って、いろいろ大変なのよー」
そう言いながら、少女は僕に無邪気に笑ってみせた。




