朝帰り
結局、朝までトイレの個室で眠っていたようだ。
便座に腰掛けたまま奇妙な夢にうなされていた僕は、ガヤガヤと響いてくる人の声に目を開けた。
最初はどこか分からずパニックになりかけたが、鈍く疼く後頭部と口の中の苦味に記憶が少しずつ蘇る。
「…………飲み過ぎたかな」
昨夜はニドウさんに誘われてこの酒場に来たら、ソニッドさんたちがいて……何か変な料理勝負をしたことまでは覚えている。
そこから急に盛り上がって、みんなで肩を組んで楽しく歌っていた記憶もかすかにある。
最後は樽から直接、麦酒をすくって、浴びるように飲んでたっけ。
あくびをしながら首を捻ると、ゴキゴキと嫌な音がした。
背中の筋も、ガチガチに強張っている。
うう、早く帰って、メイハさんかイリージュさんに回生を掛けて貰おう。
いや、その前に風呂に入りたい。
昨日、迷宮に潜ったままの格好だしな。
そこでようやく僕は、自分の上半身が裸だと気付いた。
あれ、黒豹の革鎧は?
そういや、暑くて脱ぎ捨てた覚えが薄っすらあるぞ。
血の気が一気に引いた僕は、慌ててトイレから飛び出した。
「おう、坊主じゃねえか。どこ行ってたんだ?」
昨夜のテーブルに急いで戻ろうとした僕を出迎えてくれたのは、水玉模様のエプロンを着てモップを握りしめたソニッドさんの姿だった。
「おはようございます。昨日はトイレで寝ちゃってたみたいで……」
「そっかそっか。服だけ残して帰っちまったかと心配してたんだぜ」
そう言いながらソニッドさんは、椅子に掛けてあった黒豹の皮鎧を放り投げてくれた。
ちょっとお酒臭いが、大した汚れもなくホッとする。
「皆さんはどうしたんですか?」
「ああ、爺さんとセルドナなら、そこら辺に転がってるぜ」
よく見れば床やテーブルのあちこちに、酔いつぶれたらしい人たちが死体のように転がっている。
「グーグーコンビは、花街行くって途中で抜けやがった。まったく、若い奴らは元気があり余ってやがるな」
酒の臭いが残る息を深々と吐きながら、ソニッドさんは床の汚物をモップで器用にまとめていく。
「ふう、歳は取りたくねえもんだ。年々、酒の抜けが悪くなってきてな」
「そうですか。ところでその格好……」
「おう、朝飯できたぞ。床の掃除終わったか?」
湯気を立てるトレイを運んできたのは、同じように水玉エプロン姿のニドウさんだった。
「お、ナナシも居るのか。お前も食うか? オジサン特製スープは超美味いぞ」
「おはようございます。あの……お二人とも、どうしてそんな姿に?」
トレイを手にしたニドウさんと、モップにもたれかかっていたソニッドさんは、互いに目を合わせた後、照れ臭そうな笑みを浮かべた。
「昨夜ちょっと、はしゃぎ過ぎてな」
「チョウシ乗って、酒樽を何本も開けるからだろ」
「あぁん、お前がそれを言うか。糞高い酒をこっそり頼みやがって。あれ一本、いくらするか知ってんのか?」
「知るか! 俺はオゴリには容赦しない主義なんだよ」
「うるせえ、遠慮しろ。さっさと迷宮でくたばれ」
「お前こそ、宝箱でしくじれ!」
「それはいつものことだよ、ほっとけ!」
どうやら昨日、飲みすぎて、支払いがソニッドさんの財布の容量をオーバーしたらしい。
その連帯責任で、ニドウさんも強制的に働かされていると。
「不毛な争いは止めませんか? 持ち合わせなら少しありますよ」
「マジか!」
「でかしたよ、ナナシ君!」
財布からギルド紙幣を取り出すと、露骨にガッカリされる。
「ここの支払い、貨幣のみなんだわ」
「そうなんですか」
「飯でも食うか……」
「そうだな……」
具が薄切りした玉ねぎだけのシンプルなスープに黒パンをひたして、三人で黙々と食べる。
スープはお酒で荒れた胃に、優しく染みこむ味だった。
食べ終えたので、改めて店内を見回す。
よくよく見れば床やテーブルには吐瀉物や食べ残しが大量にぶち撒かれており、酷い有り様だった。
「僕も何かお手伝いしましょうか?」
「いや、坊主にはここの手伝いは無理だな」
「ああ、そうだな。今のナナシには、少しばかり荷が重すぎるぜ」
「な、なぜでしょうか?」
水玉エプロン姿の二人は、深刻な顔で僕を見つめてくる。
何か不味いことでも、やらかしてしまったのだろうか?
生唾を飲み込む僕に、ソニッドさんがそっと打ち明けてくる。
「いや実はな……、今のお前、かなり臭うよ。飲食店の手伝いで、その臭さはちょっとな」
「ああ、正直、一緒に飯食うのも、結構辛かったな」
「もっと早く言ってくださいよ!」
そういえばトイレで一晩、過ごしたんだった。
鼻が馬鹿になってて、気付かなかったよ!
▲▽▲▽▲
金板級の特権の一つが、お風呂の無料利用だ。
時間が早いせいか、大浴場はガラガラだった。
体を丹念に洗ってから、広い浴槽で両手足を力一杯伸ばす。
独占できるのは嬉しい誤算だ。
ついでにサウナでゆったりと汗を流し、トイレの臭いが完全に落ちたのを確認してから家に戻る。
「ただいま」
「お帰りなさいませ、旦那様」
玄関を開けると、すぐにキッシェが出迎えてくれた。
でも、何だか少し様子がおかしいような。
「あ、隊長殿が帰ってきた」
「…………おかえり、兄ちゃん」
「主様、お戻り頂けましたか」
リンとモルム、それにイリージュさんまで出てくる。
ふわふわと寄ってきたモルムが、僕にギュッと抱きついてきた。
そのままクンクンと鼻を動かし始めたので、まだトイレの香りが残っていたのかと不安になる。
「もしかして臭い?」
「…………ううん、石鹸の良い匂いがするよ。あとお酒臭い」
モルムの返事に、空気が一瞬だけざわつく。
なぜか皆の視線が、突き刺さるように鋭い。
「もう、あなたたちったら、何を集まっているの」
奥から顔を出したのは、休日モードのメイハさんだった。
すみれ色のキャミソールの胸元は、ブラをしてないせいでたゆたゆと揺れている。
フレアパンツから覗く太腿も、真っ白過ぎて眩しい。
「ほら、ナナシ君も困ってるじゃない」
「でも、メイハ母様」
「母さんも心配だろ。隊長殿が他の女と遊んで帰ってきたら」
「だから言ったでしょ。ナナシ君も男の子なんだから、そういう時くらいあるのよ。下手な詮索は、かえって嫌われるわよ」
「誤解です!」
しまった!
風呂で臭いを落としてきたのは、逆効果だったか。
「…………兄ちゃん、女遊びしてたの?」
「私は旦那様を信じています」
メイハさん、そのやんちゃしちゃった子供を見るような目は止めて。
モルムとリンはなぜか興味津々な様子だし、キッシェとイリージュさんは洒落にならないほど冷めた眼差しを放っている。
「いや違うよ。勘違いだよ。確かにお風呂に入ってきたけど――」
「それって花街のお風呂屋さんですよね? 隊長殿」
「だから違うって!」
「旦那様、お風呂なら沸いておりますので」
「お背中、お流ししますね。主様」
「ミ、ミミ子ー。早く来てくれー」
僕の哀しき叫びが聞こえたのか、ミミ子を抱っこしたニニさんがひょっこりと奥から顔を出す。
「どうした、主殿?」
「ミミ子をこっちに下さい、ニニさん」
「あと五分待ってくれるか」
「な~に~?」
「ほら、僕の臭いから分かるだろ。どこのお風呂に入ってきたか」
ここは猟犬並に鋭いミミ子の嗅覚頼みだ。
頼む、みんなの誤解を解いてくれ!
「う~ん。これいつものお風呂屋の石鹸だね」
「ふぅ。ほら、これで証明できたろ」
「でも、花街のお風呂屋の石鹸の匂いとか知らないから、違うかどうか分からないよ~」
その一言は余計だろう!
う、皆さん、あからさまに溜息吐くのは止めて。
――――仕方ないか。
こんな無駄なことに一回使うのもアレだが、家庭円満の方が遥かに大事だ。
みんなに背を向けて、視線に誰一人入れないようにしながら、僕は戻れと小さく呟いた。
流石に酒場のトイレに、みんなを連れて巻き戻す訳にはいかないしな。
背中に当たる陶器の固い感触に、ウンザリした気持ちが蘇ってくる。
この後、お風呂に寄らないで直帰した僕だが、あまりの臭さに家の中へ入るのをキッシェにやんわりと止められた。
浮気疑惑は晴れてよかったが、代わりに何か大きな犠牲を払った気もする。




