克己の試練その3
四層の隠し通路を通り抜け、四番目の番人部屋に到着する。
通い慣れたこの路も、もうすぐお別れかと思うと少しばかり心寂しい。
実は勝手に最後だと思ってるだけで、本当はまだまだ続くのかもしれないけどね。
それはそれで、ちょっとうんざりしてくるが。
大鏡を部屋の外から覗き見しつつ、静かに深呼吸。
実時間では一昨日ぶりなのだが、随分と久方ぶりな気持ちになる。
師匠の鬼特訓のせいで、時間の感覚や記憶がかなりあやふやだ。
よく頑張ったな、僕。
そしてなにも頑張ってないくせに、あっさりと僕の努力をコピーしやがる分身に殺意が湧いてくる。
おっと、駄目だ。平常心を忘れると、"居付く"要因が出来やすい。
気持ちを落ち着けて……。
「リン、ちょっと来てくれ」
「なんですか? 隊長殿」
「直ぐ済むから動かないで」
「分かりました。って、なんで帯を外すんですか?」
「良いから良いから。はい、これ持って」
リンの鱗鎧を止める腰のベルトを手早く外し、まくり上げた鎧の裾を持って貰う。
転び出てきた大きな双丘は、白い厚手のシャツの上からでも豊かな膨らみの形がハッキリと分かる。
僕はリンの胸元に顔を埋め、存分に息を吸った。
綺麗に洗ってある衣服の爽やかな香りに、蒸れた汗の匂いが混じる。
ちょっと呆れたような鼻息と共に、リンの手が僕の首に回される。
柔らかな感触と共に伝わってくる少女の心臓の鼓動と体熱が、僕の頭に上った血を急速に下げてくれた。
満足した僕はリンの手を軽く叩き、抱きしめていた少女から体を剥がす。
まくった裾がおっぱいに引っ掛かっている素晴らしい眺めを軽く堪能してから、次はキッシェへ向き直った。
「あ、ごめん。これ以上の刺激は良いよ。我慢できなくなるし」
次は自分の番だと思っていたのか、前をはだけた状態でキッシェが待ってくれていた。
露骨に眉根を下げながらも少女は気を取り直して、急ごしらえの補強を施した僕の防具に不備がないかを確認してくれる。
とくに問題はなかったようで、顔を上げたキッシェは僕を真っ直ぐに見つめながら頷いてくれた。
ひたむきに信頼を寄せてくる彼女の視線に頷き返しながら、くーすーと可愛い寝息を漏らすミミ子を手渡す。
「ご健闘を。旦那様」
最後はモルムだ。
巻き毛の少女は小さく頷くと、針鼠のハリー君を差し出してくる。
手渡された針鼠のもぞもぞと動く感触に頬を緩ませていると、モルムは手にした赤い指で呪紋を一息に描き始めた。
ちくちくした針の手触りを楽しみながら、一生懸命に腕を振るう少女を眺める。
少女とハリー君の愛らしい姿に穏やかな気持ちが満ちてきて、下半身に集まっていた血が体中に分散していく。
モルムに呪紋を掛けて貰い、最後の準備が整った。
ハリー君をモルムに返すと、おかえしに砂時計を外して僕の首に御守りのように掛けてくれる。
「…………兄ちゃんなら絶対勝てるよ」
「ああ、任してくれ。行ってくるよ」
鏡の分身と、僕との決定的な違いはこれかもしれない。
勝利を信じて見守ってくれる彼女たちのおかげで、僕の中に闘志が際限なく湧き上がってくる。
やっぱり可愛い女の子たちの声援ほど、男を奮い立たせる物はないね。
キッシェたちの応援を背に受けながら、僕は最後かもしれない番人部屋へ足を踏み入れた。
▲▽▲▽▲
鏡の中から現れた僕の分身は、以前とは纏う空気が変わったように思えた。
なんだか眼光が鋭くなってるし、足取りもキビキビしている。
これはあれか。男子三日会わざれば何とかって奴か。
大鏡の前に立つもう一人の僕を眺めながら、ゆっくりと首を回して緊張をほぐしながら蟷螂の赤弓を構える。
映し身も全く同じ動作を繰り返してくる。
三十歩の距離を挟んで僕らは一時、静かに視線を交えた。
分身の眼はこちらへ向いているのだが、どこを見ているのかよく分からない。
きっと僕も、同じような目付きをしているのだろう。
視線はフラットに全体を捉えながら、流れの起点を素早く感じ取れるようにしている。
師匠との稽古で身につけたやり方だ。
極眼は、対象の挙動を極限まで細分化する技能だ。
それこそ瞬き一つさえ見逃さず全ての動きを観察しながら、相手の行動の先読みまでも可能とする。
だがこの技能には大きな問題があった。
あまりにも情報量が多すぎるのだ。
単純に腕の動き一つとっても、各関節とそれを繋ぐ腱と筋肉、その全ての動きが一斉に脳に押し寄せることとなる。
溢れ返る情報を処理することに集中しすぎて、結局こっちの行動が一呼吸遅れる結果となっていた。
その上、行動の起こりが読み取りにくい相手の場合となると、ひたすら眼と脳を酷使して待ち続ける必要がある。
消耗が激し過ぎて、こちらも肝心な時に集中を切らす結果に繋がっていた。
なので、単純に倍率を下げることにした。
認知レベルを落とし解析度を低くしておいて、動きが始まるのを待つ。
行動の開始が確認できたら、その一瞬だけ解析度を上げて情報を取得し分析にあたる。
大事なのは、その上げるタイミングであった。
一瞬の読み取りで相手の狙いを見抜くことができれば、大きなアドバンテージが取れる。
だがそれは相手も同じだ。
こちらを読み取らせずあちらを読み切る。今回の勝負はそこに掛かっていた。
気づかれないように呼吸を押さえながら、じっくりと腕や足に力を溜めていく。
まだ一本も矢は放たれていないが、もうすでに闘いは始まっていた。
動かない相手を前に、初手を仕掛けたのは僕の方からだった。
まずは小憎らしい師匠の顔を思い浮かべつつ、最小限の動きで――。
唸りを上げる嚆矢は、分身の一歩左の空間を通り過ぎ背後の壁へと消えた。
やはり無拍子なんてのは、見よう見まねで出来るものじゃないな。
明らかな撃ち損ないを、僕の映し身は眉ひとつ動かさず黙殺する。
完全に待ちの構えのようだ。
もしかして仕掛けに気付いているのかと思いつつも、まずは確実に当てるためにこの技を選ぶ。
――命止の一矢・影。
本命の影に潜ませた矢の狙いは、分身の膝下だ。
対面の弓弦が二度揺れる。
分身の放った二連射で、僕の二本の矢が撃ち落とされ――なかった。
矢は交差しつつも、紙一重で衝突せずにすり抜け合う。
相手の矢は、そのまま地面に当たって消え失せた。
そして僕の放った膝狙いの矢は指二本ほど右にずれたが、本命は分身の脇腹に見事突き刺さった。
僅かに驚きの表情を浮かべる映し身。
血が流れないので傷の度合いは分からないが、初めての着弾に思わず唇の端が持ち上がる。
このまま勢いに任せて追撃しますか――ばら撒き撃ち改。
十二本の凶器が宙を突き進む。
しまった、ばらけ過ぎたか。
半分ほどが、標的から少しばかり外れた軌道を取る。
分身は動揺の素振りもなく、ほぼ予備動作のないモーションで弓弦を震わせた。
三々弾の九本の矢が僕のばら撒いた矢を撃ち落とし、さらにくぐり抜けた三本がこちらへ向かってくる。
深呼吸したいところを我慢して、僕に当たると思われる二本へ矢を続けざまに放つ。
一本は落とせたがもう一本には当たらず、ぎりぎり矢羽が掠ったおかげで僕の真横へと着弾となる。
思わず溜息を洩らした僕は、対戦相手の表情をそれとなく窺った。
映し身の眼にはいかなる感情も浮かんでいなかったが、そろそろカラクリに気付いた頃だろう。
分身と僕の対戦は、いかに技を無駄撃ちさせるかが重要となってくる。
命中率は低いが数が多く対処が難しいばら撒き撃ち改。
命中率や矢数もそれなりで連打も出来る三々弾。
一撃は重いが的がばれると対処されやすい四連射。
同じく威力があって命中率も高い命止の一矢。
この四つのうち、ばら撒き撃ち改と四連射は再使用時間が長いが対処がとても面倒な技だ。
殺傷力が高すぎて、同じ技をぶつけないと相殺が難しい。
撃ちやすい三々弾は対抗しやすく、当たると超痛い命止の一矢もタイミングさえ合わすことが出来れば普通の矢で止めることが出来る。
現在、僕はばら撒き撃ち改が三々弾で止められたという、かなりの窮地なのだが……。
やはり撃って来ないか。
さきほどからの外しっぷりは、露骨過ぎたようだ。
入る前にモルムに掛けて貰った呪紋。
実はあれは集中じゃなくて、迷心だ。
敢えて矢を外すようにしていたという訳だ。
鏡の分身は僕のコピーではあるが、能力や状態を写しただけで知識までは共有していない。
それは以前リンの戦いで、キッシェの水壁の存在に驚いていたことから分かっていた。
つまり迷心が、どんなものか知らない可能性がある。
もしくは知っていたとしても、肝心の情報であるこの呪紋の効果時間までは分からない筈だ。
僕は知っている。
ちゃんと砂時計で計っているからね。
もちろん自分の首に下がる砂時計を、たまに見直すなんてことは一切していない。
そんなことしなくても、目の前の相手が首に下げてくれているし。
上手く行けば迷心が掛かった状態の分身が、ばら撒き撃ち改を盛大に外してくれる。
そして再使用時間が続いているうちに、呪紋が切れた僕がばら撒いて終わりにする作戦だったが……。
よし、第二作戦へ移るか。
互いに沈黙を守ったまま、僕らはしばし睨み合った。
といっても目の焦点を合わせると不味いので、ぼんやりとした目付きになってしまうのだが。
軽い動作で矢を放つ。
あえて外してみたが、対面の僕は綺麗に射止めてみせた。
傷が痛んだりはしないのだろうか。動きに陰りは全く見受けられない。
射線のほうは予想のラインを描いたので、時間通り迷心の効果が切れたと分かる。
ここからが本番だ。
続けざまに矢を射ながら、さりげなく四連射を混ぜる。
分身は素早く対応してきた。
そのまま通常射撃を散りばめつつ、要所で三々弾を放ちリズムを作っていく。
そうして互いの手の内を読みながら、飛び交う矢を撃ち消しつつ必殺の一矢を撃つタイミングを計る。
ほぼ真上に近い角度から迫る矢を迎撃した僕は、返す弓で毒矢を影に潜ませた囮矢を放つ。
分身が続けざまに放った矢が僕の矢を落とし、さらに追加された一本が迫ってきた。
僕はここで痛恨のミスを起こす。
急いで迎え撃った矢が、あり得ない方角へ飛んだのだ。
思わず指二本ほどずれた方向へ飛んでいく矢を、極眼で見つめる。
その矢尻にあるはずの羽根が、本来三枚のところが二枚だけしかなかった。
迷宮組合が卸している矢は、職人さんが丹精込めて作ってくれるのだが数百本に一本、こういう不良品が混じる時がある。
僕はそれを最悪のタイミングで掴んでしまったらしい。
咄嗟に僕が出来たのは、手にした弓を突き出すことであった。
三つの弓が絡む奇妙なデザインながらも、赤弓は僕の期待に最大限に応えてくれた。
――弓搦め!
暴れ回る矢を、弦に必死に絡めて無理矢理に勢いを殺す。
何とか飛んできた矢を手に出来た僕は、大きく息を吐いた。
そしてそれを映し身が、見逃してくれる訳もなく。
視線を戻した僕の視界に飛び込んできたのは、大きく弓を引く僕の姿だった。




