2-17 予想外
どう考えても当たるはずのない攻撃。届くはずのない刃を前に、唯一反応したのは意外にもルーであった。
リリアの服を引っ張り、日々也を巻き込む形で彼女は自らの召喚者と召喚獣仲間を地面に倒れ込ませる。直後、回る視界の中、彼らの頭上から破壊音が降り注いだ。
何が起こったのかと音源へ目を向ければ、すぐ近くの民家の壁面には一筋の傷跡。まるで鋭利な刃物で切り裂かれたような痕跡は、レオの居合いが如き動作と無関係でないだろうことは容易に想像がついた。
「おっと、勘がいいな。それとも運がいいのか? 確か、カーバンクルの宝石は幸運を呼ぶって話だもんなぁ」
言葉とともにレオは上段の構えをとり、真っ直ぐ剣を振り下ろす。
何かを考える暇もなく、咄嗟に横合いの物陰に日々也たちが飛び込んだ刹那、彼らの倒れていた場所に切れ込みが入った。
その光景にぞっとする。もし少しでも対応が遅れていれば、切断されていたのは日々也たちの体の方であっただろう。
「くっそ、何なんだ今の!? あんな魔法があるなんて聞いてないぞ!」
「た、多分、魔導書を読み解いて習得した魔法だと思います。でも、だとしたら私たちだけじゃどうしようも………」
「はぁ!? 『無生物を屈折させる魔法』じゃなかったのか!?」
「ははは、お勉強が足りてないぞー。魔導書に記されてる魔法が、たった一種類なわけないだろう。そんな薄っぺらなものでも中身の情報量は膨大なんだ。しかも、空間を操るなんて強力な魔法について載ってるときてる。君らも魔法使いなら、どれだけ貴重な品か理解できるはずだ。な? 分かったら、さっさと返してくれ」
笑顔を湛え、レオが手を差し出す。
『抵抗するだけ無駄なんだから、黙って渡せ』。やたらと爽やかな表情は、所作は、言外にそう語っていた。
完全に相手をなめきった態度。それも、自らの強さに裏打ちされた自信からではなく、格下だからと小馬鹿にした考えからくるもの。
確かに実力には彼我の差があるのかもしれない。だとしても、レオの言動は日々也の神経を逆なでするのに十分だった。
「……いいのかよ? こんなところで僕たちなんかにかまけてて。早く追いかけないと、せっかく攫った子どもたちを捕まえなおせなくなるんじゃないのか?」
「うん? 心配しなくても大丈夫だぞ。別に、あの子たちじゃなきゃ駄目なんてことはないからな。必要があるなら他から『調達』してくるだけさ。ただ、そいつは一点物でね。何としてでも回収しておかないと色々まずいんだよ」
瞬間、日々也は怒りのあまり頭の血管が切れたかと思った。
誘拐した子どもたちを道具のように語り、あまつさえ自分の手の中にある薄汚れた手帳などよりも無価値だと簡単に言ってのけるレオの高慢さが、そして何より、サクラたちである必要などなかったと、違う誰かでも構わなかったと口にする無神経さが、無性に腹立たしい。
仮に、彼女たちでなければならない理由があったのなら、許すとまでは行かないまでも多少の納得はしたかもしれない。
だが、この男は違う。
都合が良かったから、攫いやすかったから。たったそれだけのことでサクラや他の子どもたちを誘拐し、檻の中へと閉じ込めた。
どれほど恐ろしかったことだろう。どれほど心細かったことだろう。ミィヤですらあれほど怯えていたのだ。サクラたちが心に負った傷の深さは計り知れない。
自分の大切な弟子にそんな思いをさせておいて、これっぽっちも罪の意識を感じている様子のないレオに対し義憤の感情がわき上がってくる。
しかし、ここで激情に身を任せて突撃するわけにはいかない。あの距離を無視した攻撃を前にして、その行動はあまりにも無謀が過ぎる。今の日々也にできるのは、この状況を打破する方法を考えるべきだと自らを諫め、飛び出してしまいそうになる体を押さえつけるために奥歯をかみしめることくらいだった。
とはいえ、相手もそう甘くはない。三度剣が振るわれ、日々也たちが盾にしている木箱がすさまじい音を立てて切り裂かれる。
耳元で巻き起こされた破砕音。飛び散る木片と、道路にぶちまけられた箱の中の雑多な備品。それらが否応なく彼らの恐怖心をかき立てて、思考力を削いでいく。
「おーい、いつまでそうしてるつもりだー? こっちは子どもの駄々に構ってられるほど暇じゃないんだぞー? ま、八つ裂きにされたいっていうんなら付き合ってやらなくもないけどなー」
「…っ、ま、魔導書を渡したとして、レオさんが私たちを見逃す保証はどこにもないじゃないですか!」
「おっと、こりゃ正論。確かにそっちからすれば、そう考えるのは当然だわな。いやぁ、参った参った」
まるで、一本とられたとでも言いたげにレオが軽快に笑う。だが、それも決して長くは続かなかった。
ひとしきり笑い終えた彼は、やがて疲れたようにうつむき、ため息をつく。
そして、
「つか、よく分かってんじゃん」
次に顔を上げたとき、そこに張り付いていたのは邪悪な笑みであった。
「全く、面倒なことしてくれたもんだよホント。せめて、あのハゲが全部悪かったって勘違いしたまま満足しててくれれば、もうちょっとは穏便に済ませられたってのにさぁ。計画をメチャクチャにするわ、魔導書を盗み出すわ。あげく、俺が裏で糸引いてたってことまで感づくとか。このまま帰ったら組織から大目玉食らうじゃんか」
「………組織?」
「あ、いっけね。つい口が滑っちまった。ま、いいか。どうせお前らも、あっちのガキどもも、みーんな口封じするつもりだし。つうわけで、遊びは終わり。時間もあんまないし、とっとと片付けさせてもらうわ」
そう吐き捨てると、レオは日々也たちに向かってどんどん近づいていく。先の宣言通り、もはやその場を動かないなどという縛りを己に課す気はないらしい。もとよりただの戯れ、きまぐれのおふざけでしかなかったのだ。むしろ、今までよく指示に従ってくれていたものだと言えるだろう。
だが、それを止めることはすなわち日々也たちへの死刑宣告と同義でもある。一介の高校生でしかない彼らが武術を修めた憲兵とまともに近接戦闘を行えば勝てる可能性は皆無だ。
つまりは――――――――――、
(絶対に、あいつを近づけさせるわけにはいかない………!)
実際のところは全速力で逃げ出してしまいたいのが本音ではある。しかし、彼らがいるのは路地裏すらない一本道。そんな場所で、射程距離の判然としない魔法を前に背を向けるのは自殺行為に等しい。
ならば、この窮地を脱するには戦うしかない。そして、遠距離ならば魔法の撃ち合いに持ち込められる。詳細が不明ではあれど、少なくとも二度は回避した実績もある。何より、これまでのことからレオの攻撃が剣の軌跡と連動しているのは確実だ。
それだけでも分かっていれば、やりようはある。
「どうしても返してほしいんだな? だったら、こんな物くれてやるよ!」
日々也の大声とともに、手のひら大の物体が宙を舞った。瞬間、レオの視線が反射的に放り投げられた何かへと吸い寄せられる。その僅かな隙を見逃さず、少年は物陰から飛び出して倒すべき敵へと魔法陣を向けた。
「『七条の矢』!」
日々也の叫びに呼応し、七つの光り輝く矢が射出される。
完璧に虚を突いた一撃。並大抵の者であれば反応する暇すらなく、無防備に晒された肉体を打ち据えるだろう距離と速度だった。
しかし、
「なめるなよ、ガキがぁっ!!」
眼球を動かしただけだった。そんな少しの動作だけでレオは迫り来る攻撃の軌道を全て予測し、ことごとくを斬り伏せる。
一つ一つが大の大人を昏倒させるに十分な威力を持った魔法の矢だ。どれだけ上手くいなしたところで、腕への衝撃はかなりのものだろう。だというのに、レオはよろけることもなく流れるように剣を腰だめに構え、振るう。
同時に、触れてもいない切っ先に沿って建物の壁面が削られ始めた。
(来た………!)
それに合わせ、日々也は見えない剣閃に手を伸ばす。
『七条の矢』が通じない程度は予想の上。本当の狙いは、『流転回帰』でレオの魔法を奪うことだ。
いくら正体が分からなくとも関係ない。逆に利用してやればいい。そう考えての行動だった。
日々也とレオを結ぶ直線上に剣先が近づくにつれて壁に刻まれる傷跡が遠のいていき、やがて見えなくなる。
もはや音すら聞こえないが、遙か後方ではなおも破壊が続いているのだろうか。
そんな疑問が少年の脳裏をかすめた次の瞬間、剣の向きが日々也と重なりだした。
これでいい。既に魔法陣は展開している。あとはレオの魔法がかき消えると同時にもう一度『七条の矢』を撃つなり、吸収した魔法を叩き返してやるなりするだけだ。
間近に迫った勝利への確信。思わず日々也の口角もかすかに上がり――――――――――、
彼の手のひらが、ブツリと裂けた。
(……………え?)
何が起こったのか分からなかった。あるいは、脳が理解を拒否したのかもしれない。
どうあれ純然たる事実を述べるなら、『流転回帰』は発動しなかった。対してレオの魔法は日々也の展開した魔法陣を通り抜け、彼の差し出した手の皮に、肉に食い込んでいく。
痛みが電気信号として伝わり、血が噴き出す直前、日々也の頭によぎったのは『流転回帰』が持つ一つの特性。魔法を吸収するためには対象の魔力に直接触れる必要がある、ということだった。
例えば炎の魔法があったとしよう。それに触れられれば、『流転回帰』は問題なく効力を発揮する。だが、その魔法によって引き起こされた現象、焼け残った燃えかすに魔法陣をいくらかざしたところで反応はしない。
すなわち、
(魔力が通ってない。斬撃による破壊は、完結した魔法が引き起こした結果なのか!)
コンマ数秒にも満たない短い時間の中で、日々也はようやくその答えにたどり着く。とはいえ、全てが遅すぎた。極限にまで研ぎ澄まされた感覚が体感時間を引き延ばし、ゆっくり、ゆっくりと、不可視の刃が肉体の内側へと滑り込んでくる。
「『拘束』!!」
それを止めたのはリリアだった。
彼女の叫びに呼応して現れた魔法の鎖がレオの腕を絡め取り、その動きを阻害する。
生まれた猶予はほんの一瞬。しかし、レオが力尽くでいましめを解く前に日々也が剣の軌道上から逃れるには十分すぎるほどであった。
横合いへと跳びすさり、数度転がりながらもすぐさま体勢を立て直す日々也。直後、先程投げ上げた通信用魔法機が地面に落ち、固い音を立てたのが耳に届いた。
聞こえる。聞こえた。
生きている。生き残った。
自分が今も命を繋いでいることに心底安堵する。と、同時に、すさまじいまでの恐怖が彼の心に襲ってきた。
「ヒビヤさん! 大丈夫ですか!?」
「あ、あぁ……」
駆け寄ってくるリリアに日々也は生返事を返す。
死んでいた。判断を誤った。リリアの機転がなければ、腕どころか首まで斬り落とされていただろう。手のひらからしたたる血液が、あり得たかもしれない可能性をいやというほど教えてくる。
そしてふと、自分たちが無防備にもレオの前に体を晒していることに気がついた。
怯えている場合ではない。早く身を隠さなくては。そう思い、日々也は慌てて顔を上げる。
だが、意外にもレオに動きはなかった。
(何だ? 今の魔法陣は?)
彼もまた、日々也と同じく予想外の事態に動揺していたのだ。
日々也たちにとってレオの魔法が正体不明なら、レオにとっても日々也の魔法は同じく正体不明。企みが失敗に終わったとしても、予測のつかない何かをしようとしたというだけで、それは十分な脅威になり得る。たった一つの選択ミスが『死』に直結することを、奇しくも目の前の少年が身をもって証明して見せたように。だからこそ、レオは迂闊な行動をとれないでいた。
近づいて戦うべきか、距離を保ったまま戦うべきか。熟考の末、彼が選んだのは再びその場で剣を構えること。少なくとも、日々也の魔法は自らの魔法に対して有効でないと判明している。ならばと、安全策をとった結果であった。
戦闘のプロであるがゆえの錯誤。日々也の失敗がレオの警戒心を強め、逆に僅かながらも彼らの勝機を作り出す。
(……………まだ、終わりってわけじゃないみたいだな)
不動のレオの姿から現在の状況を直感し、日々也は血の滲む手を握りしめた。
痛みがパニックを起こしそうになる精神を叱咤し、二度、三度と繰り返した深呼吸がざわめく心を落ち着かせる。
もう間違えたりはしない。そう決意し、日々也は倒すべき敵を睨みつけた。