とある少女の生誕話
その廃村は街道筋からやや離れた場所にあった。
小さな鉱山の麓に人が寄り添って出来たちっぽけな集落であったが、相次ぐ戦に鉱夫が駆り出され村として立ち行かなくなり寂れてしまった。
とうの昔に坑道は塞がれ、それなりに賑わっていた通りも今はもう人影一つない。
それゆえ街道から外れて村に向かう轍の跡があっても、生い茂った草むらに隠されて誰も気付けないような有り様だ。
朽ち果てた家々が並ぶ村の中心に、一回り大きな古屋敷がある。
そこはかつて村長の屋敷であったが、金を掛けた石造りのせいで家主が失せてからも風格はあまり衰えを見せていない。
複数の馬車の轍は、その屋敷の馬屋へ続いていた。
時刻は月が山の頂に差し掛かる頃合い。
屋敷の奥座敷で複数の男女が、ある品々の選り分け作業をしていた。
女が袋から取り出したのは、おくるみに包まれた赤子だ。
無造作に片手を引っ張り出された赤子は、火が着いたかのように泣き声を上げ始める。
それを気にする素振りを全く見せぬまま、女は幼児の手を水晶に押し付けた。
ロウソクの弱々しい灯りの下、水晶を覗き込んでいた女は無言で首を左右に振る。
ますます猛々しい声を放ち出した赤子の頭に、枯れ木のような誰かの手が伸びた。
即座に幼い声が、萎むように消え失せていく。
同時にその血色の良かった顔は、瞬く間に古い岩のように色褪せ細かくひび割れる。
薄茶色の固まりと化した赤子は袋に詰め直され、また新たな子が取り出される。
女は同じように幼児の手を取り出しかけて、ほんの少しだけ躊躇った。
その子供はとても愛らしい顔立ちをしていた。
薔薇色の頬に小さく上を向いた鼻。
スヤスヤと眠りにつく寝顔は人形のように整っており、思わず腕の中に抱きしめたくなるほどであった。
だが女は誘惑に耐えて、赤子の手を先程の水晶に触れさせる。
そして浮かんできた文字に、我知らず高く声を上げた。
「この子、創命の恩寵持ちです。それと明星の……炯眼、あと滅理の冥加も……」
「おやおや、三つもかい。欲張りな子じゃのう」
困惑の入り混じる女の言葉に答えたのは、脇に座り込んでいた老婆のしわがれ声であった。
物珍しそうに赤ん坊の顔を覗き込む老婆は、小枝のような己の指を差し出す。
ぷっくらと膨らむ赤ん坊の唇を撫で回しながら、老いさらばえた女は皺塗れの口端を持ち上げた。
「で、どうするんじゃ? そっち側かこっち側か」
老婆の問い掛けは、ロウソクの光が届いていない部屋の奥へ発せられた。
闇に潜んでいた人影が身動ぎする。
奥から現れたのは、白いベールで顔を隠した一人の女性だった。
女性は赤ん坊を一瞥すらせず、抑揚のない声で下女に命じる。
「いつもの様に処置を。それと新しい宝珠を用意して」
「分かりました」
「ひゅっひゅ。葬る側に転んだか。この哀れな子に安息の終わりが、いつか訪れるのを願ってやるかのう」
欠けた前歯の割れ目から隙間風のような笑い声を立てながら、老婆は祈りの言葉を口にした。
だがその祈願は、結局叶えられることはなかった。
指をしゃぶり始めた赤ん坊は、控えていた男女に手渡される。
触れるだけで折れそうなほど細い手足が押さえつけられ、黒い糸を通した針が準備された。
みずみずしい弾力を持つ赤ん坊の唇に、迷いもなく針が突き立てられる。
たちまち座敷中に響き渡るほどの悲鳴が、幼子の口から嵐のごとく噴き出した。
可愛かった顔をクシャクシャに歪めて泣き叫ぶ赤ん坊の唇を、大人たちは手早く強引に糸で閉じ合わせていく。
無理やり声を封じ込まれた赤子は、全身を引き攣らせながらも懸命に手足を動かして抗った。
だが大人たちは一切の表情を消したまま、淡々と作業を終わらせる。
唇を縫い合わされた赤ん坊は、頬を真っ赤に染めて苦しそうに喘ぐ。
大粒の汗を浮かべる幼子の肌に、白いローブの女性の手がそっと添えられた。
優しく流れ込む癒やしの力に、赤ん坊の呼吸がじょじょに和らいでいく。
しっかりと黒糸が子供の唇に癒着したのを確認した女性は、治癒の手を止めて子供を下女に任せる。
豊かな胸に抱かれた赤ん坊は、泣き叫んだ分を取り戻すかのように乳房に抱きついた。
だが栄養を欲する赤ん坊の口は、すでに本来の機能を封じ込まれている。
飢えた赤子は、必死に手を伸ばして乳房に縋りついた。
しかし吸い付こうにもその唇は、決して開こうとはしない。
癇癪を起した赤ん坊は、両拳を固く握りしめて何度も乳房を叩く。
最初は強く。
次第にゆっくりと。
それでも赤ん坊は、懸命に乳房を求め続けた。
このまま力尽きて眠りに落ちれば、二度と赤ん坊の目は開かないだろう。
それを本能的に悟っているのか、小さな命は生き延びるために必死に足掻いた。
やがて赤ん坊は静かになった。
下女の腕の中でぐったりとなったまま、金色の光を放っていた瞳は力なく閉じられてしまう。
心配そうにその顔を覗き込んでいた下女は、不意に襲ってきた脱力感に赤ん坊を落としかけて慌てて抱え直した。
気が付くと血の気が引いてはずの幼子の頬は、つい今しがたと変わらぬほどに赤みが戻っていた。
他者の生を奪う禁命の力――脱力。
どうやら赤ん坊の資質の開花は、間に合ったようだ。
下女は周囲に気付かれないように、ホッと安堵の息を漏らした。
奥座敷では赤子の選定作業が、黙々と続けられていた。
天資の宝珠――直に触れた者の才能を見極める類まれな器物であるが、基本的に一度使えば結果は固定されてしまう。
それを取り消すもっとも簡単な方法は只一つ。
宝珠に印した者の死である。
闇市や貧しい村を回って集められた赤子は、一人一人その才を調べられ不必要と判断された者は全て処分された。
その夜を生き延びた子は、たった一人だけであった。
▲▽▲▽▲
山間の村の暮らしは、少女にとって概ね平和で穏やかな毎日だった。
古屋敷の長である老婆は気難し屋であったが、優秀な教師ならば得てしてそういった一面を持っているものだ。
老婆は少女に物心がつき始めた頃から、生と死の摂理について丹念に教え込んでくれた。
まれに父母の居ない空洞を感じたりもしたが、住み込みの下女たちは面倒見の良い者ばかりでさほど不自由さを感じることもなかった。
それに年々少しずつ同じような境遇の子供が増えていったため、いつまでも寂しいなどと言ってもいられない。
大勢の兄弟姉妹に囲まれて、少女はそれなりに伸び伸びと育った。
街道へ近付くことや山へ入ることを禁じられた子供たちの主な遊び場は、荒れ果てた村の中であった。
隠れん坊や高鬼など下女に教えて貰った遊びで陽が落ちるまで遊んだり、墓場から掘り起こした骨を操っておままごとをしたりと。
もっとも誰一人として笑い声を上げれないので、傍から見ればそれはとても奇妙な眺めであったが。
活発な気質の持ち主であった少女も率先して遊びに加わってはいたが、たまにふらりと姿を消すことがある。
そんな時は決まって、少女は古屋敷の書斎に籠っていた。
読み書きを教えて貰って以来、埃臭い書斎は一人になりたい時の少女のお気に入りの場所であった。
禁命術や屍霊術の難しい古書に混じって、わずかばかりの絵本や娯楽小説の類が本棚の端に並んでおり、内容が良く分からずともパラパラとそれをめくるだけで垣間見れる外の世界には、少女を惹きつけて止まない魅力に溢れていた。
特に少女が愛好したのは、一冊の古ぼけた童話だった。
それは墓穴から出てきた骸骨が村人と仲良くなり互いに助け合うようになる筋立てなのだが、最後の数枚の頁が失われており結末が判らずじまいで終わっている。
その部分を想像するのが、少女にとってたまらない喜びであった。
致し方もない。
まともに食事が取れない子供たちは、皆一様に痩せて皮膚が骨に張り付いた奇態な風貌をしていた。
成長に必要な栄養が補えないせいで背丈も低く、そのくせ手足はひょろ長い。
自分たちは人里離れた場所に隔離された異形であると、少女は薄っすらと勘付いていた。
だからこそ村の外の世界が自分たちを優しく受け入れてくれる場所であると、空想を巡らすしか救いがなかったともいえる。
村の子供たちは、いつも腹を空かしていた。
生気を補充したくても、色々と世話を焼いてくれる下働きの雇い女たちから吸える量には限度がある。
子供たちは腹が空いたときは、互いに生気を与え合う関係となった。
それは奇妙な共存状態を生み出し、子供たちの連帯感を高めることに繋がった。
だがどれほど仲が良くでも、生気が不足していた事実はどうしようもない。
稀に野犬が村に迷い込んできた時などは、ご馳走を巡り大騒ぎになったりもした。
それに関して悲しい思い出が、少女に一つだけある。
書庫に通い詰めていた少女だが、梁の上や本棚の後ろから顔を覗かせる一匹のネズミと目を合わせる機会がたびたび起こった。
一計を案じた少女は、こっそりと馬屋や台所から集めた雑穀を書庫に持ち込む。
一年も経つ頃には、ネズミは寝っ転がって絵本を広げる少女の腹の上を我が物顔で歩き回るほどになった。
名前を声に出せない少女は、舌を鳴らすとネズミが出てくるよう躾ける。
餌を手にチッタチッタと呼び付ければ、ネズミが脛を懸命によじ登ってくる。
ネズミの灰色の毛並みを撫でながら、軽く生気を吸い上げるのが少女の隠れた楽しみであった。
その不幸な出来事は、たまたま用事を思い出した老婆が書庫を訪れた際に起こった。
お目当ての本が見当たらなかった老婆は、苛立たしげに舌を鳴らしたのだ。
そしてひょっこりと姿を現した間抜けなネズミの尻尾を摘み上げた。
ネズミは腹を空かせた幼年組の部屋へ投げ入れられた。
外でたっぷり遊んで帰ってきた少女を出迎えたのは、カラカラに干乾びてしまった小さな友の姿だった。
涙をボロボロとこぼし何も言えずしゃくり上げる少女の姿に罪悪感を感じたのか、老婆は己の血肉を与えることで生を失ったモノを永らく呼び戻すことのできる忌術を教えてくれた。
それ以来、ネズミの骨は少女の長き友となった。
様々な思い出に満ち溢れたこの時期は、少女にとって忘れ難い唯一の良き時代だったといえる。
そして十五の歳を迎えた日、呼び出された少女の前に現れたのは白いベールの女であった。
▲▽▲▽▲
口縛りの忌子――子供たちは行く先々の戦場でそう呼ばれた。
サリドールと名付けられた少女は故郷の廃村を離れ、姉や兄の仕事の手助けに回ることとなった。
仕事は簡潔に述べると、死体を操って死体を増やす――それだけだ。
最初の戦場は深い森だった。
そこでは長耳族と赴任したての領主の間に、森の権利をめぐり諍いが起きていた。
森は長耳族の領域だ。
迂闊に踏み込んだ兵たちは、草むらや木の陰から音もなく飛んで来た矢で死体となった。
藪奥深く追いかけた兵も、待ち受けていた罠で死体となった。
長耳族の棲み処は、精霊術と巧妙な罠に守られており特定は困難を極めた。
数の有利が通用しない相手に業を煮やした領主が、頼みにしたのが忌子の噂であった。
呼び付けられた少女たちは、長耳族の娘を利用することにする。
捕虜の娘は丸一日、兵に嬲り者にされたせいですでに息の音が止まっていた。
サリドールと姉は娘を身綺麗にしてやり、蘇らせ森に戻す。
死人を動かすのは、最後に抱いた妄念である。
死を忘れた者となった娘は、後をつけた兵たちを長耳族の隠し砦へやすやすと案内してくれた。
涙を流して出迎えた初老の男の首筋に娘が歯を突き立てたのを皮切りに、伏せていた兵士が雪崩を打って砦に押し寄せる。
長耳族の娘が死してなお帰りたいと願った場所が、その執着のせいで滅んでいく様をサリドールは静かに眺めていた。
初仕事を無難にこなしたサリドールは、死体の山が積み上がる戦場で黙々と働き続けた。
死体が死体を作り、怨嗟と畏怖が手を携えて広がっていく。
そして死者の軍勢を生み出すサリドールたちは、勝利をもたらしはしたが当然の如く友軍からは唾を吐かれ目を背けられた。
残念ながら村の外の世界は、死を招き寄せる少女を暖かく迎え入れてはくれなかった。
だが全てがそうだった訳でもない。
少女たちの利用価値の高さから為政者の間では、逆にその評判は広まっていく皮肉な結果となった。
死人はほとんど元手が掛からぬ便利な使い捨て軍隊である。
糧食を消費せず、給金も報奨も必要としない。
サリドールたちは行く先々で、貴賓扱いで出迎えられた。
屈強な兵士が護衛に付くようになり、生気に困らなくなった。
血色を取り戻した少女は、その口元の黒い縛めを含めて衆目を集める美貌の持ち主へと姿を変える。
白いベールの女の指図に従い、少女は幾多の戦場を渡り歩いた。
その過程でより強力な死人を数多く操れるよう、屍霊術と禁命術に磨きをかける。
最初は短期間で自壊したり妄念が強すぎて制御出来ずと問題が多かった死人の群れだが、自らの血を分け与えることで支配を強化し戦闘継続時間の底上げを可能とした。
さらには奈落から呼び出した業火で骨を焼き、骸骨兵は打たれ弱いという戦場の常識さえ覆してみせた。
やがて黒い骨を引き連れた少女の姿は、死の使いとして敵味方の両方から恐れられるようになる。
亜人に苦戦する諸侯たちはこぞって忌子たちを手許に置きたがり、養子として家族に迎え入れる家さえ現れた。
数年が過ぎさり、この世界がどこも変わり映えしないと少女が気付き始めた頃、姉の一人が死んだ。
殺されたのではなく病死だった。
それが始まりであった。
半年の内に兄二人と妹が死に、翌年には五人が黒い血を吐いて死んだ。
生気を分かち合った兄弟姉妹の死に、サリドールは激しい憤りと強い疑問を抱く。
幸いにも少女には、"明星の炯眼"という人の秘密を見通せる資質が備わっていた。
さらに狭いところに潜り込める頼もしいネズミの相棒も。
少女は雇い主である貴族や領主の夜会に顔を出し、他の忌子たちや戦場の情報を集めつつ、書斎や寝室へ忍び込ませたネズミに手紙や書簡を盗み出させた。
結果分かったのは、忌子たちの出向いた戦場が辺境ばかりであったこと。
そして忌子たちが去った後に、その地の亜人たちに恐ろしい疫病が猛威を振るっていたこと。
サリドールは村を離れる際に、白いベールの女に黒い石を胎内に埋め込まれたことを思い出した。
あの女はそれを楔だと言っていた。
どこに逃げても、これが知らせてくれるとも。
妹の死に立ち会ったサリドールは密かに墓を暴き、その身体を調べた。
幼子の黒く変色した内臓のどこにも、黒い石は見当たらなかった。
そこでサリドールは、隠されていた真実にようやく辿り着く。
白いベールの女の目的は、初めからこの黒腐りの病を亜人たちに流行らせることであったのだと。
埋め込まれた黒い石は、実は病の種子であったとも。
他人の生気を吸って生きる忌子たちの肉体は、常人と違い代謝をほとんど行わない。
そのために病に罹っても、すぐには症状が現れにくい。
ゆっくりと静かに病態が進行するため、病を遠くへ運ぶのにもっとも適しているのだ。
忌子たちが死人を操るために撒いた血から亜人へ感染が広がり、最終的に子供を産めぬように内臓を腐らせてしまう。
遠大な企てであったが、それは確実に功を奏していた。
そして役割を終えた忌子たちは、何も語れぬまま死んでいく。
サリドールがそれに気づいた時は、すでに多くが手遅れであった。
あちこちの地に飛ばされていた忌子たちのほとんどは病で死に絶え、故郷の廃村は終末神を崇めていたという理由ですでに焼き討ちに遭っていた。
老婆と幼い弟妹たちは屋敷で火に巻かれたとか、廃坑に逃げ込んだとかの噂だけが伝わっており消息は不明のままだ。
情報を集めながら、サリドールは生き延びる道を必死で探した。
なんとか中央から距離を置き、白いベールの女の影響が及びにくい北方の地に逃げ込む。
そこは追放された諸侯の一人、エーラサス伯が治めていた大凍原であった。
悪名高き"屍使いの忌子姫"は、養子としてエーラサス家に潜り込むことに成功する。
代償として少女が支払ったのは、極寒の地での難戦だった。
大鬼の氏族は、これまで戦ってきた中でもっとも手強い相手であった。
サリドールは敢えて兵隊を何度も死地へ追いやり、死体を増やす策を取る。
そして盛大に汚れた血を撒き散らし、疫病によって勝利する道を選んだ。
病を治す手段と引き換えに、サリドールは屈強な大鬼の下僕を手に入れる。
ただその治療法とは、病に罹った者を隔離するだけという非情な選択であった。
だが病の感染源であるサリドールがその地に留まり続ければ、被害は今以上となる。
残酷な事実を知らされた大鬼の族長には、少女の条件を呑むしか道は残されてなかった。
養父から多額の報奨金をせしめたサリドールは、大鬼たちを引き連れて迷宮都市へ向かう。
そこが少女にとって、最後の希望の地であった。
サリドールは、ただ死に場所を求めて北へ逃げたのではない。
少女の狙いはもう一つあったのだ。
エーラサス家の当主が追放されたのは、実は彼の異常な程の書物の蒐集癖が原因である。
違法な手を使ってまで集めた蔵書の中には、所持を禁じられた『死園の書』が含まれていた。
その書には、生者を生きたまま死者に転生させる外法が記載されており、それこそがサリドールが探し求めていた答えであった。
白いベールの女の影に怯えながら、少女は地の底で懸命に禁遺物を探し求めた。
そして病によって寿命が尽きかける寸前、サリドールはお目当ての品、反魂の宝珠を手に入れる。
生と死を間近に見つめてきた少女は、自らの死を手放して新たに生まれ変わることを選んだ。
一縷の妄念を、愛しき一人の大鬼に託して。
▲▽▲▽▲
迷宮で目覚めたサリドールが、最初に感じたのは大いなる解放感であった。
半生を白いベールの女に支配され、自らを死人に変えた後は迷宮の主に支配される。
その軛から少女は、ようやく解放されたのだ。
初めての声に、初めての味。
興奮する少女の目に飛び込んできたのは、信頼するニニの傍らに寄り添う白いベールの女であった。
心臓がひっくり返るほどの衝撃を隠しながら、サリドールは咄嗟に無邪気な少女を装う。
同時に心の内で、必死に計算を巡らせる。
女の狙いは何か?
まさかここまで追ってきたのか?
今の自分であれば勝てるか?
そもそも、こやつはあの女なのか……?
メイハという名は初めて聞いたのじゃ。
考えあぐねたサリドールは、終末の使徒らしさを示す答えを取り敢えず選ぶ。
「それはのう、もっと死をもたらすためじゃ。存在の喪失こそが我の使命、我が生まれてきた役割なのじゃ!」
結果から言えば、メイハはあの白いベールの女ではなかった。
よく考えれば年齢が合わないのだが、少女がそれに気づいたのはかなり後になってからであった。
現世に再び舞い戻ったサリドールは、目立たぬようこっそりと情報を集め直す。
幸いにもネズミの頭骨は、蘇った際に一緒に復元されていた。
新しい家で弟妹と同じ年頃の子供たちと戯れながら、サリドールは油断なく住居に近付く者がいないか見張り続けた。
同時にネズミを放ち、自らが置かれた状況とかつての自分たちの痕跡を調査する。
やはり白いベールの女の記録は、どこにも残っていなかった。
唯一の手掛かりは、女が疫病の源を育てるために使っていた秘跡『育成』の存在だ。
この秘跡は、治癒術士の中でも使える家系はかなり絞られる珍しい術でもある。
だがこの迷宮都市の全ての情報を握る迷宮組合を、伝手のないサリドールでは探る手段がない。
行き詰った少女に手を貸したのは、狐の耳を生やした亜人の娘だった。
ミミ子と名乗るその少女とは、雪林檎のジャムを巡る死闘を演じて以来、親友となっていた。
サリドールと同じく白狐族の娘も転生に近い生き方をしていたのが、気が合った要因かもしれない。
もっともミミ子の場合は、前世の記憶が現世の人格に憑りつくという恐ろしい状態であったが。
そしてつい先日、ギルド職員を通してミミ子が得た報告書には、この迷宮都市で現存『育成』を使える治癒術士は存在しないと記されていた。
頭を押さえつけていた重荷がついに取り除かれた少女は、その日仮初めの誕生日を迎えた友と笑い声を上げる。
そこに家主である名前も持たぬ少年が、唐突に言葉を挟んできた。
「サリーちゃんの秘密なら僕も一つ知ってるよ。耳に付けてるそのネズミの名前、チッタって言うんだよね」
教えた覚えのない従僕の名を言い出した少年の顔を、サリドールはマジマジと見上げた。
名前に間違いはない。
ならば少年が語る巻き戻しの時間の中で、今はもう存在しない我がこの子を信頼して名を明かしたのだろう。
不意に少女の脳裏に、幼年時代の思い出が呼び戻される。
可愛がってたネズミが、うっかり死んでしまったあの日の記憶だ。
眉をよせ、困り顔でおろおろとする老婆。
一生懸命に慰めてくれる兄弟姉妹たち。
泣きつかれた少女に、優しく子守唄を歌ってくれた乳母。
もう何もかもが遠い昔の話。
そして今、あの地を離れ外の世界を巡った身は、ここで新たな家族に囲まれている。
水滴が頬を伝う感触に、サリドールは驚いて瞬きした。
察してくれたのか隣に座る少女が、そっとコロッケの皿をサリドールの前に押し出してきた。
じんわりと甘くそれでいてどこかほろ苦い味を、死を忘れた少女は静かに味わう。
この家の子供たちに読み聞かせた多くの絵本の中に、あの骸骨の童話もあった。
数十年の時を経て、サリドールはその結末を初めて知る。
村人と仲良くなった骸骨であるが、やはり光の下の生活は厳しいため墓穴に帰ってしまう。
そこにお土産をいっぱい持った村人が、訪ねに行くシーンで絵本は終わっていた。
いつか己も迷宮に還る時が来るだろう。
その時に自分を知る誰かが訪ねて来てくれたら、それはどんなに愉快だろうか。
願わくばそれがこの家族の血を引いた誰かであってほしいと、少女は心の内で呟いた。




