3-1 ある雨の日の出来事
しとしとと雨が降る音を聞きながら、日々也は手にした本のページを静かにめくる。
彼が異世界へとやってきてから早二ヶ月が経とうかという頃。丁度こちらでも今は雨期にあたるらしく、ここ数日はずっと雨の日が続いていた。
雨天とはそれだけで作業や予定を滞らせてしまうものである。洗濯物はなかなか乾かず、よほどの緊急性がなければ外出の機会も減っていく。バイト三昧であった元の世界とは違い、ただでさえ時間を持て余していた日々也はそのせいでさらにやることがなくなってしまっていた。
なので晴耕雨読というわけでもないのだが、最近は文字を覚える練習がてらにリリアが買い込んだ書籍を読みふけるのが日課となっている。勉強の成果が出ているのか、つっかえながらも一人で読めるようになってきている事実は自信に繋がるし、何よりも思いの外楽しいものだ。
しかし、リリアの持っている本が些か以上に偏りすぎていることには少しばかり呆れてもいた。
当初こそ魔法関係であろうと考え、勉強熱心だと感心すらしていたのに蓋を開けてみれば彼女の蔵書のほとんどが小説、それも大衆娯楽向けの内容であると知ったときは肩を落とさずにはいられなかった。
(まぁ、割と面白くはあるんだけどな)
元の世界であまり触れてこなかった文化であるがゆえの新鮮さか、はたまたリリアの審美眼が確かなのか。どちらにせよ、彼女の買ってくる本にハズレがないのは確かである。何となくそのことを認めるのは癪に障ったので、未だに伝えてはいないが。
「にしても、どこに行ったんだろうな。我らが召喚主様は」
水滴の流れ落ちる窓へと目を移し、傍らで丸くなっているルーの背を撫でながら、日々也は語りかけるように独りごちる。この部屋の主であるリリアは彼らに留守を任せて出かけたまま、もうずいぶん長いこと戻ってきていなかった。
普段であれば、多少リリアが自分から離れたとしても特段気にする日々也ではない。しかし、今回はさすがに帰りが遅すぎる。どうしても手に入れたい品物があるという話は聞いていたものの、何をどこまで買いに行くのか尋ね忘れていたのは完全に失敗であった。
不意に、以前の誘拐事件が脳裏をよぎる。不安から探しに行くべきかと日々也が考え始めた頃、ようやく玄関の扉が開いた。
「た、ただいま……です………」
「あぁ、おかえり…って、どうしたんだよ!? お前、その格好!?」
音のした方を見やると、そこには濡れ鼠―――――ではなく、全身ずぶ濡れのリリアが立ちすくんでいた。
長い髪はべったりと顔に張り付き、いつも羽織っているローブからは大量の水がしたたり落ちている悲惨な姿に唖然とする日々也。驚きのあまり硬直する彼をよそに、リリアは二度、三度とくしゃみをしてから呑気にはにかむと、
「いやぁ、傘を持っていくのを忘れちゃいまして……走れば大丈夫だと思ったんですけど、雨足が結構強くてこんなことに………」
「『こんなことに』、じゃない! 何で連絡しなかったんだよ!? そうすれば迎えに行ったのに!」
「ふっふっふ、ヒビヤさんの迎えを待つ時間も惜しかったんですよ。だって……」
言葉を切り、リリアは自らの懐に手を突っ込んだ。そうして取り出されたのは一つの茶色い紙袋。雨水から必死に守っていたのか、濡れた様子は一切ない。
彼女はそれを自慢げに掲げ、
「じゃーん! 私の大好きな作家さんが書いた、今日発売の推理小説!! しかもですね、特別付録がついた数量限定の初回生産版で……あいたぁ!?」
言い終わる前に、少女の頭へ鋭い手刀が叩き込まれた。あまりの痛みにリリアは患部を抑えて蹲る。
「何が限定だ! そんなモンを買うためだけにこの雨の中出て行ってたのかよ、お前は!? というか、また無駄遣いしやがって!!」
「む、無駄遣いとは失礼な! これでも欲しい物をいっぱい我慢して、熟考に熟考を重ねた上で選び抜いた一品なんですよ!?」
「どうせあれだろ、大したこともない付加価値がついてるだけで二倍も三倍も割高なやつだろ!? 普通のにしておけば他にも色々買えただろうが!」
「大したことなくなんてないです、希少で貴重です!! 大体、頼めばいくらでも理事長さんがお金を出してくれてたのに、ヒビヤさんがお小遣い制にしちゃったから苦労してるんじゃないですか!!」
「後見人に甘えるな!! お前はもうちょっと計画的なお金の使い方ってのを学べ、この馬鹿!!」
喧々諤々。
ある意味では以前よりも親密になった証、と評するべきであろうか。共同生活が月単位ともなれば互いに遠慮も薄れ始めてくるもので、こうした意見のぶつかり合いも珍しくなくなってきていた。
当初こそあまりの騒がしさに注意する者もいはしたが、今では隣どころか二つ隣の住人までもが慣れてしまう程度には二人の口喧嘩もいつものことと化している。むしろ何もなければ、『昨日はずいぶん静かだったけど、どうかした?』などと冗談交じりに心配される始末だ。近頃はルーですら見向きもしない。
「もうっ! そんなこと言うなら、ヒビヤさんにはこの本貸してあげませんからね!」
「…別にいいけどな!!」
「あ、今ちょっとだけ間がありました! 絶対、ありましたよね!?」
日々也が一瞬、言葉に詰まる。意外にもこの手の諍いに関しては彼が常に優勢、というわけでもなかった。
一応は二人ともが対等な関係として相手を尊重し合ってはいるものの、やはり立場としては日々也の方が若干弱い。何せ彼は居候。しかも扱いとしてはリリアの召喚獣だ。住む場所も生活必需品も、その他の雑多な物まで貸し与えてもらっている以上、強気で当たるのは土台無理な話である。
加えて、日々也は自らが小言の多い性格であることを自覚していた。リリアの今後を思ってのこととはいえ、かつて妹にも指摘された経験があるほどだ。あまり厳しくしすぎるのもいかがなものかという考えから、最終的には彼が降参して軽い叱責で済ませる展開が多い。
しかし、今回の口論は予想外の形で終わりを迎えた。
「大体、ヒビヤさんは………へ、へくしっ」
小さなくしゃみ。次いでリリアが体を抱えて震えだしたのを見て、日々也はため息とともに怒りを吐き出した。
雨に濡れた少女をいつまでも玄関先に立たせておくのはよろしくない。
冷静さを取り戻した日々也は頭を掻き、部屋の奥へと引っ込みながら指示を飛ばす。
「とりあえず風呂を沸かしてやるから、さっさと入って温まってこい。それと、後片付けが大変だから今の状態で部屋の中をうろつくなよ。あぁ、いや、待てよ。先にタオルでも持ってきてやった方がいいか? あとは着替え………下着くらいは自分で用意させるべきだよな……?」
自分がすべきことを呟いて確認しつつ、風呂場へと向かう日々也。そんな彼にリリアが待ったをかけた。
「あ! ヒビヤさん、その前に一ついいですか?」
「………何だよ?」
面倒くさそうに日々也が振り向いた先にあったのは、リリアの真剣な眼差し。
彼女はまるで勲章を授与する貴族か王族のように恭しく、ゆっくりと手にした紙袋を差し出し、
「本が濡れると困るんで、リビングにでも置いといてもらえますか?」
直後。
彼女の頭上に本日二度目の手刀が落ちてきたのは言うまでもない。