3-2 それでも人は欲には勝てず
リリアがびしょ濡れになって帰宅してきた次の日。
「…38度2分」
「………ケホッ」
少女の口から引き抜いた体温計に表示された数値を確認してため息をこぼす日々也に対し、リリアは小さく咳を一つ。
あの後できるだけ急いで湯を沸かしてリリアを風呂場へと放り込んだのだが、どうやら手遅れだったらしい。案の定というべきか、風邪を引いて体調を崩してしまった彼女は赤い顔をして汗だくになりながら布団にくるまっていた。
「うぅ……頭がガンガンする…喉、痛い………ヒビヤさん、助けて下さい~……」
「自業自得だ、馬鹿」
などとぶっきらぼうに言いつつも、リリアへと注がれる日々也の視線には心配の色が滲んでいる。
普段あれだけはつらつとしている少女が荒い息をして、弱々しく横たわっているのはさすがに見るに堪えない。説教などせず、もっと早く対応してやればこんなことにはならなかったかもしれないと思うと自責の念も増すというものだ。
何にせよ全ては後の祭り。今は後悔よりも看病をするしかないと日々也は考えを切り替える。
「リリア、食欲はあるか?」
「ん……少しだけ」
「分かった。じゃあ、たまごがゆでも作ってやるからちょっと待ってろ」
そう言って日々也は立ち上がり、台所へと歩いて行く。今日が休日なのはせめてもの救いだった。これが平日であれば、忙しい朝がさらに慌ただしいものになっていただろう。
だからといって、ありがたさなどこれっぽっちも感じない。リリアの食事を作った後は自分の分だ。別に同じものを食べてもいいのだが、健康体におかゆはさすがに味気なさ過ぎる。無駄に増えてしまった手間に些かうんざりしながらも、彼は手際よく調理の準備を進めていく。
その最中。ふと、こんな風に誰かを看病するのはいつ振りだろうかと思う。
適切な環境を保つための費用や薬代など、一度崩した体調を治すためにはそれなりのお金がかかるのだ。病院に行くともなれば出費はさらにかさむ。だからこそ、日々也は常日頃から健康には人一倍気を遣っていた。妹の明日香に関しては言わずもがなである。
とはいえ、体の弱い幼い時分にはどうしようもない場合もあった。そんな時、床に伏せった妹のためによくこうしていたなと何とも言えない感慨にふける。
「キュウ」
「ん? どうした? ルー」
懐かしい思い出に浸りながら料理の仕上げに入ろうとした日々也の足下に、突如としてルーが纏わり付いてきた。そして、どこか一点をじっと見つめ始める。
視線を追えば、その先にあったのはリリアのベッド。次いで日々也の目に映ったのは、音を立てないようこっそり本棚へ手を伸ばす少女の姿であった。
「人に身の回りの世話させておいて、いいご身分だなこの野郎」
「ぴゃあっ!?」
唐突に手にした本を取り上げられ、叱責を受けたリリアが奇声とともに飛び上がる。どうも静かに行動するのに集中しすぎたあまり、日々也の接近に気がつかなかったらしい。
「ったく、病人のくせに油断も隙もないな」
「い、いいじゃないですかぁ…昨日は結局ゴタゴタしてて一ページも読めてないんですよぅ。ちょっとくらい読ませてくれたって………」
「それで風邪が悪化したどうするんだ。お前は黙って大人しくしとけ、馬鹿リリア」
「ば、馬鹿とは何ですかぁ、馬鹿とは……ゲホッ! ゴホッ、ゴホッ!」
「あぁ、もう。いいから寝とけって!」
激しく咳き込むリリアを、日々也は呆れながら布団の中へと押し込める。しかし、彼女の気持ちも分からなくはない。いくら体調不良でも、ずっと横になっているだけというのはなかなかに退屈だ。つい遊んでしまったりと、何かをしたくなるのも無理からぬことだろう。
だが、それを許しては治るものも治らない。ここは心を鬼にすべしと毅然とした態度で応対し、代わりとばかりに日々也は急いで料理を完成させて運んでいった。もちろん、腹を膨らませて眠気を誘おうという魂胆で、だ。
「ほら、できたぞリリア。一人で食べられそうか? フーフーするか?」
「……………いえ、大丈夫です。というか、ヒビヤさんはたまに私のこと異常に子ども扱いしてませんか?」
恨めしそうな目で日々也を見ながらお盆ごとおかゆを受け取ったリリアは、それを添えられたレンゲで掬って食べ始めた。優しい風味とぬくもりが口内に広がる。やはり、この少年の作る料理はとても美味しい。今まであまり食事にこだわりを持っていなかったリリアが、体調不良のせいで味がぼやけているのが残念だと思ってしまうほどに。
そうして少女が舌鼓を打つそばで自分用の朝食を手早く済ませた日々也は食器を水の張ったたらいの中に沈め、近くの棚を漁り出す。この部屋で暮らすことが決まった際、ここに薬の類いが保管してあると説明を聞かされていた。
そのはずだった。
「あれ?」
「どうしました? ヒビヤさん」
「………薬がない」
開いた引き出しに収められているのは絆創膏や消毒液ばかりだ。もしや記憶違いだったかと他の場所や救急箱の中まで確認してみても、目的の物は見当たらない。
「なぁ、リリア。風邪薬ってどこに置いてあるんだ?」
「あ、あ~、そういえば、前に風邪を引いたときに全部使っちゃった……ような………」
ろくに働かない頭で朧気な記憶を何とか引っ張り出してきたリリアの答えに、日々也は軽い舌打ちで応じる。思い返してみれば、当時は色々とばたついていたこともあって物の配置を教えてもらっただけで満足してしまっていた。しっかり確認しておかなかったのはミスだなと、自らの額を小突く。
「仕方ない、買ってくるか」
兎にも角にも薬の確保だ。一瞬だけ他の寮生に分けてもらう案も脳裏をよぎったが、どれだけ必要になるか不明な上、今後も同じような事態に陥った場合に備えていくらか揃えておいた方がいいだろう。
「リリア、何か欲しい物とかあるなら今のうちに言っとけよ。ついでに買ってきてやるからな」
自分の財布を引っ掴み、日々也は早速出かける準備を進めながらリリアに話しかける。それに対して少女はしばし悩み込んだ後、思いついたように手を叩き、
「じゃあ、ちょっと前に発売されたんですけど資金的に諦めざるを得なかった本とか買ってきていただけたらな~……なんて」
「よし、だったら早く風邪を治すためにも効き目がすぐ現れる座薬タイプの薬を買ってきてやろうな」
「すみません、ナマ言いました。薬は飲み薬系でお願いします」
笑顔のまま怒気を含んだ声で告げる少年に、素早く謝罪するリリア。花も恥じらう乙女として、軽口の代償が座薬はちょっと重すぎる。
とはいえ、お互いに相手の発言が冗談であると分からぬほどの仲ではない。日々也もため息をつく以上のことはせず、靴を履いてドアノブへと手を伸ばし、
「一応言っておくけど、ちゃんと寝とけよ。風邪が治るまで読書は禁止だからな」
「分かってますって。いくら何でも心配しすぎですよぅ」
「そうか。そうだな、そうだよな。なら、もう行ってくるからな」
「は~い、お気をつけて~」
外に出て行く日々也を見送ったリリアは残ったおかゆを食べきると、器とお盆を近くのテーブルに置いて布団の中に潜り込む。普段であれば片付けておくところだが、このくらいの甘えは許されるだろう。今は少年の忠告通り、ゆっくり体を休めなければ。
目をつぶり、何も考えないようにして深く息を吸っては吐いてを繰り返す。
「…………………………」
一秒、二秒、三秒――――――――――、どれほどの時間が経った頃か。不意にリリアは閉じていたまぶたを持ち上げる。
「うん、全然眠くないですね」
起床したのは数十分前。当然と言えば当然である。しばらくゴロゴロと寝返りを打ってはみたものの、どうしても睡魔はやってこない。
だから、そう、これは不可抗力。仕方のないことなのだ。
誰に聞かせるでもなく心の中で言い訳を繰り返し、リリアは購入したばかりの本を手に取った。
(いや、別に約束を破っちゃってもいいかとか、そんなんじゃないですし? むしろ、ほら、読んでるうちに眠くなってくるかもしれませんから? ヒビヤさんの指示を守るためにも必要的なアレでして……………ッ!!)
心臓が高鳴る。緊張か、背徳か、興奮か。あるいはその全てか。
ずっと。ずっと、ずっと。本当ならすぐにでも読みたかったにもかかわらず、お預けを食らっていたのだ。
洗練された文章を目にする快感を、登場人物たちとともにいるかのような没入感を、一刻も早く味わいたい。
期待に胸を躍らせて、リリアは表紙をめくる。待ちに待った瞬間がついに訪れ、彼女に至福の時間をもたらそうと――――――――――、
「ちゃんと寝てろって言ったよな?」
「きゃぁぁぁぁああああ!!??」
する直前、鬼の形相をした日々也が玄関から顔を覗かせた。驚きのあまり、リリアの肩がビクリと跳ねる。
「ヒ、ヒビヤさん!? 今出かけたばかりじゃあ………!?」
「そろそろお前が我慢できなくなる頃だと思ってな。様子を見に戻ってきたんだよ」
「何ですか、その勘の良さ!?」
戦々恐々とするリリアをよそに日々也は本を取り上げ、棚の中へと戻してしまう。しかも背が低く、体調の優れない彼女にとっては地味に面倒くさい最上段にだ。
「うぅ………ヒビヤさん、酷いです……」
「どこがだ。あぁ、あと、ルー。こいつが変なことしないように見張っておいてくれるか?」
「キュウ!」
日々也の頼みにルーは一声鳴き、『了解』とばかりに姿勢を正す。まるでよく躾けられた犬と飼い主だ。リリアではこうはいかない。
(あれ? もしかして私の家庭内ヒエラルキーって、ルーちゃんよりも下……………?)
「さて、今度こそ行ってくるけど、本当に大人しくしておけよ」
衝撃の事実にたどり着いてしまったリリアの心中など察しもせず、日々也はそう告げて部屋を出る。
残された少女は厳しい目を向けてくる小動物を一瞥し、
「召喚主の立場って…一体………?」
ショックからベットに倒れ伏すのだった。