悪意の影/六周目
目蓋を開けるとそこは、快適で暖かい僕の寝室だった。
危険と隣り合わせの迷宮から、この安全な場所へ戻った時は、いつも気持ちの落差を埋めるのにちょっと時間がかかってしまう。
眩しい日差しに目を細めながら、枕元に転がる砂時計を見やる。
言葉に言い表せない荒々しい感情が、腹の底から湧き上がり拳を形作った。
振り上げた腕を衝動のまま振り下ろしかけて、寸前で止めた。
砂時計を叩き壊しても、次に巻き戻せば元に戻っている。
何の問題もなく使用できるだろう。
だが僕が過去に一度それを壊した事実は、消え去らない。
この先、時計を見るたびに、粉々になった感触が思い起こされるのだ。
記憶は戻らない。残り続ける。
だから壊しちゃいけない。
深く息を吸って、拳を下ろす。
ミミ子たちと家族になったこの一年で、僕は自分の中に様々な感情が眠っていたことを知った。
以前の僕であれば巻き戻しを使い切ってしまった時点で、部屋から出ることさえ拒絶していただろう。
顔を合わせていた誰かが居なくなっても、残念には思うがそれ以上は何も感じない。
腹を満たせる食事と安全な寝床さえあれば、それだけで十分満足していた。
そんな自分が、随分と昔のことのように感じる。
今の僕の内側には壊したくない記憶が、山のように積み重なっていた。
「何か言いたいのか? ミミ子」
ベッドの端に座ったまま、黙って僕の愚行を見つめていた少女に問いただす。
返ってきたのは、沈黙だった。
日の光を透かす金色の瞳は、何も語らず僕に向けられたまま身動ぎもしない。
「分かってるよ。焦っても仕方ないことくらい」
ミミ子から視線を外し、まだ力が抜けない拳を眺める。
「分かってはいるんだけどさぁ……」
時間を巻き戻せる僕の力は、すこぶる強力だが決して万能じゃない。
分かってること、確実に起こるであろう物事には、とても頼もしい力を発揮してくれるが、分かってないこと、不確実な事柄の解決には特効薬に成りえない。
一つ一つ、未来を確定させていった上で、結果をひっくり返す道を見つけるしかないのだ。
ただし試行錯誤の繰り返しには、27回までの制限がある。
回数を徒に消費するのは、とても心に応えるのだ。
「少しの愚痴くらいは許されても良いと思うんだ。ああ、リンの手料理が食べたいなぁ。キッシェは無理してないかな。モルムの頭をワシャワシャしたい。うう、メイハさんをいっぱい困らせたい。ニニさんにもいっぱい甘えたい……」
会えない寂しさと心配な気持ちがごちゃまぜになって、とりとめなく口からこぼれ出てくる。
そんな情けない僕に、狐っ子は相変わらずの無言を通す。
「冷たいなぁ、ミミ子。ちょっとくらい慰めてくれよ」
ミミ子の細い肩に手を置いて、三角に飛び出した耳の先を咥える。
甘噛みしていると、少女の手が僕の顔をぐいっと退けた。
つれない態度に負けず、僕は再びミミ子に挑みかかる。
ミミ子は真剣な面持ちのまま、今度は両手を使って僕の頬を押し返してくる。
揉みくちゃになって押し合いをしてると、ミミ子が唐突に声を上げた。
「ああ、もう! ゴー様がごちゃごちゃとちょっかいだすから、地図を忘れちゃうとこだったよ。ったく」
「うっ、ごめん」
「南と東を全部覚えるの、大変なんだよ。ちょっとくらい負担してよ」
「ごめんなさい」
モンスターの挙動は逐一覚えてられるんだが、細かい道筋なんかの暗記はサッパリ駄目だ。
正直、よく覚えてられるものだと感心するよ。
「巻き戻しの直後は、記憶の整理してるんだから邪魔しないで」
珍しくミミ子が真面目な口調だったので、深く反省する。
反省が終わったのでもう一度、耳を噛んでいいかと尋ねたら、物凄く冷めた眼で見返された。
「それで地図は埋まったの?」
「う~ん、結論からして東区に誰かが入った形跡はあったけど、あの時点では誰も居ないね~」
「やっぱりか…………振り出しに戻るってことだな」
それが三回に渡る東区への挑戦で、僕らが得た成果であった。
▲▽▲▽▲
「何者かが探索を妨害しとるじゃと!」
「シッ、声が大きいよ、サリーちゃん」
慌てて注意したが、杞憂だったようだ。
昼下がりのロビーに、人影はあまり残っていない。
顔見知りも鬼人会の二人と、ソファーでいちゃつくバカップルだけのようだ。
しかし小一時間ほど前にあれほどの騒ぎを人前で晒しておいて、平気でベタベタできる神経は凄いな。
誰もこちらに注意を払ってないようなので、話を続ける。
南区はほぼ探索が終わり、ボスの短時間攻略法も確立できたこと。
東区もだいたいの探索は完了したが、ニニさんたちの姿はなかったこと。
そして東区の探索中に鐘が鳴ると、ネズミが復活して三度も逃げ戻る羽目になったことも。
「なるほどのう、仕掛け型の再召喚じゃったか」
五層にあった疑似的な昼夜の仕組みと似ているので、流石にサリーちゃんの理解も早い。
何度も再召喚が遅い点を信用するなと言っていたのも、もしかしたら薄々感づいていたのかもしれない。
現時点で判明しているのは、六層の影型モンスターは倒すと、そのままでは二度と湧かないということ。
ただ街の中央にある塔の鐘が鳴ると、一斉に再召喚される仕組みだと分かった。
そして問題はサリーちゃんの時と同様に、六層のモンスターの再召喚が、誰かの手によってコントロールされている可能性にあった。
「鐘が鳴る条件は、明らかになっておらんのでは?」
「モンスターを倒した数や、時間によって鳴るとも考えたんだけどね」
「ふむむ。何か引っかかる点があるようじゃな」
定刻で鳴ると考えた場合、あまりにも時間が中途半端過ぎるのだ。
僕らが迷宮に入ったのは昼過ぎで、そこから四時間近く経った時間帯で鳴り響いている。
あり得ない話ではないが、夕方に鳴るのはちょっと違和感を覚える。
モンスターの討伐数で言えば、三回の東区探索中に倒したネズミの数が毎回バラバラでも鳴ったので、関係はないと思う。
もっと突き詰めれば条件を絞り込めるかもしれないが、それらを覆すモノを僕は見てしまっていた。
東区のネズミは群れごとに巡回している縄張りがあり、入口側は疎らであるが鐘塔に近付けばその密度が跳ね上がる。
慎重に一つ一つ排除しながら進まなければ、戦闘音を聞きつけた新しい群れが続々と参戦してくる羽目になる。
だがそうやって苦労して開拓したルートは、鐘の音一つで振り出しに戻ってしまう。
いや戻るどころか、縄張り密集区域での鐘の音は、死神の鎌に等しい死刑宣告だった。
倒したばかりのネズミが一斉に蘇り、縄張りの中にいる僕らに殺到してくるのだ。
サリーちゃんの絶圏の限界を超えるその多さに、変則的な盾役しかいない僕らの小隊では抗う術がなかった。
「つまり奥へ踏み込んだ時を見計らって、鐘が鳴らされとると。根拠は何じゃ?」
「……光が見えたんだ」
大きな疑問符を浮かべるサリーちゃんとイリージュさん。
誤解されそうだったので、慌てて言葉を続ける。
「いや塔の中にだよ。アレは誰かのランタンの光だよ。間違いない」
中央の鐘塔には、壁面に小さな矢狭間らしき穴が幾つか設けられている。
鐘が鳴る直前に、その隙間から瞬きほどの光が漏れるのを、三回とも目撃済みであった。
「なるほど、塔の上から、我らの動きを把握しておったと」
「他に確証はないけど、タイミングがあまりにも酷かったからね」
三回とも狙いすましたような危険箇所で鳴らされたので、偶然と言い切るには抵抗がある。
「それで、どうするつもりじゃ?」
「残念だけど、東区からも塔には行けなかったんだ」
「それでは、また良いようにやられてしまうのう」
「いや、もう東区には行かないよ。ニニさんたちが居ないのは確定したし、ボスらしきモンスターも居なかったからね」
「なんと、主が居なくては、手詰まりじゃのう」
現在、残っているのは西区と北区。
北区の門番を倒すべきか、それとも西区に入る方法を探すべきか。
悪意の存在が明らかになった今、そのどちらもがとても困難に思えた。




