2-19 余分のお話①
「ぶはっ!! はぁっ、はぁっ、はぁっ……………」
あまりの疲労感に、日々也はたまらず膝を突く。
倒れ伏したまま動かないレオを視認して、煙幕代わりの魔素が霧散していく中で彼の緊張の糸もようやくほぐれ始めていた。
何度『死んだ』と思ったか分からない。
白刃が目の前まで迫ってきたときなど、本当にもう駄目だと覚悟したほどだ。
それでも今こうして生きていられるのは、ひとえに自分の考えを完璧に理解してくれたリリアの尽力のたまものである。
そして、何よりも忘れてはいけないのが、
「ありがとうな。おかげで助かったよ」
足下にすり寄ってきたルーの頭を、日々也は優しく撫でる。
本当に頼りになる召喚獣仲間だ。この小さな同僚がいなければ初撃でやられていたかもしれないし、最後に決めきることもできなかっただろう。日々也からしてみれば、まさしく幸運の運び手だった。
「ヒビヤさん! ルーちゃん! 大丈夫ですか!?」
「ん、何とかな」
「キュウ」
魔素をかき分け、心配そうに近づいてくるリリアに日々也は脱力しながら答え、ルーも同意するように鳴き声を上げた。その一人と一匹の様子に、たいした怪我はしていなさそうだと少女は胸をなで下ろす。
「もう! あんまり無茶しないで下さいよ! 私、ずっとヒヤヒヤしてたんですからね!?」
「悪かったよ。それにしても、僕のやってほしいことがよく分かったな」
「レオさんの魔法の正体を見破ってくれたおかげですよ。あの状況で私ができるのは目くらましくらいでしたしね。あ! あと、魔導書! 何で持ってるの教えてくれなかったんですか!?」
「文句ならカミルに言ってくれ。情報が漏れるかもしれないからって、秘密にしておくよう提案してきたのはあいつだからな」
差し出された手に捕まって立ち上がりつつ、ヒビヤは怒り心頭のリリアに弁明する。
そう、これまでの行動は全てカミルの作戦であった。
攫われた子どもたちと魔導書。どちらがレオにとって重要なのかはさすがの彼でも判然としなかったため、一所に纏めておくのを避け、隠し持てる魔導書だけを日々也に安全圏まで運ばせる算段だったのだ。もっとも、内緒にしていた子どもたちを追ってくるだろうという読みも、あわよくば自分が囮になろうという狙いも、最後の最後で外してしまったわけだが。
「それで、これからどうします?」
「憲兵に連絡………はできないから、やっぱり予定通りに……………」
「ふざ、っけんじゃ…ねぇぞ。ガキどもぉ………」
瞬間、投げかけられた声に二人の体が強張る。見れば、そこにあったのは先程まで倒れていたはずのレオが剣を構える姿であった。
日々也たちの間に緊張が走る。あり得ない。あり得るわけがない。日々也の『七条の矢』は確かにその全てがレオの体を打ち据えていた。いくら護身用の魔法であっても、受けたダメージは相当なもの。本来ならこうして戦いを続けるどころか、意識を取り戻すことすらできないはずなのだ。
事実、あの攻撃が本当に何の備えもない状態で当たっていたのなら、レオとて無事では済まなかっただろう。
しかし、さして効力が高くもないごくごく単純な『防護魔法』。衝撃の直前に発動したそれが、かろうじて彼の余力を守り抜いていた。
ただ、日々也たちにとっての問題は理由ではなく、レオが未だ戦闘を継続できる状況にある。相手は既に満身創痍。対して彼らはほぼ無傷ではあれど、もう切れる手札は持っていない。日々也はストックしておいた魔法を全て使い果たし、リリアは無理な召喚魔法を行使した影響で魔力が底を尽きかけていた。
思考を巡らす暇すらない。剣が天高く掲げられる様に、恐怖で足がすくむ。
そして――――――――――、
「いやいやいや、とっくに勝負はついただろう? これ以上はいくら何でも蛇足というものさ」
切っ先がピタリと止まる。同時に聞こえてきたのは、地面を叩く靴音と緊迫した空気にそぐわない気の抜けるような口調。
間違えたくても間違えられない。どことなく人を苛つかせる特徴を持ったその主は、
「理事長、さん?」
「やぁやぁ、お待たせして申し訳ない。迎えに来たよ、二人とも」
右手で何かをつまむ動作をとりながら、もう一方の手を軽く振って近づいてくるハクミライト魔法学園の理事長。カムラ・アルベルンであった。
「……さすがにちょっと遅すぎるんじゃないのか? 理事長」
「おや、手厳しい。一応、ミィヤ君に連絡を受けてから急いで駆けつけた方だと自負しているんだけれどねぇ」
驚愕と混乱の中、日々也と理事長だけが訳知り顔で言葉を交わす。
これもまたカミルの作戦。いや、唯一にして最大の保険であった。
もしも彼の予測が外れた場合、そもそもの前提から違っていてレオが日々也たちを追っていった場合。まさしく今、彼らが置かれている状況に陥るようなことがあれば、自分たちを追跡する者がいないのを確認し次第、ミィヤの魔法機を使って理事長に救援を要請する手筈になっていたのだ。
あまりにも単純にしておざなり。間に合う保証もない不安要素だらけの策ではあったが、それが最後の最後で日々也たちを助ける光明となってくれていた。
「カ、カムラ………アルベルン……………」
「んん? 何だい君は? ずいぶんと気安いじゃないか。人攫いなんて下賤な輩の分際で」
自らの名を呼ばれ、理事長が振り向く。途端、レオの全身から血の気が引いた。
理事長の笑顔は崩れない。しかし、その瞳の奥に宿るのは静かな怒り。絶対的かつ圧倒的な存在が自分に敵意を向けてくる感覚は背筋が凍るという表現ではまだ生ぬるく、まるで全身を氷で貫かれたかのように体の芯から冷えていく。
「なっ、何でっ!!」
「うん?」
「何でっ、俺の魔法がっ!! どうやってっ!?」
レオがわめき散らす度に唾が飛ぶ。半狂乱になって何を伝えたいのか判然としない発言の端々から意図を読み取り、理事長は得心が行ったように『あぁ』と軽く頷き、
「簡単なことさ。君の視界の中で私が剣を受け止めている。ただ、それだけの話だよ」
「……………………………………………………はぁ?」
茫然自失、とはこのことを言うのだろう。もうレオにはわけが分からなかった。
他人の視界がどこをどう捉えているか認識できるとでも?
自らの立ち位置を、距離を、角度を、寸分違わず計算したのか?
攻撃のタイミングを見計らって、指先で剣を掴むことが可能だと?
「は、はは、は……馬鹿げてる………でたらめだ…嘘に、決まってる……………」
引きつった笑いとともに、レオはぶつぶつと呟き続ける。
そも、今回の誘拐計画はこの街で行われる予定ではなかった。
理由は至極単純。カムラ・アルベルンという埒外の脅威が存在していたからだ。
だが、レオは上層部の反対を押し切り、効率優先で半ば強引に作戦を実行に移していた。
もちろん無策で挑んでなどはいない。入念に準備を整え、いつでも切り離せる尻尾を用意し、彼らにも力を貸し与えた。万が一カムラ・アルベルンと対峙する事態になったとしても、魔導書から得た魔法があればどうとでもなる。そう考えていた。
全ては、強力な魔法を体得したという全能感と優越感ゆえに。
しかし、
「でたらめ? 嘘? まさかだろう。この程度できて当然さ」
そう言うと、理事長は日々也の懐からこぼれ落ちた魔導書を拾い上げ、
「なんたって、こいつの著者は私なんだから」
その自信の源すら、いとも容易く踏み潰した。
「……………は、へ?」
恐怖で足が震える。
涙で視界がにじむ。
途端にレオの魔法の効力が切れ、思わず手放した剣が地面に当たって甲高い音を立てた。
今更になって、彼はなぜ上がカムラ・アルベルンとの接触を禁じていたかを理解する。
想像以上の、いや、想像すらできないほどの化け物。目の前にいる男こそがそれだったのだ。
組織の禁則事項を破ってしまった以上、手ぶらで帰ることはできない。少なくとも、この場にいる全員を始末する必要がある。しかし、自らの持てる最大の力。その原点が相手となれば、勝つどころか逃げられる可能性すら絶無であるのは火を見るよりも明らか。
詰まるところ、レオは既に詰んでいた。
そんな男へ、理事長はさらに追い打ちをかける。
「ははは、そこまで怯えなくてもいいじゃないか。演技にしても過剰が過ぎる。私を騙そうったってそうはいかないよ。あるんだろう? とびっきりの隠し球が」
「か、くし……だま…?」
放心状態のレオは、ただただ理事長が口にした言葉を繰り返す。
この男は一体何を言っているんだ? もしあるのならば、とっくの昔に使っている。
「おいおい、とぼけるのはよしたまえ。君の使っていた魔法、『次元減算』は思い出すだけでも私が赤面してしまうほどの失敗作だ。あんなものが切り札、なんてことはないだろう?」
もはや二の句も告げられなかった。
空間に作用するなど、伝説として語られてもおかしくないほどの魔法だ。だからこそ、習得できたことがレオの自信にも繋がっていた。
だというのに、この男はあっさりとそれを失敗作だと断じてしまえるのか。
「何を呆けているんだい? ちょっと考えれば分かることじゃないか。視界を媒介にしなくちゃいけない上に、わざわざ武器を振り回す必要があるなんて回りくどすぎる。せっかく空間に干渉するんだ、せめてノータイム、ノーモーションで効果を発揮するくらいじゃあないとね。こんな風に」
そう言って、理事長が掲げたのは二本の脚。
その見慣れた形は、裾は、靴は、間違いなく――――――――――、
「あ、ああぁ、あああ脚が、脚がああぁぁぁぁ!!??」
尻餅をついたレオが地面を転げ回る。彼は既に完全なパニック状態に陥っていた。
痛みはない。出血もない。斬られた感覚も何もない。むしろ、理事長の手が当たっている感触とともに、自らの足先は脳の指示に従って正常に動いている。
肉体が明らかな異常を異常と認識しないことがたまらなく恐ろしい。
断面など、怖くて見る勇気も湧いてこない。
「そんなに驚くことはないだろう? ただ、君の脛から先の空間を私の手元に引き寄せただけなんだから。心配しなくても、血だってちゃんと通って………」
「あ、あのう…理事長さん? いくら何でもやり過ぎなんじゃ……………」
おずおずと、リリアが片手を上げて意見する。
レオは先程まで自分たちを殺そうとしていた男ではあるが、さすがにここまでされるのは見ていられない。何より、本人から離れた位置でバタバタともがき続ける脚は傍目にも気持ち悪かった。
それを察したのか、理事長は少女へと優しく微笑みかけ、
「ふむ。確かにあまり錯乱されても面倒だし、仕置きはここまでにしておこうか。彼からは聞きたいことが山ほどあるしね。そっちの君も構わないかい?」
「申し訳ありませんが、ご遠慮いただきたいですね」
突如、聞き慣れない男の声が日々也たちの耳に届いた。