克己の試練その2
脇腹に突き刺さった鋭い痛みに、僕は思わず顔をしかめた。
矢は脇腹を狙ってくると、確実に分かってはいた。
さらに詳しく言えば、あばら骨の一番下。ちょうど二本ほど、胸骨とくっついていない奴の隙間だ。
この浮遊肋骨の部分と、あとは鎖骨に鳩尾。
さっきからその三箇所に順繰りに、ロウン師匠の放つ木の矢が当たっていた。
迷宮蜥蜴の皮を幾重にも繋ぎ合わせた鎧の上からで、なおかつ先端が潰してある練習用の矢だ。
だが確実に僕の皮膚には、酷い痣が浮かんでいると言い切れた。
それほどまでに師匠の矢は、予想の外から飛んで来ていた。
天幕を潜り抜けてくる陽光のおかげで、薄暗いながらも十分に目は慣れてきている。
三十歩の彼方に佇む老人の影。
その手に握られた弓。
矢筒から抜き取られた数本の矢。
すべてはハッキリと、僕の眼に映り込んでいた。
師匠の肩がわずかに動く。
空気の裂ける音は五つ――それぞれが微妙に違う。
五連射の矢が、真っ直ぐに僕へ向かってきていた。
限界まで開いた目で矢の変化を見極めながら、僕はぎりぎりまで粘って腕に力を溜める。
ちょうど真ん中あたりの距離で、五本の矢たちは一斉に変化を起こした。
互いにぶつかり合い、弾き合いながら矢は一斉にあらぬ方向へと進路を変える。
それは突如、宙に花ひらいた五枚の花弁のようにも見えた。
瞬間、僕の弓弦が四度鳴り響き、その行方を遮るべく迎撃の矢を放った。
だが散らばった矢は、その軌道を地面や互いにぶつかることで、予想もつかない方向へ変化させる。
それでも三本は、変化の先を読んで撃ち落とせた。
一本は外したが、矢羽が掠ったおかげで着弾点はずらせた。
もう一本は――。
空いた弓を咄嗟に突き出した僕は、鎖骨目掛けて地面から跳ね上がった矢を弓の上弦で絡め取りながら勢いを殺す。
『弓搦め』、師匠に以前見せて貰った技だ。
矢は弓弦に引っ掛かりながらも、網にかかった魚のように彼方此方へ動く。
それを逃さないよう何とかいなして、右手で強引に掴みとる。
師匠の放った五本目の矢は、無事に僕の手中に収まった。
ほっと息を吐く。
やっと初めて、全ての矢を止めることが出来た。
って、痛!
気を抜いた僕の肩に落ちて来たのは、よりにもよって最後に放った僕の矢であった。
掠ったまま役割を終えるはずだった矢は、他の矢とぶつかって元の位置へ戻ってきたらしい。
思わぬ結果に呆気にとられて顔を上げた僕の目に飛び込んで来たのは、横を向いて笑いを堪える師匠の姿であった。
どうやら、してやられたようだ。
ズキズキと疼く鎖骨の痛みを顔に出さないようにして、平然とした素振りで弓を構え直す。
完全には防げなかったが、新しい技が辛うじて成功したので前進には違いない。
「まだやるか? 明日、洒落にならんぞ」
「もちろん、お願いします!」
いくら怪我をしようと問題ない。
巻き戻しすれば良いだけだ。そう、巻き戻せばいい。
久々のこの感覚に、僕は唇の端を持ち上げて身震いした。
どんなに手酷くやられても、僕はそれをなかったことにして再び挑めるのだ。
何度も何度も負けてはやり直し、足掻いて藻掻いて何かを拾い上げる。
小賢しく成功体験だの負け癖がどうだのと語ってみたところで、結局僕に一番合ってるやり方はこれしかない。
目を凝らして、師匠の姿を再び視界の真ん中に据える。
何一つ、見落とさないように。
先程から放たれる跳弾しまくりの矢だが、これは迷宮では全く意味のない技能といえる。
迷宮の床や壁に当たった瞬間、矢は衝突のエネルギーを放出して消失してしまう。
モンスターの場合は貫通することもあるが、跳ね返ったり弾んだりは見たことがない。
矢同士がぶつかっても消えてしまうので、使える場面が全く思いつかない技だった。
だが今は、それはさほど重要ではなかった。
軌道が読み切れない、避けきれない矢をどうにかする。
僕の関心は、そっちにあったからだ。
師匠の跳ね回る矢は、確かに軌道が分かり辛い。
だが極眼のコマ送りであれば、その変化を捉えることは簡単とまでは行かないが、それなりに見切ることは出来る。
問題はそのタイミングであった。
師匠の場合は矢を射る起こり、動きの始まりがほとんどない。
さらに人間の集中力は持続時間に限界があり、どうしても薄くなる瞬間ができる。
師匠の矢は、なぜかその途切れた瞬間を狙いすまして放たれていた。
足の運びは変わらない。
ゆっくりと弓を持ち上げて、窮屈そうに首を少し捻る。
視線を僕にちらりと移しながら、背中へ手を伸ばして矢を引き出し――肩が動いた!
それが唯一、僕が見抜いた師匠の癖であった。
来る!
来なかった。
勢い込む僕を横目に、師匠は軽くあくびをする。
次の瞬間、相対する老人の弓弦は小刻みに弾かれた。
完全にタイミングをずらされた僕の眼前で、五本の矢がぶつかり合い花開いた。
こいつらの厄介な点は、それぞれ矢の速度が微妙に違うところにある。
最初の矢は遅く、後の矢ほど速くなっている。
そのせいで空中で衝突したり、重なったりと予想もつかない動きが生じるのだ。
意識は出遅れたが、僕の身体は伊達に何千回も修羅場を体験してきてないようだ。
無自覚のまま弓弦を揺らし、対抗の矢は撃ち出された。
一本、二本、三、四本。
撃ち落とせた矢を視界の外へ追いやって、鳩尾へ向ってくる矢に集中する。
弓で受け止めようとした瞬間、僕の顔は咄嗟に持ち上がった。
視界のホンの片隅で、師匠が弓を持ち上げたのが僅かに見えたのだ。
新たな矢に備えようと、即座に弓を引き寄せてから気付く。
弓搦めの途中だったんだっけ。
腹を抉る鋭い痛みに、僕は思わず顔をしかめた。
「…………ありですか?」
「ありじゃよ」
「今のは狡くないですか? いや、狡いですよ」
「お主が間抜けなだけじゃ」
グッと歯を食いしばって、弓を構え直す。
確かに今のは、僕が間抜けすぎた。
今度こそ見落とすまいと、眼に力を込める。
しかしなぜか師匠は、弓を構えようとしない。
そうやって油断させる手かと思い、さらに見つめ続けていたら、唐突に大袈裟な溜息を吐かれた。
「そんなに熱く見つめてくるな。気持ち悪いわ」
「…………」
「そろそろ休憩にするか。ちょっと小腹が減ったしのう」
「…………」
「たしか貰い物の菓子があったはずじゃ。美味い茶もあるぞ」
僕は視線を逸らさない。
じっと弓を構えたまま、師匠の一挙一動を注視する。
「ほらほら、もう終わりじゃ」
そう言いながら師匠は、弓を地面に置いて背を向ける。
流石にその状態で、矢を射るのは出来ないだろうと思い僕も弓を下ろす。
歩き出す師匠の爪先が、地面の弓を軽く踏みつけた。
くるりと立ち上がった弓は、なぜか師匠の手の内へ戻る。
弓といつの間にか抜き出した矢を手にした師匠は、ニンマリと笑みを浮かべてみせた。
呆気に取られる僕に、容赦なく師匠は弓弦を鳴り響かせた。
「分かったか?」
「狡いですよ」
「分からんか。小僧は意外と頭が固いのう」
鈍く疼く脇腹の痛みを我慢しながら、僕はさきほどの師匠の動きを思い起こす。
気を抜いていたのは確かだが、それでも僕は目の前の人物からは一瞬たりとも目を離していない。
だが師匠が弓を拾い上げて矢を放つまで、僕は全く動けなかった。
完璧に虚を突かれた形だ。
たぶん動作がとても自然だったせいだと思う。
歩くついでに弓を踏ん付けて、それが当たり前のように手に収まった。
そんな感じだった。滑らかで違和感のない動き。
ふと気が付く。
「もしかして、肩を動かしていたのは……」
「うむ。わざとじゃ」
やっぱりか。
必死の際で見つけた師匠の癖は、僕を釣る為の餌だったのか。
がっかりと肩を落とす僕に、師匠はやれやれといった感じで言葉を続けてくる。
「前に見ろとは言うたが、お主の場合ちょっと見過ぎじゃのう。なまじっか見えるせいか、居付いてしもうとる」
「居付く?」
「そこに捉われとるという意味じゃ。動きには虚と実がある。敢えて見せる動きは覚えやすい分、目に残るもんじゃ」
「どうしたら、その居付くってのが治りますか?」
「まず全体を"観る"ことじゃな。その中の流れを"視る"んじゃ」
「もっと分かりやすい言葉でお願いします」
「うーむ、面倒じゃのう。それじゃ"慣れろ"。これで良いじゃろ」
「全然、良くないです。師匠」
「慣れたら、これくらい余裕になるぞ」
その言葉の終わりに、矢が飛んで来た。
慌てて弓を持ち上げた僕は、返す言葉を失った。
矢は確かに射られたはず。
しかし空気を震わす音や、飛翔する影はどこにも存在していなかった。
でも僕の感覚は確かに、師匠が矢を放ったと認識していた。
消えた矢を探して呆然と辺りを見回す僕に、師匠は口の端を持ち上げて笑う。
どんな原理か全く分からないが、師匠は今、矢を射らずに矢を射ってみせたのだ。
「続きをお願いします、師匠」
元の位置に戻って弓を構え直し、目の前の達人に深く頭を下げる。
僕が出来ることは、慣れることだけらしい。
ならそれを突き詰めるしかない。
それから何度も何度も、僕は巻き戻した。
目を充血させ全身に青痣を作りながら、ひたすら師匠の矢を受け止めた。
そしてそれは、不意にやってきた。
目の前が急に広がって行くような感覚。
あらゆる物が同時に認識でき、それでいて一つ一つの流れはハッキリと感じ取れる。
あと少し、もう少しでこの感覚が自分のモノになる。
その絶好のタイミングで――。
僕は戻れと小さく呟いた。
弾み矢―射手の上級技能。壁や矢同士を反射させて、奇襲的に使う
弾け火花―ロウン師匠の特殊技能。弾み矢+五連射




