ソースの有無
「冷めないうちにどうぞ」
微笑みとともに手渡された熱々のカップを、弓籠手を嵌めたままの左手で受け取る。
厚い布地を通して伝わってくる熱に、思わず頬が緩んだ。
湯気を上げる黄金色の液体に、フゥフゥと息を吹きかけてから一口すすり上げる。
冷え切っていた舌の上に、旨味という名の温かさが広がった。
牛の脛肉と一緒に、白雛豆や刻んだ根セロリ、人参などをじっくり煮込んだスープだ。
臭みが綺麗に失せた純粋な肉のコクが、野菜の甘味と渾然一体となって素晴らしい味わいに仕上がっている。
味付けも塩のみなので、くどさがなくスッキリと飲みやすい。
もう一口含んで、喉を通る熱さをゆったりと楽しむ。
さらに一口。
そこで耐えきれなくなって、カップに口をつけズズズッと吸い上げた。
絶妙な美味しさとともに、腹の底がじんわりと温かくなっていく。
思わず漏らした満足の吐息が、霧に混じり白く溶けた。
息を吐いてはすすり、また息を吐く。
底に沈んでいた白雛豆を、カップを傾けて喉奥に流し込む。
気がつくとスープは全て、僕の胃に収まってしまっていた。
「おかわりされますか?」
「はい、お願いします」
イリージュさんに空になったカップを手渡すと、水筒からスープを注ぎ入れて焜炉の上に置いてくれた。
温まるまで、またしばしの我慢だ。
ぼうっと気を緩めながら、忙しそうなイリージュさんの手元を眺める。
カップの他に焜炉の上には小さなフライパンが載っており、目玉焼きと分厚く切った燻製ハムがジュウジュウと音を立てていた。
予め真ん中で切ってあった丸いパンを二つ、その横に並べ軽く炙る。
パンが温まったらヘラを使って、くすんだ色のハムと今にも黄身が弾けそうな卵を乗せ、最後にまたパンを乗っける。
ふんわりと柔らかみを取り戻したパンに、ハムの油が染み込んでいくのがとても美味そうに見えた。
「サリーちゃん、ハンバーガー出来たぞ」
僕の背中にもたれて寝息を立てていた少女を、軽く揺すって起こす。
パッチリと目を開けたサリーちゃんは、僕の肩越しに手を伸ばして出来たてのハンバーガーを受け取ると無言でかぶり付いた。
サリーちゃんと親しくなるまで勘違いしていたのだが、夜を歩く者は昼間はずっと寝てるものだと思っていた。
実際はそうではなく、彼らは短い睡眠時間で十分に休息を取ることが出来るのだ。
普通の人より眠りが少なくても良いので、夜でも平気で起きていられるというのが真相らしい。
夜を歩く者なんて格好いい呼び名だが、実際はただの夜更かしさんだった。
だから気がつくとサリーちゃんもちょくちょく眠ってたりはするのだが、ミミ子と違い寝覚めがとても良い。
十分ほどの睡眠でスッキリした顔になって、体力全快で起き上がってくる。
声を掛けないと目を開かないのは、単にサボっているだけだと思う。
「うむむ。黒娘の作るハンバーガーとやらはいつも美味いのう」
僕の背中にひっついたままパンを咀嚼するので、少女の薄い胸の動きがよく伝わってくる。
サリーちゃんが喋る度に、黒い髪が揺れて甘い匂いが僕の鼻孔をくすぐった。
「だが今日のは、なんぞ一味足らんな」
「すみません、うっかりイチジクのソースを忘れてきてしまって」
赤イチジクのソースはケチャップに甘みを足したような味で、迷宮都市の料理にはわりと頻繁に使われている。
少し子供向けだが、サリーちゃんやミミ子には大変好評なソースである。
「それはゆゆしき問題だね~。今日はここまでかな」
僕の膝の上でだらけていた狐っ子が、ソース忘れは重大な過失であり探求の中断はさも当然といった顔で告げる。
「ソースがないくらい、別にいいだろ」
温かい食事を摂れるだけで、僕には素晴らしい贅沢に思える。
資金に余裕ができた僕がまずお金をかけたのは、装備品よりも探求者生活を支える小物の類だった。
今、使ってる小型焜炉もその一つだ。
赤炭石と呼ばれるやや高価な燃料があれば、こうやって簡単な煮炊きも可能となる。
もっとも軽量化を突き詰めた焜炉はそれなりのお値段だったし、食料を含めるとかなりの荷物となったが。
だがそもそも、この小隊で荷物云々は言っても仕方がないのだ。
レベルが上がったとはいえミミ子は相変わらず虚弱だし、基礎体力がないイリージュさんはすぐに息を切らしてしまう。
サリーちゃんに至っては荷物を持つこと自体、あり得ないという顔をされた。
それに食料が入った背負い袋なんて渡すと、勝手に中身を食べられてしまう危険性もある。
必然的に僕が全てを背負う羽目になったのだが、大量の矢やミミ子を持ち運ぶ身としては、これ以上重くなるのは流石にキツイ。
なのでその辺りは、すっぱり割り切ることにした。
探求生活を快適にすることを、第一に考える。
高そうなドロップ品だけ拾って、あとは気にしない。
これが我が小隊のモットーである。
「あるとないでは全くの別物だよ。ゴー様は相変わらず分かってないね~」
「我も狐娘に賛成じゃ。お主はどうも食を軽んじるのう。悪い癖じゃ」
「ミミ子様の分も出来ましたが……」
「いただくよ~。うん、イリージュのハンバーガーは絶品だね」
「結局、食べるのかよ」
「主様、スープが温まりました。ハンバーガーは、あと少しお待ち下さい」
「ちと喉が渇いたのじゃ」
「はい、葡萄酒ですね。こちらも温まっていますよ」
スライスした生姜を入れた湯気の上がる葡萄酒を受け取ったサリーちゃんは、ふぅーと息を吹きかけてから唇を付ける。
今度は柔らかいお酒の香りが、僕の首筋を撫でていく。
何とも言えない気持ちになった僕は、胸にもたれかかってくるミミ子を見下ろした。
もぐもぐとパンを噛みしめる少女は、僕の視線に気付かぬまま満面の笑みを浮かべている。
僕にくっつく二人の少女は、なんとも幸せそうだった。
「主様、ハンバーガーが出来ましたよ」
「いつもありがとう、イリージュさん」
パンを齧りスープを口に含んだ僕は、美味しさの余り笑顔になった。
でも言われてみれば、少しだけ物足りないかな。
▲▽▲▽▲
六層南区の探索を終えた僕たちは、地上へ帰還しつつ今日の感想を話し合っていた。
リーダーである僕が要点を、ざっと洗い出してみる。
まず六層自体が、かなり寒い階層であるということ。
石灰岩を削り出したかのような真っ白な建物や床は、継ぎ目がどこにもなく、触ると冷え切っており熱が奪われていく。
休憩の時にくっついていたのは床が冷えるので、もしものために持ってきた灰色狼の外套を敷いて身を寄せ合っていたせいだ。
冷たい外気のせいで動いている時はマシだが、軽く汗をかいただけで体が冷え込んだりもする。
防寒具をしっかり持っていかないとな。
モンスターは影人といわれる人型の相手だ。
ダメージや熱にそこそこ強く、動きも素早い上にこちらの攻撃を弾いたり捌いたりとかなり厄介だった。
さらに単独での行動は少なく、たいていは二、三人の群れを作っている。
それぞれが前衛後衛の役割を分担しているようで、そのあたりのコンビネーションもなかなか手強い。
対人戦の経験の有無が、大きな差となって現れる場所だとも言える。
なるほど、迷宮組合が闘技場を熱心に奨励しているのはこの為か。
影人のドロップ品は、鐚銭と呼ばれる粗末な貨幣だった。
少しだけ袋に入れておいたが、五層に上がった時点で消え失せていた。
これに関しては、結論を保留しておこう。
あと影人の感知方法だが、実は生命反応と音の複合だと判明した。
なので骸骨がいくら音を立てても襲ってこないが、生命ある僕らが歩き回るとあっという間に迫ってくる。
音で察知すると気づけたのは、黒豹装備のおかげだった。
みんなで近付く時とソロで釣りに行く時で、感知距離に差を感じたので、いろいろ試してみたのだ。
結果、足音の振動の大きさによって、距離が変わると分かった。
他に気になったのは、ミミ子の描いた地図を見せてもらったが南区だけでも結構広いことだ。
五層の廃墟を、さらに二回りほど大きくしたほどの規模がある。
南区は縦横に建物と通路が綺麗に並んでおり、引き伸ばした碁盤の目のようになっていた。
角の所に棒人間の絵が描かれているのは、影人の湧き地点だろう。
よく見れば弓を持ったり盾を構えていたりと、結構細かく描き込まれている。
それと通路に伸びる矢印と、走ってる姿の棒人間。
これは最初から実体化している影どもで、通路を巡回しているちょっと面倒な存在だ。
角に潜む影人との戦闘の最中に、いきなり割って入ってくるので警戒が必要となる。
「ざっと挙げてみたけど、こんなものかな」
「我が気になったのは、再召喚の遅さじゃのう」
「ああ、それもあったね」
不思議なことに彼らは一度倒すと、同じ場所からはパッタリと湧かなくなるのだ。
おかげで探りながらの進み方でも、南区の地図はすでに半分以上埋まっている。
「イリージュさんは、何か気になったことありましたか?」
「そうですね、私は鐘塔が気になりました。凄く不気味だったので……ってすみません、役に立たない意見で」
「いえ、僕もあれは凄く気になってました」
鐘塔というのは、街の中央にそびえ立っていた高い塔のことだ。
天辺に大きな鐘が吊るしてあり、霧の中に浮かぶその威容は言い知れぬ不安感を掻き立ててくれた。
「明日の目標は、あの塔到達にしますか。今日のペースなら行けそうですしね」
僕の言葉にイリージュさんは、瞳に不安を浮かべながら静かに頷く。
「ミミ子も何かある?」
「そだね~。今日はもう随分、遅い気がするね」
「ああ、ちょっと初日だから張り切りすぎたな」
「これはたぶん家に帰る前に、お腹空きすぎて倒れる気がするな~」
「ハンバーガー、二個も食べたろ」
「美味しかったけどあのハンバーガーには、イチジクソース分が不足してたからね~」
遠回しに言ってるが、これは明らかな催促だ。
まあしばらく行ってなかったし、今日は頑張っていたのでご褒美で良いかな。
「分かった分かった。今日の夕食は、タルブッコじいさんのお店にするか」
「ゴー様、大好き」
「はいはい、そうと決まれば急ぎますか」
「我は今日は、カツレツの気分じゃな」
「私は当然、ミミ子スペシャルを頼むよ」
「あ、我もそっちにするかのう」
ミミ子スペシャルというふざけた名前の料理は、料理長のタルブッコさんがミミ子のためだけに考案した、イチジクソースをたっぷり使った揚げ物コースのことだ。
油で揚げた芋の匂いを思い出して、うんざりしながらも僕は歩む速度を上げる。
ペースに付いてこれるか心配になって振り向くと、視界の隅でイリージュさんがほっと胸を撫で下ろすのが見えた。
やはり、今日ソースを忘れたことを気にしていたのか。
赤炭石―深い地中から採れる化石燃料。発光石と同じように一部の迷宮でも採れる場合がある。石炭と違い煙が出ないため、調理に使っても問題はない




