克己の試練その1
自分に打ち勝つとは、日常的にごく当たり前に行われている行為だ。
例えばダイエット。リンが食卓に並べるご馳走を、ぐっと堪えて腹八分に抑える。
例えば誘惑。ベッドに並ぶ六人の美女のお誘いを、涙を飲んで三人で我慢する。
そうやって欲望に流されないことで、人間は日々成長を続けるのだ。
いやこの場合は、成長じゃなくて堕落を喰い止めているだけか。
成長というモノは、もっと判りやすい壁を乗り越えてこそ多くが得られる気がする。
まさに物理的な僕の分身なんて存在とか。
もちろん、深層へいけば僕が苦戦する強敵はゴロゴロしている。
だが強すぎては、駄目なのだ。
適度な困難を乗り越えることで、やり遂げたという達成感が湧き自信は増していく。
培った自信は行動を選択する指針となり、そうやって選ばれた行動は次の成功へと繋がる可能性が高い。
成功を積み重ねると、自信はさらに増していくという正のスパイラルの完成だ。
だが敗戦続きが予想される相手では、この最初の自信がなかなか育たない。
人が最も伸びるのは、やはり成功体験なのだと思う。
それに負け癖というのは、付いたら中々取れない頑固な汚れみたいなものだ。付けずに越したことはない。
あとは今回の鏡の番人部屋での分身相手だと、自分の苦手な部分が浮かび上がるんじゃないかとの期待も出来る。
なんせ相手は僕だからな。
極眼で、弱点をずばり見抜いてくるはずだ。
まあずらずらと御託を並べてみたものの、本音を言えば楽しそうだからの一言に尽きるんだけどね。
「では、行ってきます」
「お気をつけて」
「頑張れ、隊長殿!」
「…………無茶しないでね、兄ちゃん」
集中は掛けて貰っていない。
部屋に入った時の状態が丸々コピーされるようで、分身も 集中が掛かった状態で出てくるのだ。
装備も全く同じようなので、殉教者の偶人もあまり意味がない。
条件は全く同じという訳だ。
鏡の番人部屋に、ゆっくりと足を踏み入れる。
深呼吸をしていると背後に鏡の壁が浮かび上がり、部屋の中には僕一人となった。
対面の大鏡の表面が歪み、分身が浮き出してくる。
冴えない顔付きで、のっそりとした足取り。
うん、まさしく僕だ。
互いに眼を合わせ、その動きを値踏みしながら弓を持ち上げる。
最初に放つ技は、すでに決めていた。
――五月雨撃ち!
……………………。
………………。
…………。
……。
「僕は馬鹿か!」
初手に五月雨撃ちを選んだことに、深い理由は無い。
なんか格好良いかなって思っただけだ。
そして分身も、全く同じことをしてきた。
当たり前といえば当たり前なのだが、後先考えないその行為に無性に腹が立つ。
五月雨撃ちみたいな大技だと、放った直後は体が硬直してすぐには動けない。
弦を引く手にもまともに力が入らないから、飛んでくる矢を撃ち落とすようなことも出来ない。
最初の勝負は、開始十秒で終わった。
二戦目は、流石に真面目にやるべきだと思い直した。
女の子たちの慰めの視線が、正直かなり応えたし。
まずは三々弾で様子見だ。
節約して石の矢の三重ねにしよう。
む、撃ち落とされたか。
向こうも同じ動きをしていたな。
ならば、もう一回。
むむ、やるな。
僕の三々弾に綺麗に合わせてくる。
と、今度は向こうから三々弾か。
射線が素直で読み易いな。これは簡単に合わせられる。
よし、ここは三々弾で――-。
「僕は阿呆か!」
鏡の僕と延々、三々弾を撃ち合った挙句、矢を撃ち尽くして引き分けなんて……。
射撃場の的当て練習と、何一つ変わらないよ!
でも何か射落としやすい矢を見たら、ついつい撃っちゃうんだよなあ。
まあ一応、得るモノもあったけどね。
まず僕の射線は、存外に素直だった。あれは着弾点が予想しやすい。
だがその代わり矢を放つ動きの起こりが、かなり早いし読み難い。
自分でも意外だったが、予備動作が極端に少ない様だ。
モンスター相手だと、不意打ち気味な早撃ちが基本だからか。
染みついた体の動きは、中々直せないな。
あとは相手の動き。
鏡の分身だからほぼ同じなのだが、微妙に矢の軌道は違っていた。
利き腕の問題もあるが、思考が全く一緒というわけでもなさそうだ。
気を取り直しての三戦目。
今度はじっくりと責めることにする。
頭部への鏑矢を囮にして、影に潜ませた矢で爪先を狙う。
末端から力を削いでいく作戦だ。
分身の弓弦が動き、二連射で僕の矢は落とされた。
よし今度は利き腕を狙いつつ、またも爪先狙いで行こう。
綺麗に撃ち落とした分身が、返す弓で今度は僕の方へ矢を放ってくる。
こっちも矢の影に、もう一本の矢が潜ませてある。
なんか小癪だな、コイツ。二連射で弾いておくか。
気持ちを切り替えて、さっきと同じ戦法だ。
分身の左肩目掛けて囮を放ち、影に隠した矢はまたも爪先を狙う。
と思わせておいて、命止の一矢・弧!
下方に注意を引き付けておいてから、頭上よりの刺客参上という訳だ。
あ、あっさり撃ち落としやがった。
と、風切音が。
僕も分身と同じように、視線を動かさぬまま頭上から迫る音へ矢を射かける。
なら次はばら撒き撃ち改を囮にして、毒矢を連射してやる。
ぬぬぬ。相手も同じ構えか。
ちっ、こっちの毒矢を撃ち落として、毒矢を撃ち込んできやがった。
駄目だ。
思考が読まれているというか、考えることが一緒だな。
これは本当に難しい。
自分が出来ることは相手にも出来て、相手が無理なことは自分も無理だ。
つまり選択肢がほぼ同じである以上、行動に大きな差は出ない。
隙が生まれ難いせいで、致命傷も生まれない。
互いの防御を撃ち破る突破口が開けないせいで、延々と矢の応酬をやってるだけなのだ。
そして体力も全く同じせいで、同時に力尽きる。
最後は気力の差だと言いたいが、それも全く同じだった。
これ勝てる要素は、マジで運とかしかないんじゃないか……。
▲▽▲▽▲
「という訳で、師匠お願いします!」
「意味が判らんぞ、小僧」
「自分に勝ちたいんです。勝てる稽古をつけて下さい」
ロウン師匠は、目をパチクリさせて首を捻った。
「体重を減らすのに失敗でもしたのか?」
「誰も減量の話なんかしてませんよ」
「おなごの機嫌取りに失敗したのか?」
「家族円満です」
僕に訝しげな視線を向けていた師匠は、顎をさすりながらしみじみした声で語りかけてくる。
「自分を追い詰めるような真似は、あまり感心できんのう。まずはちゃんと当事者同士で話し合うことじゃ」
「だから家族仲は良好ですって」
「何じゃてっきり、恋敵でも現れたかと」
「違いますけど、似たようなものです。倒したい奴が居るんですよ」
僕の言葉に師匠は、ようやく合点がいったようだ。
溜息を吐いて腰を上げる。
「ふん、稽古に来いと言ったら来んくせに、呼んでもいない時には押しかけてくる。面倒極まりない奴じゃな」
「我儘で申し訳ありません」
「こっちじゃ。ついてこい」
「ありがとうございます! 師匠」
二人分の弓と矢を手にした師匠は、スタスタと訓練所の奥へと歩き始める。
そこは天幕が張られ、迷宮内の暗さが再現された射撃場だった。
迷宮生活四年目の僕には、今更過ぎる場所だ。
疑問符が顔に浮かんでいたのだろう。師匠が呟くように教えてくれた。
「……今からやるのは、人に余り見せられぬ技でな」
師匠は僕に弓矢を手渡し、さらに分厚い革の防具を寄越してきた。
重すぎて動きに支障が出そうな代物に、僕が僅かに難色を示すと師匠は静かに首を横に振った。
「ようするに、人間相手の技を教えてほしいってこったろ。それ着とかんと死ぬぞ、小僧」
淡々と話す師匠の声には、ゾッとするほどの寒気があった。
もしかして、かなり早まったかも。




