克己の試練決着
僕を睨む鋭い眼光は、まさに射抜くという表現がピッタリだった。
三十歩の彼方、鏡が生み出した分身は、蟷螂の赤弓を大きくたわませていた。
その一瞬の姿を僕の極眼が切り取り、詳細な情報として脳裏に刻みつける。
かなり開き気味の両脚。
盛り上がった上腕。
弓柄から覗くのは、黒い骨の鏃。
そして一切の感情を排し、純粋な殺意のみを宿した両の眼。
このまま待っていれば、次の瞬間には命止の一矢が放たれ、確実に僕の命を奪い去るだろう。
対して僕は弓を下げた状態で、普通に構え直して迎え撃とうとするなら一呼吸の猶予が必要だ。
極眼はどうしようもないほどの窮地を、僕に伝えてくれていた。
そして死が間近に迫った状況とは裏腹に、僕の心は石のように冷え切っていた。
狙っていた通りの流れに、あまりにもスムーズに持って行けたせいだ。
正直なところ、これ位の仕掛けならあっさり見抜ける僕であってほしかった。
だがそうは行かなかったようだ。
僕は僕自身が思っていたよりも、出来ない人間だったらしい。
そう、ここまでが第二の作戦だった。
入る前にモルムに迷心を掛けて貰い、矢の命中率を下げてからのスタート。
互いに矢が当たりにくい状況をしっかり印象付けておく。
迎撃を失敗して脇腹に一発喰らったのは、かなりの痛手だったはずだ。
さらに迷心が切れたあとも、肝心の場面で矢を外して見せる。
そこから弓搦めで、危機を脱しながらも大きな隙をあえて作る。
さあ渾身の一矢を、撃ち込んで来いと言わんばかりに。
矢羽が二つしかない不良品の矢?
探求前に弓矢のチェックを入念に行う僕が、わざわざ見落とすなんてのはあり得ない話だ。
うん、実はナイフで矢羽を一つ削っておいたんだ。
わざわざそんなことをしたのは、明確な理由がないのに外すと罠だって見抜かれるからね。
他にも理由があるけど、それはまた追々で。
ここまでの仕込みは、すべてある一点を狙っていた。
矢が外れるかもしれないという感覚を、映し身の心に擦り込む。
それだけだ。
必ず矢を当てたいという思考を"居付かせる"ことが、僕の本当の狙いだった。
そしてそれは見事に成功した。
だからこそ最大のチャンスに、分身は一番命中率の高い技を選んでしまったというわけだ。
命止の一矢は、申し分のない威力な上に命中率が抜きん出て高い。
だが来るのが分かっているのなら、対応は難しくない技だ。
軽く矢を掠らせるだけで、軌道を逸らすことができる。
ここで映し身が他の技を選んでいたら、勝負はふりだしに戻っていたのだろうが。
僕は弓を下げたまま、密かに構えていた矢を弦につがえ軽く引っ張った。
分身が先ほど寄こしてくれた奴だ。
この姿勢と位置からでも、鏃を合わせるだけの矢なら簡単に射れる。
相手の命止の一矢を撃ち落とした直後に、四連射を返す弓で叩き込む。
技の硬直に加え意表をつくことで、勝利の天秤はこちらへ大きく傾くという寸法だ。
いつでも対応できるように、体の力を抜いて待ち構える。
あとは機械のように、いつもの動きを繰り返すだけ――。
違和感が。
一枚の映像が、不意に思考に割り込んでくる。
極眼が捉えた分身の動き、大きく開いた左右の脚。
命止の一矢は、あれほど足を踏ん張る必要はない。
なんかヤバイ予感が。
僕の視界の中で、コマ送りにもう一人の僕の腰が落ちていく。
同時に弓弦を強く引っ張られた赤弓が、歪に形を変える。
まさか。
その見覚えのある構えは。
あり得ない。
だがあり得る可能性も否定できない!
鏡の分身は僕の能力を隅々までコピーする。
つまり僕自身が気付いてない部分までも、写し取っている可能性がある。
腰を大きく落とし、弓弦を捻るように引き絞るその姿勢。
それは師匠が一度だけ見せてくれた『貫穿』の構えだった。
気が付けば僕は弓を掲げて、矢筒から新たに三本の矢を抜き出していた。
相手を誘う罠の途中だったことも忘れて。
それほどまでにあの時の貫かれた痛みは、心の底に刻み付けられていたようだ。
弓を引き絞る映し身の冷ややかな眼が、そんな僕をじっくりと見据えてくる。
思わず四連射の構えをとってしまってから、そこでようやく僕は正気を取り戻す。
わずかな構えの変更で、アイツは僕の張った罠を簡単に見破ったのだ。
こんな分かりやすい引っ掛けに、僕はまんまと一杯喰わされたのか。
己の馬鹿さ加減と相手のずる賢さに、ホンの少しだけ気が緩む。
次の瞬間、渾身の一矢が放たれた。
空気を巻き込みながら鋭い音を発する矢は、凄烈な勢いで僕に迫る。
それは師匠の貫穿に非常によく似ていた。
「撃てたのかよ! 僕」
弓弦が四度引き戻され、迎え撃つ四連射が放たれる。
唸りを上げる四本の矢は、続けざまに貫穿もどきにぶつかりながら弾かれて消えた。
糞! ここまで威力があるのか。
四連射を撃ち破った矢は、吸い込まれるように僕の身体に突き刺さる。
極眼でその様子をコマ送りで眺めながら、僕は歯を食いしばり覚悟を決める。
鈍い音と衝撃が鳩尾に喰い込み、痛みに変わりながら全身へ広がっていく。
圧倒的な力を跳ね返すように、僕は腹筋に力を込める。
そんな気休めに近い行為を吹き飛ばして、貫穿もどきはそのエネルギーを容赦なく僕の身体へぶちまけた。
内臓に巨大な腕が突っ込まれ、手荒く掻き回されるような激痛。
手足が痺れ肺が詰まり、呼気が止まる。
込み上げてきた吐き気を、必死に呑み込む。
背面の鏡にもたれかかった僕は、懸命に弓を握りしめた。
鳩尾は火が付いたかのように、激しい痛みを放っていた。
だがその火は、背中まで辿り着いていない。
僕は大きく喘いで、空気を肺へ送り込んだ。
耐え切ったのだ。
酷い火傷を負ったような感触はあるが、血が流れ出る気配はない。
僕は呼吸を整えながら、心の内で物騒な技を教えてくれた師匠に毒づいた。
そして僕の身体を守ってくれた皮鎧に、感謝の念を捧げる。
稽古中に散々狙われた脇腹と肩関節と鳩尾。
その部分に予め余った白鰐の鱗を仕込んで補強しておいたのが、ここに来て役に立った。
僕なら絶対にその三ヶ所を狙ってくると分かっていたからな。
視線を上げた先の映し身は、大きく肩で息をしていた。
どうやら追撃を止めたのではなく、出来なかったようだ。
あれだけの威力だし、消耗も半端ないってところか。
弓に縋り付くようにして立ち直った僕は、隠し切れない笑みが溢れ出して頬が持ち上がるのを感じた。
さっきの第二作戦。
あれが僕の用意した最後のカードだった。
ここから先は僕の苦手な根性とかの領域だ。
まだ痛みに痺れる指先で、矢を抜き出し弓につがえる。
対面の僕もそれに呼応するように、弓を構え直す。
泥仕合が始まった。
宙にばら撒かれた十二本の矢の軌跡を、血走った眼が懸命に追いかける。
必中の力を秘めた矢を撃ち落としながら、その影に潜んだ矢に足の甲を貫かれる痛みを笑い飛ばす。
弧を描き真上から迫る矢を肩で受けながら、相手の腿に四本の矢をぶち込む。
額を伝うものは汗なのか、それとも血なのか。
片膝をついたまま弓を構える相手に、僕は最小限の動きで九本の矢を連射する。
それを分かっていたかのように、映し身の矢たちがちょうど真ん中の地点でぶつかり合い消えていく。
もはや起こりを読むとかいう段階は、とうに過ぎ去っていた。
限界まで追い込まれた僕たちは、互いの気配を感じたまま矢を放ち合う。
それは本当に奇妙な体験だった。
目の前の僕が何を欲しどこを狙っているのかが、鏡の如く伝わってくる。
相手もまた僕の狙いを当たり前に察し、当然のように先回りしてくる。
終わりが近づいていた。
心も体も悲鳴を上げて、最期の一線がすぐそこだと知らせてくる。
もう少し。
あともう少し。
死に物狂いの心境のなか、僕の思考の一部は冴え冴えと冷え切っていた。
以前の戦いで開幕に五月雨撃ちを互いに放って、相討ちに持ち込まれたことがあった。
あの時は鏡の分身は引き分けでも、負けなければ良いという思考なのかと考えた。
今はそうではない気がする。
もう後がなくなった今、アイツは同じことをしてくるはずだ。
荒い呼吸のまま映し身が、十二本の矢を矢筒から抜き取る姿が見えた。
迎え撃つ僕も十二本の矢を掴みとる。
赤い弓に張られた弦が、空気を凄まじくかき乱した。
四十八本の矢がばら撒かれ、一斉に僕に向かって降り注いでくる。
僕の視界いっぱいに広がる死の矢の雨。
その刹那こそが、僕の望んでいた極眼の向こう側だった。
終わりを前にして、急激に目の前が広がっていく。
僕の身体は入ってきた鏡の前にあるのだが、その視角が一気に上に向かう。
部屋全体を俯瞰するような眺めが、一瞬で脳裏に浮かび上がった。
宙に浮かぶ四十八本の矢、その全ての軌道が同時に目に映る。
自然に僕の腕が動き、その軌道に合わせて矢を放つ。
降りしきる矢の雨粒に、僕の放った矢の滴が一つ一つぶつかり合って相殺されていく。
気が付くと雨が止んでいた。
そして三十歩の向こうで膝を打ち抜かれた僕が、床に倒れ込む姿が目に飛び込んでくる。
時を同じくして彼が外したたった一本の矢が、僕の頬を掠めていく感触が伝わる。
外れた矢には、二枚しか矢羽が付いていなかった。
鏡の分身は、確かに僕の映し身だ。
だがそれは部屋に入った時点での僕でしかない。
だから部屋に入ってから、成長すれば良い。
師匠の稽古をぎりぎりで切り上げたのは、全てこの為だった。
そして危うく死ぬ寸前だったが、僕は何とかこの愚かな賭けに勝てたようだ。
倒れ込んでも弓を離そうとしない分身を見つめながら、僕は最後の力を振り絞って弓を持ち上げる。
最初の無拍子を真似た一矢。
あれを外した時、僕の分身は身動ぎ一つしなかった。
それが逆に不自然に感じたのだ。
僕があれ如きで矢を外すなんてことは、本来ならあり得ない。
その理由を知ろうと、視線をちょっとぐらい動かすのが当たり前だ。
しかしそうしなかった。
それは他に理由があったからだ。
次に迷心が切れたあとの、敢えて外した一矢。
あれをなぜか分身は撃ち落として見せた。
当たらないと明らかに分かっていたのに。
二本の矢の差、それは着弾点だった。
最初の矢は分身から少しばかり外れており、着弾箇所はただの壁だ。
だが二本目の矢、これは撃ち落とさないと当たってしまう。
――――分身の背後の鏡に。
「…………本体はそこか」
分身の出て来た鏡と僕の背後の鏡が、合わせ鏡となって無限に僕が映し出されている。
その中の一体が、ホンのわずかだけ動きがずれていたのを、進化した極眼がばっちり捉えていた。
どうりで分身が、相打ち上等で無茶してくるわけだ。
鏡の中に本体が隠れていれば、外に出ている分身がいくら死んでも良いってことか。
大きく足を開き、弓が歪むほどに捩じりを加えて弦を限界まで引き絞る。
この技が使えると分かったのも、今回の大きな収穫だな。
――命止の一矢・貫。
撃ち出された矢が、全てを撃ち砕く回転を伴って鏡へと向かう。
そして伏せていた映し身が無表情のまま身を起こして、その前に立ち塞がり主を守ろうとする。
矢は呆気なく分身の胸を貫き、その体ごと背後の鏡に突き刺さった。
ヒビ割れが鏡の表面に、蜘蛛の巣のように広がっていく。
そして鏡の中の僕も、ヒビに分断されてその姿が保てなくなる。
そのまま消え失せるかと思った瞬間、鏡の中の僕が小さく唇を動かした。
動きに釣られるように、鏡に縫い止められた分身が口を開く。
発せられた微かな呟きは、はっきりと僕の耳に届いていた。
戻れ、と。
それが彼の最期の言葉だった。
鏡が割れ落ちて消えていくと同時に、分身の姿も粉々に砕け空気に溶け込むように失われていく。
何度も繰り返すが、鏡の分身は僕の能力を完璧にコピーしていた。
予想通り、巻き戻し能力までもだ。
それを防ぐ方法を、僕はたった一つしか思いつけなかった。
「今日はもう27回、巻き戻し済みなんだ。残念ながら」
割れた大鏡の下から現れた真黒な空洞を見つめながら、僕は誰に聞かせるともなく独りごちた。
命止の一矢・貫―貫穿の下位バージョン
天眼―極眼で得た情報を、より分かりやすく脳内に映し出す技能




