2-9 温和と冷徹
「…………………………は?」
何が起こったのか、日々也は即座に理解することができなかった。
音の発信源をたどる彼の目に飛び込んできたのは、先程まで自分とリリアが立っていた場所に振り下ろされた路地裏から伸びる鉄パイプ。舗装された道にできた白い傷が、その一撃に一切の躊躇がなかったことを示している。もしもカミルが直前で助けていなければ、辺りは血で染まっていたことだろう。
明確な殺意。
アレウムと戦っていたときにはなかったものをそこに感じ取り、日々也の背中に嫌な汗が流れた。
怒りとも、恨みとも違う。ある意味正当な感情であったあれらではなく、相手がどうなっても構わないという気持ちの悪くなるような害意に息が詰まる。
凶器を持つ人物の姿は未だ見えないが、こんな状況で襲ってくる者の心当たりなど一つしかない。
すなわち、ミィヤたちを襲った犯人だと日々也は直感する。そうして、事ここに至ってようやく気がついた。自らが、どこか物事を軽く考えていたことに。
それはある意味で、アレウムの一件が全て丸く収まったことの弊害であったとも言えるだろう。下手に巻き込まれた事件を解決したせいで、『今回もまたどうにかなる』と高をくくっていた。その想像がどれほど甘いものであるのかが視覚情報を通して彼の脳に直接たたき込まれていく。
今、自分たちが追っているのは犯罪に手を染めることを厭わない人間なのだと、いざとなれば殺人すら平気で行える悪人なのだと思い知らされる。
「ああ、よかった。やっと来てくれた」
しかし、こんな事態に陥ってなおカミルの声音に変化はなかった。まるで友人に話しかけているかのごとく落ち着いた様子で、あまつさえ安堵の気持ちすら滲ませながら彼の口から言葉が紡がれる。
「誰だって、自分のこと探られるのは嫌だもんね。後ろめたいことしてる人なら尚更。だから、わざとそっちの網に引っかかるような行動してみたんだけど、うまく釣れたみたいで安心したよ」
「……………ムカつくガキだな、テメェ」
少年の挑発ともとれる発言に、物陰に隠れていた人物がようやく姿を見せた。
現れたのは三人の男。誰も彼もが服の上からでも分かるほど筋肉質であり、手には先程日々也たちに殴りかかる際に使った鉄パイプを始めとし、角材などの鈍器を握りしめている。
「『作戦成功』、みたいに言ってるけどよぉ、お前ごときが俺らに敵うと思ってんのか? あぁ?」
「つぅか、女もいるじゃねぇか。ついでに連れて帰るか?」
「そりゃあ、いい。多少はカネになるだろうさ」
ゲラゲラと笑いながら下卑た視線をリリアへ向ける男たち。そのあまりの醜悪さに少女の身がすくむ。それでも、彼女は後ずさりしないよう足に力を込めると男たちを睨みつけ、
「そ、そっちこそ、状況が分かってるんですか?」
「あ?」
「いくら人通りが少なくても、周りには民家がいくつも建ってるんですよ? こんな場所で騒ぎを起こしたら、必ず誰かが聞きつけて憲兵さんに連絡してくれるはずです。そうなったら困るのはあなたたちでしょう?」
「何かと思えばそんなことかよ。心配しなくても、ちゃあんと手は打ってあるに決まってんだろ。ほら、いくら何でも静かすぎると思わねぇか?」
「!」
悪漢の指摘に、リリアは周りを見渡しハッとする。
確かにおかしい。夜も更けてきているとはいえ、今はまだ人が出歩いているくらいの時間帯のはずだ。にもかかわらず、周囲には人影がまるでない。
いや、それどころか物音一つ聞こえてこない。
付近の家々に明かりは灯っているというのに、まるで自分たちだけが世界から隔絶されてしまったかのように辺りは異様な雰囲気に包まれていた。
「『人払い』………それに、『音消し』の魔法!?」
「そういうこった。ま、詳しいことは俺たちも知らねぇがな」
凶器を片手に嘲る男たちを前にし、リリアはまずいことになったと歯がみする。
文字通り一定の範囲から人を遠ざける『人払い』と、一切の音を遮断する『音消し』。人知れず悪事を働く上で、これほど相性のいい組み合わせもないだろう。
無論、リリアも相手が魔法を使えることくらいは予測していた。仮にも魔法使いであるミィヤを誘拐しているのだ。多少なりとも精通しているのはむしろ当然と言える。だが、それはもっと直接的なものだと彼女は考えていた。こんな搦め手を、ここまで用意周到に準備してくるのは予想外だ。
(『七条の矢』を使えば………いえ、この位置だとカミルさんに当たるかも……………)
できる限り冷静に現状を分析し、自らの持ちうる力で最大限できることを模索する。しかし、未だ未熟なリリアの魔法がどこまで通用するかは定かではない。
それでも動かねばと、彼女は今の状況で最も効果的な選択肢を頭の中で検索し、
「逃げるぞ!」
手に持った杖を構えようとしたところで、日々也に腕を捕まれた。
それは、この中で魔法に慣れ親しんだ時間が一番短く、なおかつまともに戦う手段のない彼だからこそ真っ先に思い浮かんだ解答。そして、おそらくは最も正しい行動であった。
「カミルさん! 行きましょう!」
「逃がすわけねぇだろうがよぉっ!!」
ほんの僅かな間だけ呆気にとられたリリアではあったが、すぐさまその正当性を理解してカミルにも声をかける。しかし、些か遅きに失した。既に先頭に立つ男の腕は上段に構えられ、今すぐにでもカミルの頭目掛けて振り下ろせる状態となっている。
それに対し、帽子の少年に動きはない。突然のことに体が追いついていないのか、恐怖に固まってしまっているのか、自身の頭部へと迫る凶器を見上げることすらせず、ただただ突っ立っているばかりだ。
一瞬の後。鉄パイプが頭蓋を砕き、内から溢れだした血潮が白い帽子を赤く染める。
悪ければ即死、よくても意識不明。どちらにせよ、これ以上カミルがこの一件に関わるなどできるはずもなく、次に目を覚ますことがあったとして、今まで通りの生活を送れるかどうかは定かではないだろう。
――――――――――今、この場にいる人間の誰もがそう思っていた。
「ちょっと、静かにしてもらえない?」
ぱかん、と軽い音が鳴る。
直後、うめき声すら上げず、固い地面に力なくくずおれたのはカミルに殴りかかった悪漢の方であった。
「……………………………………………………あ?」
間の抜けた声が誰かの口から漏れる。日々也のものだったのか、残った悪漢の内どちらかのものだったのか、はたまたリリアのものだったのか。それすらも分からないほどに全員が混乱していた。
カミルは特段おかしな動きをしてはいない。何か妙な魔法を使ったというわけでもない。ただ相手の腕に手を添えて攻撃の軌道をずらし、近づいてくる勢いを利用して顎に掌底を食らわせた、だけである。
言葉にしてしまえば、あまりにも簡単で単純な動作。しかし、ごく普通の一般人である日々也ですら目で追えていたはずなのに、流れるように一切の無駄なく行われた一連の行動はあまりにも自然で、静謐で、流麗で、一切の反応を許さなかった。
「テ、メェッ! 何しやがる!?」
仲間が昏倒させられたことに激昂し、男の一人が声を荒げる。もしかすると、それは動揺している自分を鼓舞するための虚勢であったのかもしれない。だが、カミルはそんなことを意にも介さず日々也たちの方へと振り返り、
「二人とも、危ないから下がっててね。あぁ、あとルーちゃんのことも頼めるかな?」
「え? あ、はい………」
いつの間にか少年の頭上から降りてきていたルーを抱え上げながら、ようやくの思いで答えるリリア。その様子を眺めるカミルの表情は普段通りの優しさに満ちあふれたものだ。
つい先程、大の男の意識を奪ったのが嘘であるかのように。今この瞬間にも、流血沙汰に発展しかねない状況が何かの間違いであるかのように。カミル・エンバートという温和な少年が纏う雰囲気は、恐ろしいまでにいつもと変わらない。
「さて、と」
そんな彼が軽い口調とともに視線を前方に戻す。途端、男たちの肩がビクリと震えた。
睨めつけられただけで、いや、もっと前から意思に反して体が動かなくなっていた。カミルがリリアに話しかけるために自分たちを視界から外していた間でさえ、絶好の機会であったはずなのに襲いかかることができなかったほどに。
「今、それなりに機嫌が悪いんだよね、ボク。だからさ……………」
舗装された道路を竹刀袋の先端で叩いて苛立ちを表現しながら、カミルはそこで暫し言葉を区切る。
そして、
「素直にミィヤたちの居場所を教えるなら良し、そうじゃないなら痛い目に遭ってもらうけど………どっちがいい?」
「ッ!! なめてんじゃねぇぞ、クソガキがぁっ!!」
続く発言に、とうとう男たちの怒りが限界を迎えた。
仲間がやられたことなど忘我の彼方へと消え去り、見下した態度の少年を痛めつけようと二人がかりで容赦なく手にした鈍器を振り回す。
「カミルさん、危な………ぃ?」
それを見て警告を発するリリア。しかし、彼女の声は徐々に小さくなっていき、最終的には疑問符が付くに至った。
やたら滅多に迫り来る攻撃の数々。そのことごとくが、カミルを全く捕らえられなかったからである。
相手に合わせて頭をそらし、体幹をずらし、足を動かす。まさしく最小限の動作で行われる回避行動は、まるで武器の方からカミルを躱しているようでもあり、ともすればこれ以上ないほどに洗練された殺陣でも披露している風でさえあった。
あまりにも常人離れした芸当。だが、何よりも異常なのは、二人の男を日々也たちに近づかせまいとする立ち回りだ。ただ動きを予測するだけではない。意識を自らに引きつけ、誘導する。はたして、実践しようと思えばどれほど困難なことであるか。
それをいとも簡単に成し遂げるカミルは、やがて竹刀袋の口を開いて中のものを取り出した。
その手に握られていたのは一振りの刀。決して鞘から抜けないよう、鯉口に幾重にも布が巻き付けられた一刀。
予想だにしていなかった武器の出現に、さすがの悪漢たちも狼狽える。いくら相手が子どもで、なおかつ刀の刃が封じられていたとしても、自分たちの持つ急ごしらえの獲物とは根本から違う、まさしく人を害する目的で作られた凶器を前にして怯むなと言う方が無理である。
だとしても、彼らの見せた一瞬の隙はあまりにも致命的すぎた。
「げっ、ぅ………」
「がっ!?」
瞬きをする間もなく、カミルは手前にいた男の鳩尾を刀で突き上げ、勢いそのままにもう一人の人中に拳をたたき込む。
的確なまでに急所を狙った一撃。激痛と呼吸困難から、男たちはなすすべもなく地面へと倒れ伏し――――――――――、
「あっ、しまった」
そうになったところを、襟首を掴んで止められた。一人は完全に伸びてしまっていたが、人中を殴られた男はかろうじて意識を保っているようで、顔面を押さえてしきりに呻いている。
カミルはそんな男の顔を覗き込みながら、冷めた目つきで淡々と尋ねる。
「ミィヤたちの居場所、教えてくれる?」
「わ、分かった、教える、教えるから、もう……………」
完全に心が折れたのか、哀れなほどに怯えきった様子で男は涙を流す。
その姿を目にし、ほんの僅かに視線をそらしたカミルが何事かを口にしようとしたとき、
「おいおいおい、誰が勝手に喋っていいっつったよ?」
二人の頭上から、声が降り注いだ。