1-34 逃走の果て
一体どれほどの時間が経ったのだろうか。
10分? 20分? 体感的にはとっくに1時間以上経過したように思えるが、さすがにそこまで経ってはいまい。何にせよ、たったの数分をここまで長く感じたのは日々也にとって初めてのことだった。
二人がお互いの意思を確認した直後から、まるでその思惑を打ち砕こうと躍起になったかのごとくアレウムの攻撃が目に見えて激しくなっていた。
何の前触れもなく飛び出してくる岩塊をしゃがみ、飛び越え、リリアの魔法で打ち落とすことで回避していく。今のところ、手や足に多少の擦り傷こそできているものの大きな怪我はしていない。
だが、確実に疲労は蓄積していた。
ただでさえ走りにくいというのに、遠回りせざるを得ないほどの猛攻や、いつ、どこから襲ってくるのか分からない緊張感が日々也たちから体力と気力を奪っていく。
気分は蜘蛛の巣に絡め取られた蝶と言ったところか。もがけばもがいただけ、あがけばあがいただけ状況が悪化していくような気がしてくる。とはいえ、抵抗しなかったからといって事態が好転するわけでもない。糸を引きちぎることができなければ、いずれ食い殺されるだけなのだから。
「リ、リリア、あと、どのくらいだ? さすがに、そろそろ限界なんだけどな…………」
「もう少し………ですから、ちょっとだけ、頑張ってください……」
根を上げそうになる日々也を激励するリリア。しかし、彼女自身かなり限界が近かった。
日々也のように人を背負ってこそいないものの、魔力の消費は精神的な疲労が時にそうであるように肉体面にも影響がある。可能な限り節約をしてはいるが、消耗は日々也以上だった。
魔法はあと何回使用できる。
次はどう動けばいい。
おぼろげな思考を無理矢理に働かせ、今できる最善手を考えていく。
「ヒビヤさん! そこの角を左に! 後はそのまま、まっすぐ行けば………」
「分かった!」
リリアの一歩先を行く形で角を曲がった日々也の目に飛び込んできたのは、長い廊下とその先にある一枚の扉。
あれを潜れば隣の北館へと移動できる。石造りでない場所まで逃げることさえできれば、アレウムも容易には手出しできなくなるだろう。そうなれば、見回りをしている教師に助けを求めることも可能になってくる。だが、そのことは向こうも重々理解しているはずだ。
つまりは、アレウムにとってここが最後の砦。何としても守り抜かねばならぬ要所。であれば、妨害も今までの比ではないことが簡単に想像できる。
だとしても、他に道はない。お互いに顔を見合わせ覚悟を決めたあと、ほぼ同時に走り出す。
途端、まるで廊下が生きているかのごとくうごめいたように感じた。
気のせいではない。今、視界に収めている石材のうちのいずれかが襲いかかってくるのは明白だ。それら全てを避けきって、奥の扉までたどり着けるかどうかで全てが決まる。
(足がもつれて転んだりしたら、それだけで終わりだな)
冗談めかしてそんなことを考えながら、一歩一歩を確実に踏み出す日々也目掛けて石材が飛び出す。
一つ、二つ。同じ数だけリリアにも向かっていくのを視界の端に捉えるが、そちらに気を配る余裕などない。とにかく自分を狙う岩塊の軌道を見極めることだけに全神経を集中させる。
「ッ!!」
ヤスリのように粗い表面が腕を掠め、血が滲む。思わず上げそうになる悲鳴をかみ殺し、そんなことに使う体力があるのなら少しでも速く走れと体を動かし続ける。狙いを外した岩塊が床を砕く音を聞きつつ、一瞬だけ生まれた猶予を利用して視線を横に向ければ、リリアも同様に上手くやり過ごしたのか少し遅れながらもしっかりと並走していた。
アレウムが同時に操れる岩の数は七つまで。ならば自分とリリアで合計四つを回避した今、気をつけるべきは残り三つ。それさえ何とかしてしまえば、扉までの距離を鑑みても再び魔法を使われる前にたどり着けるだろう。
大丈夫だ。十分間に合う。そう考え、日々也の頬が僅かに緩む。それは、明確な『油断』であった。
直後、日々也たちの進路を妨害するように左右から二つの石材が動き、目の前で交差する。
そして、
「な、あっ!?」
「え? きゃあぁっ!!」
二人が思わず足を止めた瞬間、足下の床が爆発した。いや、吹き飛んだと表現した方が正確か。宙を舞う日々也の瞳に映ったのは、数多ある中で一つだけ明らかに他とは違った挙動で上空へと飛ぶ石材。それが今までとは異なり、廊下の表面ではなく内側に使用されていたものが無理矢理に打ち上げられたのだと直感で理解する。
「ぐぅっ!」
そんなこともできるのか、と後悔する暇さえなかった。一度浮き上がった体は容赦なく床に叩きつけられ、苦悶の声が漏れる。
「が……はぁっ、ちく、しょう………」
悪態をつき、震えて上手く動かない膝に鞭打って何とか立ち上がる。数メートル先に蹲るリリアの姿を確認した日々也は衝撃で吹っ飛ばされたアカネを担ぎ直し、半分引きずるようにしながら駆け寄っていく。痛みに呻いてこそいるものの、幸い意識は失っていないようだった。もう少しで扉を抜けられる位置とはいえ、さすがの日々也も少女二人を背負っていては歩くことすらままならない。怪我人相手にいささか酷ではあるが、どうあっても自分で走って行ってもらう必要がある。
「だ、大丈夫か? リリア……」
「は、い…何とか………」
苦痛に顔をゆがめながらも、リリアはゆっくりと息を整え立ち上がる。手に持った杖で体を支え、一歩前へと踏み出し、
「…………………………あ」
唐突にその動きが止まる。不審に思った日々也が覗き込むが、まさしく蒼白とでも言うべき強張った表情のまま固まる少女の心中は分からない。ただ一度だけ、覚悟を決めるように堅く目を閉じると、細く長く深呼吸をして日々也へと向き直る。
「………ヒビヤさん、ちょっといいですか?」
「な、何だよ? 急に」
ぐっと顔を近づけ、耳元でリリアが囁く。何の前触れもない行動とくすぐったさに思わず身をよじる日々也を意に介さず、少女は言葉を続ける。
「静かに聞いてください。もしかしたら、私たちの会話もアレウム先生に届いているかも知れませんから」
「……分かった。それで、どうしたんだ?」
「私たちが北館に行けば、先生はきっとすぐに追いかけてくるはずです。私はちょっとでも時間を稼げるようにここに罠を仕掛けておきますから、ヒビヤさんは先にアカネさんを連れて扉を抜けてください」
「待てよ、それじゃあお前が………」
「そんなに時間はかかりません。先生が何かをしてくる前に私も後に続きますから、心配しないでください」
優しく微笑み、リリアはそっと日々也の体を押す。気にせず早く行けという所作。いつまたアレウムからの攻撃が再開されるか分からない現状、確かに悠長に構えてなどいられないのは事実だ。一秒でも早く扉の先を目指さなければならない。
だが、
(何だ? 何か………変な感じが……………)
湧き上がる違和感。
リリアの言っていることは正しい。作戦としても決して間違ってはいないはずだ。だというのに、この言い知れぬ不安感は一体なんだというのだろうか。
先程のリリアの様子は本当にこの案を思いついたが故のものだったのか? どうして、まるで幼子を安心させるかのように笑う?
分からない。分からないからこそ生じる焦燥感が一層心をざわつかせる。
「ヒビヤさん、早く!!」
「あ、あぁ!」
リリアの語気が強まり、その勢いにはじかれるように扉へと向かって駆け出す日々也。アレウムからの邪魔が入る気配はない。残り数歩の距離を一息に詰め、伸ばした腕で取っ手を掴む。
そして、
「着い……た!!」
勢いもそのままに、体当たりをするかのごとく扉を開け放って北館へと転がり込む。よろけながらも止まることなく数歩奥へ。
ここまで来れば大丈夫だ。もう何も心配することはない。助かったのだと安堵する。まだ完全に気を抜ける状況ではないが、それでも一息つくぐらいの余裕は出来ただろう。
呼吸を整え、後ろを振り返る。リリアの言っていた罠とやらは仕掛け終わっただろうかと確認しようとし――――――――――、
バタン、と扉が閉められる音が響いた。
「……………………………………………………は?」
何が起こったのか、すぐには理解が追いつかなかった。
呆然と日々也が見つめる先で、今度は鍵のかかる軽い音が鳴る。ふらつく足で扉へ近づき手を伸ばして触れるが、まさしく廊下を寸断する障壁へと変貌してしまったかのようにビクともしない。
「お……い、おい! 何やってんだよ、リリア!!」
リリアの予想外の行動に裏切られたような感覚が湧き上がり、少女の名を叫びながら怒りにまかせて拳を叩きつける。しかし、渾身の力であったにもかかわらず、扉は僅かに軋んだだけで開くそぶりを見せることすらない。
混乱する頭と思い通りにならない現状に苛立ち、再び拳を振り上げようとし、
「ごめんなさい、ヒビヤさん」
声が届いてきた。当然のことながら表情は見えない。だが、その声音からははにかんでいるような、恥ずかしがっているような、申し訳なさそうな様子が感じ取れた。
どうしてそんな声を出すのか。答えはすぐに聞こえてきた。
「実は、さっき転んだときに足を挫いちゃったみたいで………ちょっと、走れそうにないんですよね。正直、立ってるだけでも辛いくらいで。だから、私がここで少しでも時間を稼ぎますから、ヒビヤさんはアカネさんを連れて逃げてください。あ、できれば見回りをしてる先生とか連れてきてくれると助かります」
「何、を、言ってるんだよ……………」
力なく笑いながら、世間話でもするように語るリリアが扉越しにもたれかかってきたのが伝わってくる。
ただ、それだけだ。反対側にいる日々也には何かをすることなどできはしない。たかだか数センチの木の板に阻まれただけで、まるで手の出しようがなくなるというごく当たり前の事実がたまらなくもどかしい。
「もうちょっと、あとちょっとだろ!? 何諦めてるんだよ!? ここまで来れば助かるって言ったのはお前だろ!!」
「それは………あくまでも、ちゃんと走れるのなら、の話です。北館に移動しただけで先生が諦めてくれるとも思えませんし。だからアカネさんを助けるためにも、まともに動けない私が残って先生の相手をするのが今できる最良の策なんです」
「論点をすり替えるなよ! 僕たちの目的はアレウム先生を止めることで、こいつを助けることなんかじゃない! お前だってそう言ってただろうが!」
叫び、取っ手をガチャガチャと鳴らす。しかし、どれだけ力を込めようと、どれだけ必死になろうと、金属音が辺りにこだまするだけで扉が開く様子は一切ない。
「そんなんじゃ開きませんよ。基本的なものではありますけど、『施錠』って言う魔法で鍵をかけてますから。だから、早く行ってください。お願いですから」
「そ、んなこと………できるわけないだろ!!」
魔法を使われているのなら、自分ではもうどうしようもない。例え、今この場に鍵があったとしても無意味だろう。そんなことは分かっている。それでもなお、日々也はドアノブを動かす手を止めることが出来なかった。
押しては引き、何度も扉を殴りつける。その度に蝶番が揺れ、嫌な音を立てるが戸を開けるには至らない。
どれだけの間そうしていただろうか。いつまで経ってもその場を離れようとしない日々也に業を煮やしたリリアがとうとう声を荒げた。
「いい加減にしてください! 逃げてって言ってるじゃないですか! 早く行ってくださいよ! ヒビヤさんは私のわがままに巻き込まれただけで、元々何の関係もないんですから!!」
その悲痛な言葉に、日々也は思わず振り上げた腕を止める。
『関係ない』。
普段から何の気なしに日々也自身が使っている口癖。
果たしてそれがどんなに冷たいものであったのか。どんなに残酷なものであったのか。少年は、自分自身が使われる立場になるまで理解していなかった。
明確な拒絶。その一言に日々也は歯を食いしばり、
「……………分かったよ」
踵を返し、その場を後にする。
振り返ることはしない。負ぶさる少女が振り落とされぬよう位置を整える。
そして、
「………悪いな」
ただ一言だけそう呟いて、少年は走り去って行った。
日々也が離れていく足音に、リリアはチクリと心臓を針で刺されるような痛みを感じていた。だが、頭を振って気のせいだとその感情を否定する。
『行かないでほしい』。『一人にしないでほしい』。気を抜けばそう口にしてしまいそうになるのを必死に堪え、喉元までせり上がる言葉を飲み込む。間違っても声に出してはいけない。自分で決めたことだ。自分でやったことなのだと言い聞かせる。
後悔など、する資格もなければ余裕もないのだから。今はただ、やるべきことをやるだけだと前を見据える。
そこには、日々也に先を急がせる原因となった存在がいた。
アレウム・エンバッハ。復讐鬼と成り果てた担任の教諭。もはや言葉すら届かぬほどの憎悪にその身を焼き焦がす男が視線の先に立っている。魔法で遠くから攻撃を仕掛けながらも、しっかりと追いかけてきていたのだ。当然のこととはいえ、改めて自分に迫る脅威の姿を視認したことで、杖を握るリリアの手に力が入る。
「……先程の一撃で動けなくするつもりだったのですが、オオゾラ君は思いの外に頑丈だったようですね。女の子を一人残して逃げ出す、というのは些かいただけませんが。まぁ、どうでもいいことですね。さて、ルーヴェルさん。申し訳ありませんが、そこを退いていただけませんか? 私は彼らを追いかけないといけませんので」
「お断りします! 先生は私がここで……………」
バガン!! と、リリアが言い切るよりも先に破壊音が響いた。
彼女の頭、数センチ横の位置。壊れ、弾けた扉の一部が木片となりパラパラと落ちる。ほんの僅かにずれただけで代わりに少女の血潮がまき散らされていたであろうことが容易に想像できる場所に、サッカーボールほどの大きさをした岩の塊が突き刺さっていた。
「………次は当てますよ?」
穏やかな、それでいて冷徹な最後通告。目前に迫った明確な死の恐怖に、歯の根が合わなくなる。
「さぁ、これが最後です。そこを退きなさい。ルーヴェル君」
「……………嫌です。絶対にここは通しません!!」
だが、足を震わせ、呼吸を乱しながらもリリアの決意は揺るがない。
口元を引き結び、自身の提案を全力で拒否する少女にアレウムは大きくため息をつく。
「残念ですよ。本当に」
教師である面影を見せるように、生徒を傷つけることへの無念さを滲ませた男は周囲を漂う残った岩塊へと指示を出した。
その全てがリリア目掛けて襲いかかる。
そして、轟音が鳴り響いた。