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夢の中で

作者: 松本克己

「あなたと旅に出たわ。理由は分からないけれど、別々の便でヨーロッパへ行ったのよ。春だったわ。飛行機に乗っている時間が長くて、寂しくて、あなたを思って泣いていた。そして大きな空港に到着したの。ゲートの側のベンチに座ってあなたが来るのを待った。長い間よ。本当にあなたが私を迎えに来てくれるのか、不安になってまた泣いてしまったわ。そしたら後ろから誰かに抱きすくめられた。すぐにあなただってことが分かったわ。私の気持ちをくみ取って抱いてくれるのはあなただけだもの」

 彼女は私を見つめたまま、右手を私の胸元へ伸ばした。肌は透き通るように白く、指先はしなやかだった。瞳は丁寧に磨き込まれた宝石のように輝いている。私は太くて節くれだった両手で彼女の手を包み込んだ。じわりと彼女の手の温もりが伝わった。

 彼女はそっと目を閉じて、

「あなたは私と旅に出たのよ。夢はまだ続いているの」

とつぶやいた。私も目を閉じた。

「夢の中で、二人が旅をしているのか」

「そうよ、遠い国で二人だけよ。運河と、小舟と、色とりどりの花と、中世のような町並みと。そこに私たちがいるのよ」

 私が目を開けると、彼女は顔を近づけ、覗き込むように私の目を見ていた。その瞳は私を夢の旅へと誘う。

「大きなカバンを持って?」

 私の問いかけに彼女が答える。

「長い旅だからね。着替えがたくさんいるから」

「君のカバンはとても重そうだ」

「大丈夫よ。ほら」

 彼女は握りあった手を解いて、私の前にカバンを差し出すしぐさをした。私は見えないカバンを受け取り、上下に揺すってみた。

「軽いよ」

「色や形はあるけど、重さがないからね」

「感じないだけか」

「そう」

 私たちはソファからベッドに移って、抱き合ったまま目を閉じた。彼女が夢の続きを話す柔らかな声が聞こえ、私はその情景を瞼の裏に映し出す。彼女の手を握っていると、やがてふわりと体が浮かび上がったような気がした。


 私たちは運河に沿った小道にいた。彼女は私の前に立って私に体を預け、私は支えて抱きしめている。すぐ近くで教会の鐘の音が聞こえた。

「時間の節目で鐘がなる」

「鐘の音で気持ちを切り替える」

「夢を持ったら、頑張れと鐘がなる」

「失望したら、鐘が慰めてくれる」

「今の鐘は」

「多分、次の旅への合図よ」

「それじゃあ、鐘がなっている間に旅を始めよう」


 私たちは運河に沿って歩き始めた。西日が二人の長い影を作り、その先は近くに停泊している小船の舳先に伸びていた。そこでロープの手入れをいていた男が、二人を見て軽く会釈をした。

「今日は」

 由紀子が会釈に応えて挨拶をした。男は嬉しそうに表情を緩め、

「これから君たちが幸せになれる時間だよ」

と言い、右手でロープの先をぐるぐると回した。

「ありがとう。そのつもりよ。あなたもお幸せに」

「ありがとう。今夜はどんな幸せにお目にかかれるか、胸がドキドキしているよ」

「それは素敵ね。じゃあ、早く仕事を片付けないと」

「そうさ、だから頑張っているんだよ」

「仕事の邪魔をしてしまったかしら」

「そんなことはないよ。あなたの幸せによろしく」

「私の幸せに伝えておくわ。では」

 二人は歩き続けて、おしゃれな商店街を通り抜け、広場を横切って大きな建物の前に立った。中央駅だった。


 小さな駅で電車を降りて自転車を借りた。

「水車はどの辺りで回っているのかしら」

 由紀子が駅前ですれ違った婦人に尋ねた。婦人は春めいた明るい色のブラウスがよく似合っていて、薄緑色のスカートの裾をひらひらさせながら、跳ねるような足取りで広場を横切り、駅にやって来たのだ。

「水車はあちらこちらにあるわよ。小さな川の流れの先を辿れば、いつか必ず見つかるわ」

「私たちには地図がないから、その川を見つけるのが一苦労よ。きっと」

「川はいたる所で流れているはず。私たちも川の流れで生きている」

「振り返れば川が見えるかしら」

「そうね。だけど前に向かって流れる川のほうがもっと大切。折々に水車が回って慰めてくれるし、そこでは上流と下流の両方をゆっくり眺められる」

 婦人は駅からまっすぐ伸びている道を指し示した。

「とにかく、あの道をまっすぐ行ってご覧なさい。町を出てしばらく行くと正面に森が見えるから、そこで左に曲がるのよ。角に柵に囲まれたお花畑があるからね。間違えないでね」

「ありがとう。あなたの足を止めてしまいましたね」

 わたしが礼を言うと

「おかげで楽しくお話ができました。楽しい旅を」

 彼女は陽気な笑顔で手を振った。二人は手を握りあったまま、婦人にお辞儀をした。

 私と由紀子は自転車に乗って教えられた道をのんびり走った。舗装された平坦な道の両側にはガードレールのような無粋なものがなく、土と草花とアスファルトの境界がはっきりしない。道の幅はたっぷりあるから、たまに自動車とすれ違っても危険を感じない。

「太陽の光が草木に反射して、まぶしいくらいだわ」

 由紀子がはしゃぐように言った。

「光が余すところなく照らしてくれるから嬉しいね」

「この道がいつまでも続いたらいいなあ」

「ずっとまっすぐだと退屈するかもな。所々で、どうしても曲がらなきゃいけないカーブがあれば」

「そうね。でも最後に行くのはこんな道がいい。その時もあなたと一緒よ」

 向うに深緑の帯が横たわっていた。帯に近づいて森だと分かった辺りの左手には柵が続き、柵の中では一面に花が咲いていた。

「チューリップがとてもきれい。どうやらその先がどうしても曲がらなきゃならないところね」

「多分、そうだろう」

 二人は柵の角で左に曲り、細い道に入った。くねくねした道を行くと暗い森の中に入り、さらに進むと次第に木々は疎らになって、どこからともなく、ことん、ことんと長閑な音が聞こえてきた。由紀子は大きな瞳を輝かせてちらっと私を見ると、自転車のスピードを上げた。私はペダルを踏む足に力を込めて彼女の後を追う。間もなく、こんもりした林に囲まれた古い山小屋風の建物が見え、側を小川が流れていた。由紀子は自転車を止めてもどかしそうにスタンドを立てると、小走りに建物の裏に回り込んで奇声を上げた。

「あなた、早く!」

 彼女に急かされ、私は自転車を地面に倒してて彼女の元へ駆けつけた。目の前で水車がゆったりと回り、由紀子が流れ落ちる水を指で掬って、目を輝かせていた。私はそんな由紀子をいとおしく思い、思わず抱きすくめた。

「そんなに押したら川に落ちてしまうわ」

 由紀子は嬉しそうな声を上げて振り返り、私にキスをした。私は抱きしめた腕に力を込めた。

「今度は私が折れてしまう」

 由紀子は私の腕に抱かれてじっと動かず、川の流れと水車の回る音を聞いていた。水車から飛び散る水滴で由紀子と私の靴が少し濡れた。

 二人は水車に目を奪われて気づかなかったが、水車の横の建物はレストランだった。建物と言うには大げさすぎるほどの、年季の入った古木でできた小屋。木の端が朽ちた入口前の階段、ノブを手前に引けばそのまま手前に倒れてしまいそうなドア。壁の開口部に張り出されたテントの、元はどんな色だったんだろうと想像したくなるような深く渋いグリーン。テントを支える、何度もペンキを塗り重ねて手入れしてきたことがありありと分かる鉄棒。そして金具。

 私はレストランの佇まいをワクワクした心持ちで眺めた。

「素敵。夢みたい」

「入ってみようか」

 私は由紀子と並んで階段を上がり、そっとドアを開けてレストランの中に入った。

 レストランには先客が2組いて、静かに食事をしていた。2組とも、年配の落ち着いた感じの男女で、多分夫婦だろう。客の世話をしているのは上品な中に清楚な感じが漂う中年の女性だった。店の中に入って彼女の微笑みに出会ったとき、私たちはこの店に歓迎されているのだと思った。彼女、つまりウエイトレスは慇懃無礼でない、ごく自然な笑みを浮かべて

「今日は。こちらへどうぞ」

と、隅の窓際の席へ導いてくれ、一枚の紙切れを置いた。その席は特等席だった。窓からいい角度で水車が見え、外の木々の枝が強い光を遮って涼しい風を運んでくれている。

 紙切れはメニューだった。和紙のような粗い紙質にブルーブラックのインクで書かれた料理は3種類。料理は由紀子が選んだ。彼女の右手の人差し指が3つの点を行き来し、気まぐれで止まった点が本日のランチだ。私は左手の指で由紀子の指を摘まむと、右手の人差し指でもう一つの点を指した。ハイネケンだ。ウエイトレスは楽しそうにそのようすを見て、

「OK、しばらく待って」

と言い、厨房に姿を消した。

 店内は外見と違ってこざっぱりしていた。漆喰の壁にはシミ一つなく、均等に歴史を積み重ねたような深みのあるクリーム色だ。天井の鈎や柱の木材は太くてたくましく、焦げ茶色の表面が磨き込まれたようにてかてかと光っている。壁や柱と比べると調度品は比較的新しいようだ。それでも10年以上は使い続けてきただろう。無垢材の椅子やテーブルには無数の傷があるが、むしろ傷が付くことをあらかじめ計算に入れて作られたような味わいがある。

 料理は根菜類とソーセージの煮込みだった。一見不格好な、底が深くてゆがんだ円形の陶器の器は料理の良い引き立て役になっていた。薄茶色の表面は、長年の酷使で上薬が擦り切れてつや消し状態になり、店の雰囲気とうまく調和している。

「美味しそうね」

 由紀子は料理を眺めながら、硬いパンを千切った。

「本当だ。お腹がぺこぺこだよ」

 私がフォークに手を伸ばした時、ウエイトレスがいかにも申し訳ないというあわてぶりで、トレーに2つのハイネケンとグラスを乗せて運んできた。

「あなた方がとても幸せそうだから、見とれてしまって、サービスを忘れてしまったわ」

 ウエイトレスがそう言い訳をすると

「そうよ、私たちは幸せだわ。あなたに負けないくらいに」

と由紀子が応えた。

「そうね、今の私には何も不満がないから」

 ウエイトレスは瞳をくるくる回して笑い、二人のグラスにビールを注いでくれた。

「ごゆっくり」

 彼女は再び厨房の中に消えた。

「素敵な人」

 由紀子がポツリと言った。

「素敵なレストラン」

 私が言葉を繋いだ。

「素敵なあなた」

「素敵な由紀子。愛しているよ」

 私たちは無言でグラスを合わせ、お互いの目を見ながら乾杯した。料理は予想以上に美味しく、二人の幸せな時間にきれいに彩を添えてくれた。食事の後は話をしながら、長閑な時間を存分に楽しんだ。

 帰り際、厨房からシェフが姿を見せた。白髪の似合う初老の男だ。ウエイトレスが

「私を幸せにした張本人よ」

とウインクをして、彼を紹介した。

「お陰さまで最高のランチをごちそうになったわ。この雰囲気、窓から見える風車、美味しい料理、そしてあなた方。ありがとう。良い思い出になるわ。きっと」

 由紀子が席を立って礼を言い、二人と握手を交わした。続いて私も握手する。

「日本から来たお客様に料理をお出ししたのは初めてですよ。満足していただけたようで良かったです。これから道中、気を付けて。平和な土地だから安心できるが、何が起こるのか分からない世の中だからね」

 シェフは由紀子と私を交互に見て、レストランの責任者らしく礼を言い、重ねて思慮深く注意を促してくれた。シェフとウエイトレスは店の前に立って、私たちが自転車に乗って森の中に入って見えなくなるまで手を振って見送ってくれた。


 道はまっすぐ北へ伸びていた。道の両側には森や平原やお花畑が続いて風景が変わるから退屈しない。所々に小高い丘があって、二人は懸命にペダルを漕いで汗を流したが、いったん丘の上に上がればその後は長い坂道が続き、風が汗を吹き飛ばしてくれた。長い時間、二人は並んでペダルを濃いだ。広い麦畑を横切って林を抜けると、車か少しずつ増え始め、間もなく町に着いた。

 木々に囲まれ、花に飾られた庭がある家々が道の両側に並び、遠くに協会の尖塔が見えた。とても平和な風景だ。こんな町なら諍いや争いの類いは一切無いだろうと思った。

「何をしてるのよ。馬鹿なんだから」

 いきなり女性の罵声が聞こえて、二人はびっくりして、自転車を停めた。

 横を通りかかった垣根の向こうに太った女性が立って、庭の隅でしゃがんでいる男性を見下ろしていた。男性が何かへまをやらかしたらしい。由紀子と私は顔を見合わせた。

「問題はないと思ったんだけどなあ。悪かったな」

 男性の声が聞こえた。怒鳴られた割には冷静で落ち着いたバリトンの声だ。男性の手元が見えないので、何をしているのかは分からない。

「以前も同じ間違いをしているでしょ。覚えていないの」

 女性はなかなか厳しい。ちょっとヒステリックなのかと思ったが、彼女の眼を見るとそうではないことが分かった。彼女は男性を愛している。男性もしかりだろう。彼女の怒り方はお互いの愛に傷がつかない程度に、限度をわきまえているのだ。男性の冷静な受け答えにも優しい大人の分別が感じられる。レストランのシェフとウエイトレス、この夫婦。どちらも愛が二人の関係を支えている。私たちも同じだ。

「あら、日本の人たちね。こんにちわ」

 女性が私たちに気づいて、一転して表情を和らげたが、夫に対する仁王立ちした姿勢は崩していない。

「こんにちわ。庭仕事は大変ですね」

 私が挨拶を返すと

「大変なもんかね。この人が花壇の雑草と間違えて大事にしていた花の苗を引っこ抜いてしまったもんだから、つい大声を出したわよ。恥かしいわ」

 彼女は恥ずかしがっているようには見えない。

「怒鳴り声が町中に聞こえましたよ。きっと」

「多分ね。いつものことだから、町の皆も聞き飽きて余り気にしていないと思うけどね」

 彼女がそう言うと、今まで黙っていた男性がしゃがんだままの格好で口を開いた。

「彼女の癇癪を聞くのが俺の役目なんだよ。俺だけが聞いていればいいのさ。町の人は関係ないよ」

 確かにその通りだ。私たち二人にも関係がない。

「あんたたちは旅の途中かい。ここはいいところだから、ぜひ泊まっていくといいよ」

 無論、私たちは彼女の勧めを待つまでもなく、泊まる予定にしている。

「この先の教会の横にホテルがあるよ。値段が安くて親切なホテルだから、きっと気にいるよ」

「ありがとう。この町にホテルがなかったら、私たちは野宿を覚悟していたんだ」

「おっと。それは残念だったね。チューリップ畑でごろっと横になるのもいいもんだけどね」

「今度この町に来た時は、そうしましょう。ありがとう」

「気をつけてね」

 男性も立ち上がり、彼の口やかましい女房に並んで、私たちが先に行くのを見送ってくれた。5分程で教会の前に立った。ホテルの場所はすぐに分かった。


 小さなホテルだが、板張りのロビーは意外に広くて、中央に大きな皮張りのソファーがあった。奥のフロントで宿泊ができるかと聞くと、5階の角部屋が準備できるとのことだ、応対してくれた年配のスタッフがレストランの自慢話を長々としたので、多少へきへきしたが、無事チェックインを済ませた。私と由紀子は鳥籠のようなエレベーターに乗って5階に上がり、廊下の突き当たりのドアを開けた。

「素敵じゃない」

 部屋に入った途端、由紀子が嬉しそうな声を上げた。広い部屋の真ん中に、大きなベッドが置かれ、壁には2人掛けの布張りのソファかあった。ソファの前のテーブルにはチューリップの一輪挿しが置かれている。壁には淡い色の抽象画が飾られ、開け放たれた窓の白いレースのカーテンが風に吹かれて、ひらひらと揺れていた。

「良い部屋だね」

「とっても素敵だわ。あなたの行いが良いからだよ」

「由紀子がきれいで素敵だから、ホテルがとびっきり上等の部屋を用意したくれたんだろう」

「あなたも素敵よ」

 私たちは窓の側で抱き合って広場を行き交う人々を眺めていた。

 夜になってロビーの奥のレストランへ行った。入口に立つとすぐにウエイターが飛んで来て、私たちを窓際の席へ案内してくれた。窓から広場の風景が見えた。建て込まない程度に配置された家々に明かりが灯され、ぼんやり広場を照らしていた。人の姿はない。皆、平和な家庭に戻ったのだろう。

 レストランの入口付近にテーブルが一列に並べられ、20人程の男女が楽しそうに食事をしていた。その話し声が私たちの席にも聞こえてくる。

 食事は例によってメニューの中から由紀子の指先が選び、ワインは私が程々の値段のものを選んだ。

「あちらはずいぶん楽しそうだね」

とウエイターに聞くと、

「今日の午后、教会で結婚式がありましてね。両方の親族の方がお集まりなんですよ。話し声が気になるようでしたら、申し訳ないですが」

「私たちはめでたい話に水をさすつもりはないよ」

「有難うございます。間もなく料理をお持ちしますので」

 ウエイターはにっこり笑って立ち去った。5分程でワインとパンが、少し遅れてスープが運ばれた。

「不思議ね。丸一日、自転車に乗っていたのに、全然疲れていない」

 私も由紀子に同感だ。

「幸せな人たちにたくさん会ったからよね、きっと」

「きっとそうだよ。こうして旅を続けていると、世の中には悪い人なんか、一人もいないって、思うよ」

「きっとそうね。良い一日だった。良い人たちに出会ったし、あなたをこうして独占しているし」

 天井から長い紐で吊り下げられたライトの光を斜めに受けて、顔の堀を深めた由紀子はきれいだった。そのことを由紀子に言うと、

「私は別にきれいじゃないわ。あなたにそう見えているだけ」

と、由紀子はにっこり笑って答えた。

「そんなことはないよ。誰から見ても由紀子はきれいなんだけど、僕が見る由紀子が一番きれいなんだ」

「ありがとう。あなたも素敵よ。別にハンサムじゃないけど」

 由紀子はいたずらっぽい目で言った。時間はゆったりと二人を包み込んで流れて行く。食事もワインも美味しかった。

 入口付近のグループがひときわ賑やかになった。みんな、相当にワインを飲んだようだ。彼等の中の最年長者と思える男がウエイターを呼んで何かを注文していた。そのそぶりは上品で紳士的だが、彼の顔は飲み過ぎたワインのせいで赤く染まっていた。しばらくすると、私たちの席へ追加のワインが運ばれてきた。注文した覚えがなかったので私が怪訝な顔をすると、ウエイターが

「あちらの席のお客様からお二人に、ということでお持ちしました」

と説明した。私は驚いて先ほどの赤ら顔の紳士を見た。目が合った。彼は私に会釈をすると、席を立ち、私たちの席へやって来て、先に由紀子に向けて右手を差し出した。由紀子は優しい眼差しで彼を見つめ、さっと右手を出して握手をした。続いて私も握手をして

ワインの礼を言った。

 彼はフランクと名乗った。私が着席を勧めると、食事の邪魔をしたんじゃないかと気にしながら、私の右の席に座った。

「あなた方二人の邪魔をしたくありませんでしたが、この辺りで日本人と会うことはまず無いですから、是非話をしたくなりましてね」

「そうですか。私たちは旅の途中なんですよ」

「あなた方はお互いに深く愛し合っているんですね。そう見えましたよ。愛は旅そのもの。人生も長い旅と同じです。だから愛は人生に欠かせません。お互いの愛を確かめ合いながら旅を続けたら、きっと素晴らしい結末があなた方を待っていますよ」

 フランクの言う通りならこれほど嬉しいことはない。彼と私の話に由紀子が明るい声で割って入った。

「きっとそんな旅をするわ。と言うよりか、そうしているわ」

 フランクは由紀子を見ながら

「あなたはとてもきれいだ。彼がうらやましい。幸せはすぐそこにあるよ。きっと」

と言い、微笑んだ。

「ところで、あなた方のグループはとても盛り上がっているようですが」

「それで迷惑をお掛けしていませんか」

「とんでもない。土地の人々の色んな表情を見るのは旅の楽しみの一つですから」

「そう言ってもらえると嬉しいです。実は、私の娘が今日、教会で結婚式を上げたんですよ。私の元で随分長い間、居候を決め込んでいたんですが、ついに娘を愛してくれる男性が現れましてね。今夜はそのお祝いです」

「それは素晴らしい。私たちもその結婚式を見たかった」

「私の喜びが分かっていただいてるようですね」

「勿論。私は人の親になったことはありませんが、娘さんの結婚式があなたにとって特別なことだというのは分かります」

 私の言葉に頷いていて、由紀子が

「私たちも乾杯しましょう。娘さんとお父さんの幸せのために」

と、私とフランクを交互に見て言った。

「このワインはそのためのワインだ」

 私が言うと、フランクは親指を突き上げて

「当りです」

と言って大笑いした。私たちもつられて笑い、その笑い声に促されたようにウエイターがフランクのためにワイングラスをテーブルに運び、ついでに栓を抜いて3人のグラスにワインを注いで回った。

「お嬢さんと父さんの幸せに」

 由紀子が乾杯の音頭を取った。

「あなた方の幸せな未来へ」

とフランクが続いて、3人は盃を上げてグラスを鳴らせた。テーブルの真中で3つのグラスが重なって、ライトの光を浴びて輝き、透き通ったえんじ色の液体が波打った。

「ああ、美味しい」

 由紀子がワインを一口飲んで感極まったように声を漏らした。

「あなた方はこれからどちらへ」

 フランクが聞いた。

「特に決めていないのですが、もう少し北へ行ってみようかと思っています」

 私が答えた。

「私は彼のあとをついで行くだけよ。ややこしいことは彼が全部やってくれる」

 由紀子はグラスを手に椅子の背にもたれて、リラックスしている。

「田舎は良いものですよ。貧しい時代がありましたがが、今はそうではない。富が上手くこの辺りまで回っているように感じます。だけど、豊かになったからと言って派手になる訳でもない。慎しさは昔と全く変わっていません。ここから北へ行くと、もっと田舎ですが、そこを通り過ぎたら港町に着きます。歴史のある町だから、是非訪ねてください。きっと良い発見があるでしょう」

 フランクが話し終えた時、彼のグループがざわついて、何人かが席を立った。

「どうやら、私たちはお開きのようです。またどこかでお会いしましょう。神は偶然を劇的にアレンジしてくれるでしょうから」

 フランクが立ち上がり、続いて私たちも立ち上がった。

「今夜はありがとう御座いました。月並みな言い方だけど、楽しかったです。良い思い出になりました。この旅は思い出がたくさんあり過ぎて、私の引き出しは溢れそうになっているけど、今夜のことは大切に仕舞っておきます」

 フランクはそう言う由紀子に歩み寄って肩に手を置いた。

「あなたはきっと幸せになりますよ。そうならなかったら、私は神に抗議します」

「ありがとう。あなたのお嬢さんもきっと幸せになれてよ。旦那さんに愛され、おまけにこんな素敵なお父様がいるんだもの」

 フランクは由紀子の言葉を聞いた途端に目が潤んで、由紀子を抱き寄せた。

 何て温かな夜だろう。私はそう思いながら二人を見ていた。離れた場所で、彼のグルーブの男女も静かにその光景を見ていた。ウエイターは満足そうな笑みを浮かべて、入口の脇に立っていた。この男はその場所に立って、これまでに随分たくさんの、人の気持ちが織り成すドラマを見てきたに違いない。


 二人は、道が狭いために横に並ぶのを諦めて、前後に列を作って走っていた。道の両側の小麦畑は金色に輝いていた。明るくよく晴れた日で、小麦畑の上空はひときわ明るく感じた。その反射光が由紀子の横顔を照らして、明るい中にも微妙な陰影を作って美しい。私は自転車の上で振り返り見て、そう思った。由紀子の表情には疲れが見られず、とても元気そうだ。

 麦畑が終わり、林を通り抜け、ごつごつした岩場の脇をする抜けると、前方に古ぼけたトラックが停まっていた。私は由紀子を追い越して、先頭につき、トラックに近づいた。トラックはボンネットが開かれ、男がエンジンルームに頭を突っ込んで作業をしているのが見えた。多分、故障だろう。男は私たちの自転車の音に気づいて頭を上げた。人のよさそうな田舎のおじさん、という風貌だ。私と目が合うと、両手を広げて顔をしかめた。

「動かなくなっちゃったんだよ。こんな場所で」

 彼はエンジンルームを指差して窮状を訴えた。悪い男ではないと判断して、私は自転車を降り、彼に近づいてエンジンルームを覗き込んだ。恐ろしく古いメカだった。10年どころか、20年間はロクな手入れもせずに乗り回して来たに違いない。よく見るとダイナモのケーブルが毛羽立ち、中の銅線が黒くくすんでいた。触ると黒ずんだ油でべったりと指が汚れそうだったが、構わずケーブルを左右に揺すってみた。力を入れてもいないのに、ケーブルの1本がすぽっと抜けてしまった。男はまんまるい目をして私を見つめた。

「一体、何があったんだ」

「ダイナモに繋いだ線がいかれてるよ。腐ってしまっている」

「腐っているつて。これまで機嫌良く走っていたのに」

「こいつで発電してバッテリーに電気を貯めるんだ。こいつがイカレるとバッテリーが空っぽになってしまうよ。何か、工具はないの」

 男は荷台の隅から工具箱を取り出した。中にはドライバーやスパナなどが一通り揃っていた。私はスパナを使って、注意深くダイナモを外し、ドライバーの先で端子をこすって汚れを取り除いた。次はケーブルだ。二本のケーブルのうち、繋がっている1本はは大丈夫なようだ。私は、自転車に乗ったまま車の正面からようすを見ていた由紀子に声をかけた。

「由紀子、爪切りがハサミのようなものを持っていないか」

「確かあるはず」

 由紀子は自転車から降りて背中のリュックを降ろした。中をまさぐって小さなポーチから爪切りと裁縫用具の入ったプラスティックの容器を取り出した。私は容器の中の小型のハサミと爪切りを受け取り

「ダイナモにつながったケーブルがいかれてるんだよ。ちょっとケーブルを細工するのに使うよ」

と由紀子に言った。由紀子は

「良いよ」

と短く答えて、興味深そうにエンジンルームを覗き込んだ。

「なんだか古そうな感じ」

「そうなんだよ。長い間、ろくに整備もせずに重宝してきたんだろうな」

 私はケーブルの長さを確かめ、何度もハサミを使って、腐った先端を切り落とした。断面を見ると銅線はきれいだ。それを男に見せ、先端から2センチほどの位置に切り込みを入れて周りの皮膜を取り除いた。細い銅線をねじって一つにまとめ、端子に巻き付け、ネジを絞めた。

「これで大丈夫なはず。バッテリーに電気が残っていたら良いけど」

 私のすぐ横で作業を見ていた男は、信じられないという表情で私を見て、直ぐに運転席に向かい、イグニッションをひねった。不機嫌な音を立ててセルが回り、さらに不機嫌そうにエンジンが回った。初めは不安定で回転数にむらがあったが、1分ほどするとなめらかに回り出した。それでも時折、しゃくりあげるような挙動を見せる。

「何とか回っていますね」

「すごいよ。ありがとう。助かったよ。本当にありがとう」

 男は何度も礼を言い、指先が汚れた私の手を握り締めた。ついで由紀子を見て、

「あなたの大切なハサミを汚してしまいました。誠に申し訳ない。新しいのを買って取り替えたい」

と、謝った。

「良いんですよ。そんなに高いものじゃないから。役に立てて良かったわ」

 由紀子の口ぶりはサッパリしている。男たちと同じように、エンジンの調子が戻ったことを喜んでいた。それでは申し訳ないと、男は車内からティッシュボックスを持ち出し、道具に使った裁縫用の小さなハサミを丹念に拭いて汚れを取り除いた。彼はハサミを上にかざして

「良かった。刃こぼれはないようです」

と言って由紀子に戻した。

「どちらに行かれるんですか」

 由紀子と男は同時に同じ質問をした。一瞬間を置いて二人は声を上げて笑い、

「先に私が答えるわね。これから北に行くと港町があると聞いてるの。そこは素敵な町だって。そこへ向かっている途中よ」

 由紀子が説明した。男は町の名前をつぶやき

「町はもっと先ですよ。自転車だと夜遅くなってしまうよ」

と、心配そうに言った。

「車を直してくれたお礼に送ってあげたいけれど、方向が逆だし、仕事の都合があるから、困りましたね」

 男が思案顔で言うと、

「困りごとはそれだけではなさそうよ、あなた。この自転車はどうすれば良いのかしら」

 由紀子が私の方を見て聞いた。迂闊だった。自転車を返すためには出発地点に戻らなくてはいけない。

「それは考えていなかったね。どうしたもんだろう。困ったね」

 さすがの私にも妙案は浮かばない。

「自転車はどこで借りました?」

 男が聞いたので、私はうろ覚えの町の名前を言った。それを聞いた途端、男の表情が明るくなった。

「その近くに行くんだよ。農機具の部品を交換に行く途中だったんだ。俺が自転車を返してあげよう。お安いご用だ」

 男の申し出はありがたい。けれどさすがに由紀子は賢明だ。

「それは助かるけど、これから先の私たちの足はどうなるの。歩いて行けるの」

 由紀子の目は真剣だ。それを見ている私は、多分間が抜けた表情をしていたに違いない。

「この先に駅があるんだ。車で5分ほどで行ける。そこまで送るよ。そこから列車に乗れば数時間で港町に着く」

「それは良い考えだわ」

 無論、私には反対する理由がない。

「そうと決まれば、早く」

 男に急かされて私は2台の自転車を荷台に載せ、由紀子に続いて折り重なるように助手席に乗り込んだ。

「狭いけど、我慢してよ。あなた方の事は忘れないよ。日本人は、皆、あなた方のように親切なのかね。機械にも強くて」

「機械に強いのはこの人の才能よ」

 由紀子が自慢げに言った。

「私は日本人が好きよ。良い人が多いわ。私はこの国の人も大好き。こんなに思い出がいっぱい詰まった旅は初めてよ。とっても幸せだわ」

 由紀子は上ずった声で言った。

「俺は日本人と会ったのは初めてなんだ。多分、あなた方のように親切で明るい人たちばかりなんだろうな。機会があれば、日本という国に行ってみたいよ」

 5分もかからずに駅に着いた。駅は古い木造の建物が散在する集落の真ん中にあるが、周りの環境とは似つかわしくないくらいに立派な建物だ。男は素早く車を降りると駅に駆け込み、1人しかいない年老いた駅員に列車の時刻を聞いた。構内の壁に時刻表らしきものがあったが、町の名前が分からないので、私たちにとっては意味をなさない。

「あと20分ほどで列車が到着するよ。あなた方だったら、お互いに退屈せずに待てるだろう」

 男が明るい声で言うと

「あなたのトラック。大切に乗ってね」

由紀子は神妙な顔で言った。出会ったばかりなのに、もう、この男とも分かれなければならない。由紀子の目は涙ぐんでいた。

「又故障したらあなたを呼ぶよ」

「私の名前は由紀子よ。故障したら大きな声で『ユッコ』って、叫んで。この人を差し向けるから」

「是非、そうするよ。申し遅れたけれど、俺はヘインズと言うんだ。百姓だよ。あなた方には恩にきるよ。ありがとう」

「礼を言わなきゃならないのは私たちよ。温かい良い思い出が出来たわ」

「俺もだよ」

 ヘインズはそう言うと、なごりおしそうに車に戻り、窓から身を乗り出して手を振った。

「ありがとう。さよなら」 

 私たちはトラックが集落の外れの建物の影に隠れて見えなくなるまで見送った。その後、私たちはチケットを買い、誰もいないホームに立って、列車の到着を待った。

 周りが静かだから、列車が近づく気配をレールから伝わってくるかすかな音で感じた。その音が徐々に大きくなると遠くに列車の黒い影が見え、少しずつ大きくなる。ポーと鳴らした警笛がはっきり聞こえた。煙突からもくもくと吐き出された煙が機関車よりも大きく立派に見える。

「SLだよ」

 由紀子が嬉しそうに叫んだ。

 SLがその存在感を誇示するかのようにホームに滑り込んできた。昔の弁慶号のようなスタイルだ。私は時間が逆転して過去にタイムスリップしたような気分になった。列車が停まって、私が客車のドアを開け、由紀子を先に乗せようとしたとき、先ほどの年老いた駅員が苦しそうにはっはと息をはきながら走ってきた。

「おーい。ちょっと待て」

 駅員が大きな声で先頭の機関車に向かって叫んだ。私はタラップに足を載せたままの姿勢で駅員を見た。何か、トラブルがあったのかと不安がよぎったが、駅員はまっすぐ私に向かってやって来た。

「良かったよ。間にあった。さっきの男からの届け物だよ。受け取ってくれ」

 ぜいぜいと激しい息をしながら、駅員は2つの紙袋を差し出した。私は「えっ」と一瞬ためらったが、素直に紙袋を受け取ることにした。私に紙袋を渡すと、駅員は

「良い旅を」

と言い、機関車の方を向いて

「悪かった。済んだから、早く出してくれ」と叫んだ。

 私は彼に礼を言ってドアを閉めると、列車は音も無く走り出した。ドアの窓から過ぎ去っていく駅のホームを見ると、駅員はホームの先端に立って手を振ってくれていた。

 由紀子は先に一番手前のコンパートメントに入って、窓の外に向かって小さく手を振っていた。

「まだ、駅員が見えるのかい」

 私が聞くと

「もう、見えない。でも気持ちが伝わってくるような気がしたから」

 由紀子はそう言って正面を向いた。

 私は紙袋の一つを由紀子に渡し、私はもう一つの中身を調べた。きれいな白い紙で包まれたサンドイッチと缶ジュースが入っていた。

「おいしそうだわ。そう言えば、私たち、お昼がまだだったわ」

 由紀子の言う通りだ。途中にレストランがなかったし、車の修理に時間を取られてランチのことは忘れていた。

「そうだね。けれど、これじゃあ、彼の持ち出しだよ。自転車を返してもらって、駅まで送ってくれたことでイーブンだったに、ランチまで奢ってもらったりしたら、彼に借りができるよ」

「そうね。借りは直ぐに返せないね」

「また、会えれば良いけど」

「それは難しいかも。私たち、その分を他の人に返しましょう。そうすれば私たちの中でご和算になるわ」

「それは良い考えだ。由紀子は利口だよ」

「特別に利口じゃないわ。あなたと同じ位よ」

「それじゃあ、ものすごく利口だってことになるよ」

 二人は笑い、ありがたいサンドイッチを、美味しく頂いた。ジュースを飲んだ時、私たちは既に喉がカラカラだったことを知った。ジュースは喉から胃に染み込み、私たちを癒してくれた。


 やがて列車は町の駅に着いた。ホームに立つと潮の香りがしたので、二人は顔を見合わせた。

「海だよ。港町だ」

 私が言うと、由紀子はこっくりとうなずき、私の手を引いて駅の外へ向かった。

 私たちは町に出ると、人々が行き交う中を彼らの歩調に合わせてゆっくり歩いた。しばらく歩くと港へ向かう下り坂に出た。そこを下ると防波堤にぶつかり、道は左右に分かれる。この辺りに来ると建物はまばらになり、駐車場や小さな緑地が隙間を埋める。

 私たちの進行方向に大きな、と言ってもせいぜい7階程度の高さだが、しっかりしたビルが見えた。外壁のグレイに薄いベージュが交じり合った色合いは周りの景色と調和していた。屋上近くにホテルの看板が見える。

 後ろからどたばたと走る足音がしたので振り返った。旅に出て、急いでいる人を見るのは久しぶりだ。紺のストライプのシャツとジーンズのラフな格好をした若者だ。彼が私たちを追い越そうとした時、由紀子が声をかけた。

「すいませーん。ちょっと教えてくださらない」

 声を聞いた若者は5メートルほど先に進んだところで律儀にも立ち止まって、振り返った。

「はい、何か」

 若者はいきなり声をかけられたので、びっくりしたようすだ。

「あそこに見える建物はホテルですね。間違いないかしら」

 由紀子が首をわずかに傾げながら、人にものを聞く姿はとても魅力的て、小悪魔のような趣がある。若者も十分刺激を受けているはずだ。

「えっ、はい。あれはホテルです」

「この町には他にホテルはないのかしら」

「ありますけど、あのホテルが一番立派なホテルです。僕は泊まったことがないですが」

「ああそう。良いホテルで間違いないのね。でも、泊まったことがないのに、どうして立派だとわかるのかしら」

「だって、僕の親父が経営しているから。僕はそこで働いているんだ。町のどのホテルよりも良いホテルですよ」

「あなたのお父様が経営しているなら間違いないなさそうね。あなたはホテルへ帰る途中なの」

「そうです。仕事で急いでいたんです」

「それはごめんなさい。それでは、間もなく日本人2人が行くからと伝えておいて」

 由紀子は若者の目を見据えて言った。若者はどことなく緊張しているようで、おかしい。

「わかりました。言っておきます」

 若者はそう言うと、再び走り出して直ぐにホテルの中に消えた。その途端、ホテルの中からどなり声が聞こえた。

「遅いじゃないか。何をしているんだ」

 私たちがホテルの玄関先に近づいた時、中から恰幅の良い紳士と先ほどの若者が出て来た。若者はすかさず私たちを指差した。私は、彼が遅れた原因を私たちのせいにしているのかと訝ったが、由紀子の反応は違った。

「今日は。あなたの息子さんはとても優秀なセールスマンでいらっしゃってよ。町一番のホテルだから、泊まるように無理矢理勧められたわ」

 由紀子がそう言うと、紳士の立派な顔がたちまち緩んで笑顔に変わった。

「お待ちしていました。遠い国からようこそ」

 紳士は如才のない言い方で空き部屋があることを伝えた。

「ありがとう。ここにたどり着くまで、ずいぶん日数が必要だったわ。あなたの息子さんのおかげよ」

 由紀子が若者の肩を持つ。

 ホテルの中では若者が世話を焼いてくれて、ロビーでコーヒーをごちそうになり、チェックインの後で部屋まで案内してくれた。

 部屋は7階の突き当たりだった。

「ねえ、とても良い部屋よ」

 部屋は古い作りだが、しっとりと落ち着いていた。ブラスのベッド、どっしりしたデスク、濃い茶色にベージュのストライプが入った布地のソファ。濃紺の毛足の長いラグ。白い壁の腰から下は艶のある焦茶色の板張り。

「良かったね。良い部屋を振舞ってくれたんだよ」

「きっとね、良かった。あなたとの旅はすてきよ。愛しているわ」

 由紀子は私の首に手を回して、私に口づけをした。直ぐに首を後ろに反らし気味にして私をじっと見つめる。私は彼女の背中に手を回して引き寄せ、もう一度口づけをした。

 私たちは服を脱ぎ捨て、いっしょにシャワーを浴び、長い間、ベッドの上で過ごした。窓には白いレースのカーテンがかかっていた。他人の視線を気にする必要はない。窓の外には空と海が広がっているだけだ。ひょっとしたら、空を飛ぶ鳥が窓の近くにやって来て、幸せな恋人たちの情景を見て、嫉妬していたかも知れない。

 やがて、太陽が沈もうとしていた。

 由紀子がゆったりした動作でヘッドを抜け出し、窓辺に近づいた。正面から太陽の光を受けて、何も身に纏わない由紀子の体の輪郭がオーラのように輝いていた。

 そんな由紀子に魅せられて、私は由紀子の後ろに立ち、両肩に手を置いた。

「太陽の残り火が、激しく燃えているわ」

と由紀子はつぶやき、正面を向いたまま私に体を預けた。私は両手を前に回して、彼女の細くて柔らかな体を包み込むように抱きしめた。

 太陽は海の向こうに沈もうとしていた。港の中や沖合で、小さな漁船が波を受けて上下に揺れ、朱色に染まっていた。西の空が真っ赤になり、上空は既に濃紺の夜の気配を見せていた。太陽が沈むにつれて、発する光は明るさを増して放射線状に広がり、太陽そのものの色は赤色に黒いグラデーションがかかっていく。私は由紀子を強く抱きしめたまま、微動だにせずにその光景を見つめていた。由紀子の体は燃えるように熱くなって私の腕と胸に伝わっている。

 西の水平線にわずかに残った太陽のかけらが、最後の光を放った。光は夜空を一閃し、狙い澄ましたように私たちを捉え、貫いた。私の前で由紀子の体は朱に輝いて透明になり、私は、肌を通して伝わる由紀子の熱気が私への愛の証だと強く感じて高ぶった。

 やがて、太陽は波間に消え去り、私たちの周りを闇が支配し始めた。私の網膜には彼女の美しい体の、光の輪郭がいつまでも消えずに残っていた。闇の中で、私と由紀子は重なり、溶け合い、ひとつになった。


 知らないうちに眠ってしまったようだ。

夢の最後に見た夕日と、光に射抜かれて赤く透き通った由紀子の体はその温もりとともに生々しく記憶にあり、目を閉じれば瞼の裏に再現することが出来る。

 隣の由紀子が寝返りを打ってこちらを向き、一瞬だが私を見て

「夕日が綺麗だったね」

と言い、再び目を閉じて眠りに入ってしまった。由紀子も同じ夢を見ていたのだ。私は彼女の背中に腕を回して考えた。私たちはこれから先、どうなるんだろう。このことはこれまでに何度も考えてきた。そして、どうにもならないとという分かり切った結論に行き着く度にいらだちを感じてきたのだ。

 とりあえず、明日は大阪に戻って仕事を片付け、その後で家に帰らなければならない。


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