行間 主と獣の頭脳戦
ゆっくりと、まぶたを持ち上げる。
目標までは距離にしておよそ数十センチ。ほんの少し身を乗り出せば届く距離だ。監視役も油断しているのか、こちらの動きに気づいた様子はない。
生唾を飲み込む。焦りは禁物だ。物音を立てないよう、慎重に慎重に腕を伸ばしていく。
そして――――――――――、
「キュウ!!」
「あいったぁ!?」
ルーに手の甲を力強く叩かれ、リリアは思わず声を上げた。先程まで座布団の上で丸くなっていたはずなのに、何という察知能力の高さと俊敏さだろう。
既に似た攻防は幾度となく繰り返されており、リリアが本を読もうとすれば、その度にルーの厳しい折檻が飛んできていた。
「もう! どうして邪魔するんですか!?」
痛みを堪えながら睨みつけるも、当のルーはどこ吹く風でそっぽを向くばかりだ。
いや、自分が悪いことはリリアも重々承知している。ルーが日々也の指示を忠実に守っているだけだということも。しかし、いくら何でも病人相手にこの仕打ちはあんまりではないか。さりげなく爪を立てられたらしく、患部からは少量とはいえ血も滲んできていた。
そもそも、このカーバンクルはなぜ召喚者である自らの言うことを聞かないのだろうか。そのくせ、契約とはまるで関係のない日々也には素直に従っているのも腹立たしい。
(……………そういえば、初めて会ったときから結構生意気な性格してましたね。この子)
思い出されるのは、ルーを召喚してすぐのこと。あの場は丸く収めたものの、彼女が提示してきた契約条件は本当にふざけた内容だった。
まるで、自分の方が偉いんだぞとでも言わんばかりの態度。それは今も変わっていない。
つまるところ、なめられているのである。
(………分からせなければ)
リリアは静かに決意する。
(どちらの立場が上なのか、今ここではっきり分からせてやらなくては……ッ!!)
そのためには何をおいても、まず『自らが優れている』ということを示す必要がある。
熱でろくに回らない頭を必死で働かせ、ルーが敗北を認めざるを得ないものを、優位性を証明する方法を考え、思案し、思考し、やがてリリアは一つの答えに至った。
「……ルーちゃん。私と、取引しませんか?」
ルーは振り返らない。だが、話を聞く気はあるらしく、リリアの言葉に彼女の耳がかすかに動く。
乗ってきた。
そう確信した少女の口元がほころぶ。開いた突破口は未だ針の穴のごとく小さい。なれど、機は掴んだ。
「前にヒビヤさんが買ってくれた、ちょっとお高めのご褒美おやつ。もしも見逃してくれるなら、あれをあげましょう」
リリアの提案に対し、ルーは軽く鼻を鳴らす。そんな程度で懐柔されるとでも思っているのかと言わんばかりの素っ気ない反応。にもかかわらず、少女はむしろ笑みを浮かべてみせる。
「えぇ、えぇ、分かってますとも。言いつけを守って私を見張っていれば、ヒビヤさんはきっとおやつをくれるでしょう。わざわざ怒られるかもしれない危険を冒す必要なんてどこにもない。でも、いいんですか? この取引に応じてくれた場合、ヒビヤさんの分に加えて私の分も報酬としておやつが貰えるんですよ?」
瞬間、ルーの目が見開かれる。
話の内容が予想を超えて魅力的であったから、ではない。リリアが自身の目論見を看破していたことへの驚愕から、である。
確かに、日々也の指示に従っていればごちそうにありつけるのではと期待してはいた。確約こそされていないものの、彼の性格と今までの経験から何らかの見返りはあるはずだ、と。だからこそ、彼女は本を読もうとするリリアを執拗に妨害し続けていた。
それを、見抜かれていた。
ここにきて、ルーは初めて身構える。
本能が警鐘を鳴らす。
目の前にいる召喚者は、決して侮ってはならぬ存在であったことを悟ったが故に。
だが、
「三つです」
そう理解したときには、全てが遅きに失していた。
「私が本を読む邪魔をしないと約束してくれれば、おやつを三つ差し上げましょう」
ルーの警戒を嘲笑うかのように、リリアが畳みかける。
三つ。
何と甘美な響きであろう。日々也の分も合わせれば四つになる。ただでさえ滅多に食べられない希少品なのだ。そんなものを一日に四つも味わえればどれほど幸福か。
甘い誘惑にルーの心が揺れる。しかし、ここで安易に承諾してしまうのは得策ではない。これは交渉という名の駆け引きなのだ。まずは焦らして報酬をつり上げさせる。そのためにも、頑とした態度を貫き通すが吉。
リリアがどうしても本を読みたいのは分かっている。我慢比べになれば、いずれはどこかで折れるはず――――――――――、
「と、思っているんでしょう?」
リリアの笑みが深みを増す。次に彼女から発せられた言葉はあまりにも衝撃的な内容であった。
「三つというのは私が提供できる上限です。宣言しましょう。ルーちゃんがどれだけごねたところで、おやつの量を増やすつもりは一切ありません」
やられた。
ルーが人間であれば、今頃は苦虫をかみつぶしたような表情をしていたことだろう。
リリアは決して聖人君子でも生粋の正直者でもないが、嘘を嫌っているのは紛れもない事実。その彼女が断言した以上、さらなる好条件を引き出せる可能性はゼロに近い。
それでも、ルーは現状を打破するための策を模索し続ける。
対して、リリアは相手の思惑を先んじて潰す方法を考える。
召喚主と召喚獣。一人と一匹のくだらない頭脳戦は、まだまだ終わりそうもなかった。