1-4 召喚獣の受難
思わず、日々也は間の抜けた声をこぼしていた。
『帰せない』? そのたった5音の内容を、脳が理解することを拒む。頭の中が真っ白になり、目の前は逆に黒く染まっていく。
「………待て。待てよ! 帰せないって、どういうことだよ!」
掴みかからんばかりの勢いで日々也が詰め寄る。それに対し、リリアは両手を振りながら、
「え、ええと……召喚魔法は本来、契約済みのモンスターさんが異世界のどこにいても見つけ出してこっちの世界に呼び出したり、逆にモンスターさんを元の世界に帰すことができるように元の世界との魔法的なパイプというか、命綱のようなものを形成するんです。でも、今のヒビヤさんはその命綱が切れてて………その、帰らせることができなく……て………」
「そ……んな…」
気分が悪くなってくる。もはや、まともに立っていることすらままならず、気がつけば日々也は頭を抱えてその場に膝をついていた。
「あ~、ええっと……その~………」
青ざめた表情でうなだれる日々也に何と言えばいいのか分からず、リリアはばつの悪さから視線をさまよわせるばかりだ。その間もうつむいたままの少年は独り言をつぶやき続ける。
「帰れない……帰れないって……ああ…明日香は大丈夫だろうか……ちゃんと栄養のある物を食べるだろうか……悪い虫がよってこないだろうか……」
そんな誰から見てもよくない精神状態の日々也に、リリアはしゃがみ込んで目線の高さを合わせると、慰めるように頭を優しくポンポンと叩き、
「と、とりあえず元気出してくださいよ。ね?」
「元気なんか出せるかよ……こんな悪夢みたいな………悪夢?」
恨み節の一つでも言ってやろうと口を開きかけた日々也だったが、ふと何かに気がついたようにその動きを止めた。唐突に様子が変わった少年に、リリアはいぶかしげな視線を向ける。
「どうかしましたか?」
「…悪夢……そうだ……そうだよ……」
リリアの質問には答えず、日々也が突如として立ち上がった。その瞳に何やら危ない光を宿した彼は力強く握りこぶしを作って断言する。
「そうだ! これは夢だ!」
「……………え?」
突拍子もない少年の発言に目を丸くするリリア。それを気にもかけず、日々也は一人で勝手に納得しては幾度も頷いている。完全に置いてきぼりの少女は呆然とそれを眺めるだけだ。
「そうだよな! 魔法だの何だの、そんなものあるわけないしな!」
「え!? あの、ちょっと!? 現実逃避しないでください!」
「現実逃避なんかしてない! むしろ、今の状況を現実と認めることこそが現実逃避だ!」
「えぇ………?」
自分の言葉を突っぱねて、『これは夢だ』と必死に自己暗示をかける日々也にさすがのリリアも呆れのこもった視線を向ける。そして、盛大にため息をつくと急に真剣な表情を作り、
「ヒビヤさん」
「うるさい。話しかけるな夢もしくは幻聴」
「そんなに今の状況が信じられないなら、私が現実だって証明してあげますよ」
かたくなに現状を認めようとしない少年へと、リリアの人差し指が突きつけられた。まるで、今すぐに目を覚まさせてやるとでも言いたげなその態度に日々也の眉がピクリと動く。
「ほほぅ? 面白いじゃないか。できるもんならやってみろ」
「ええ、いいですよ。それじゃあ、まずは目を瞑ってください」
「……こうか?」
意図の読めない指示だが、日々也は素直に従った。何をしようと現実であることの証明などできるはずがない。なぜなら、これは夢かそうでなければ幻覚なのだから。むしろ、この少女の行動は自分の考えを確固たるものとしてくれるに違いない。
そんな半ばやけくそな思いから、日々也はこの悪夢が否定される瞬間を待ち構える。
「よ~し、そのまま動かないでくださいね~」
「おい、一体なにを……」
『するつもりなんだ』と、日々也が続けようとした瞬間、
「えいっ!」
存外にかわいらしいかけ声が上がり、日々也の脳天に鈍い音とともに衝撃が走った。
「いったあああぁぁぁ!?」
あまりの激痛に頭部を押さえ、床の上を転げ回る日々也。涙をにじませた目を開いてみれば、明滅する視界の中に見えたのは握りしめた杖を剣道よろしく竹刀のように構えたリリアの姿であった。どうやら、あの堅そうな木の棒で殴打されたらしい。
人の頭を容赦なく殴りつけた少女は悶絶する日々也へと得意げに鼻を鳴らし、
「ほらほら! 痛いってことは、これは間違いなく現実ってことですよ!」
「それを分からせるためにわざわざその杖で殴る必要はなかったよな!? そもそも、目を瞑らせた意味はなんだったんだよ!?」
「殴る前によく言うじゃないですか。『目を瞑れ』、って」
「『歯を食いしばれ』、だろ!?」
「……あ!」
「どんな間違い方だ! いくら何でも無理がありすぎるだろ! あと、殴っておいて謝罪もなしか!? ちょっと、それ貸せ! 僕の痛みを思い知れ!」
「え? あっ! ちょっ! 止めてください! 暴力反対ですっ!!」
「先に暴力を振るったのはそっちだろっ!」
日々也に捕まれた杖を奪われまいと、リリアが必死の抵抗を試みる。目の前の少年の様子を見るに、殴られた痛みは彼女が想像していた以上のものだったらしいが、それを自身の頭で再現してもらうほどマゾヒストではない。
「止めてくださ……わわっ!」
「うわっ!」
そのまましばらく続いていた取っ組み合いは、リリアが床に散乱していた本を踏んづけたことによって突然の終わりを迎えた。
足を滑らせて体勢を崩したリリアに巻き込まれ、日々也ともども盛大な音を立てて倒れ伏す。
「痛たた……。ったく、急にこけるなよな………」
「うう………すいません……」
腕やら足やら、体中のあちこちをぶつけて文句をたれる日々也。どうやらリリアも同じ状態のようで、謝りながらも上手く立ち上がれないでいる。そうして二人が床の上で身もだえているさなか、部屋のドアがノックもされずに開かれたかと思うと、一人の少女が顔を覗かせた。
「ちょっと、リリアー? さっきから何を騒いで………」
そこまで言って、入り口に立つ少女がピタリと動きを止める。
自分の知り合いが見知らぬ男に押し倒されているように見える現場を目撃してしまったとき、人は一体どういう風に考えるだろうか?
部屋に入ってきた少女が口元を引きつらせ、悲鳴を上げるために息を深く吸い込むのを見ながら、日々也は先程ここが女子寮であると言われたのを思い出し、
(終わった………)
と思った。