1-32 答え合わせ
アカネは一人、夜の校舎を駆けていた。足を振り下ろすたびに、靴が石造りの床を叩く音が鳴り響く。
頭の中を支配するのは、どうしてこんなことになってしまったのかという疑問。
自分は貴族なのに。
選ばれた人間なのに。
そこいらの有象無象とは違う、尊ばれるべき存在なのに。
そんな身勝手で自己中心的な考えだけが何度も何度も繰り返される。
だが、どれだけ不条理に異を唱えようとも現状は変わらない。まるで、必死に逃げ回る彼女を嘲笑うかのようにその後を追いかける足音が鼓膜を震わせる。決して速いわけではないのに、離れることなく常に一定の距離を保って聞こえてくるそれは何らかの魔法によるものか、はたまた冷静な判断をするだけの余裕がない故か。
実際、アカネの体力は既に限界であった。心臓が今までにないほどの早鐘を打っているのはもちろんのこと、肺も気管もとっくに悲鳴を上げ、呼吸をするだけで鈍い痛みを返している有様だ。とはいえ息を止めるわけにも行かず、体が求めるままがむしゃらに酸素をその身に取り込んでいく。
逆に言えば、それだけ長い時間アカネは逃げ回っていた。
にもかかわらず、
(何で誰も来ないのよ………!)
自らを付け狙っている人物が逃げ道を制限するように立ち回っていることには気がついていた。獲物を狩り場から逃さぬよう先回りし、物理的に、あるいは意識的に望む方向へと誘導している。
だとしても、見回りをしているはずの教師が一人も姿を見せないというのはいくら何でもおかしいではないか。
今でこそ口から漏れ出るのはただの吐息だけだが、体力のある内に幾度か助けを求めて声を張り上げている。なのに、それを聞いた誰かが駆けつけてくる様子はみじんもない。それでも生き残るためにアカネはとにかく走り続けた。
しかし、
「…………………………あ」
差し掛かった曲がり角。その先からそいつは現れた。
全身を覆う漆黒のローブを暗闇に溶け込ませた襲撃者。のっぺらぼうを思わせる凹凸のない、白くつるりとした仮面だけが宙に浮いているように高い位置から少女を見下ろしている。
いつの間に回り込んでいたのか。気がついたときには全てが遅すぎた。
反応どころか悲鳴を上げる暇すらなく、衝撃がアカネを襲う。
吹き飛ばされた体はさながら子どもの放り投げた人形のように宙を舞い、べしゃりといやな音を立てて地に落ちた。即死、とまでは行かないものの、受け身をとることもなく倒れ伏した姿から一撃の下に意識が刈り取られたことは明白だ。
「……………………………………………………」
だが、そんな非道を行っておいてなお、当の本人はさしたる感慨も感じてはいなかった。
一度目は二人の少年少女に邪魔をされ、二度目はあと一歩というところでかのカムラ・アルベルンに阻止された。かろうじて撤退には成功し、正体が露見することだけは避けられたが、狙った二人は病院に担ぎ込まれて手が出せない。
故に、これが最後のチャンス。せめてコイツだけはと心に誓い、待ち望んでいた状況が目の前にある。
だというのに、歓喜に打ち震えるでもなく、少女への怒りに我を忘れることもない。
目的を達成する。仮面の人物の内にあるのはそれだけだった。
ようやく終わる。終わらせる。
その手に魔法陣の淡い光をたたえながら、動くことのできない少女へと近づいていく。
「やめてください!!」
そこへ、待ったがかけられた。
横たわるアカネを挟んで反対側に立つ二人組。その姿を認めて仮面の人物は僅かな苛立ちとともに、『またか』と心の中で吐き捨てる。
二日前の再現でもしているように割って入ってきたのは、これまたその時と変わらぬ顔ぶれ。日々也とリリアの二人であった。
ここまで来るといっそ笑えてくる。三度もの機会があったにもかかわらず、その全てにことごとく邪魔が入るとは思ってもみなかった。どうやら自分はよほど神さまに愛されていないらしい。
「……………やめてください」
仮面の奥で自嘲的な笑みを浮かべる人物へ、リリアは懇願するように同じ言葉を繰り返す。それに対する襲撃者のとった行動は実に分かりやすいものであった。
一歩前へ。
止められるものなら止めてみろという自信と挑発の表れ。
理事長であればいざ知らず、所詮相手はたかが子ども二人だけ。前回こそ初めて目にする魔法陣に警戒して退いたものの、あれが何の効力も持たないただの張りぼてであることは確認済みである。
なればこそ、恐れることはない。さっさとやるべきことをやるだけだ。
仮面の人物がさらに一歩を踏み出そうとする。
そのとき、
「お願いですから、もうやめてください! アレウム先生!!」
ピタリと、動きが止まる。
それだけで十分だった。
出された名前に動揺したという事実に、リリアの予想が確信へと変わっていく。
仮面に覆われたはずの瞳が驚愕で見開かれていると幻視してしまうほどに。
「ちょっと待てよ。いきなり何を言い出してるんだよ、お前は?」
そして、驚きを隠せないのは日々也もまた同様であった。
あまりにも突拍子のない発言に耳を疑う。とはいえ、とにかく急かされていたために道すがらろくな説明もされていなかったのだから無理もない話ではあるが。
「あいつがアレウム先生だって言うのかよ? 体格が全然違うだろ」
日々也の言いたいことも分かる。
アレウムは日々也たちより背が高くはあるが、あくまでも平均的な成人男性ほどであって身の丈2メートルを超すような偉丈夫ではない。
しかし、リリアは軽く首を振ってこれを否定する。
「その程度のことなら魔法でいくらでも偽装できますよ。そうですよね? アレウム先生」
リリアが再び語りかける。
どうあっても見解を覆すことはないらしいと感じ取った仮面の人物は肩をすくめた。
それは、日々也たちが二日前に出会ってから初めて見る人間らしい動作だった。
「弱りましたね。バレるような失敗はしていないつもりだったのですが。どうして犯人が私だと気づいたのか、お聞かせいただいてもよろしいですか? ルーヴェルさん」
発せられたのは思いのほか穏やかな声。同時に、緩やかな動きで素顔を隠す仮面が取り払われる。
フードの下から覗く顔は、まさしくリリアが呼んだ名を持つ男のもの。日々也たちの担任であり、虫も殺せなさそうな穏やかな人格者、アレウム・エンバッハその人であった。いつも通りの笑顔をいつもと違う体格で浮かべていることには強烈な違和感を覚えるが、それも瞬きの一瞬で元に戻った姿の前に霧散する。
「……………ヒビヤさんから聞きました。昨日、先生は模擬戦の時にヒビヤさんが魔法を使えることを知っている口ぶりだったそうですね」
リリアは数分前にルームメイトから聞かされたことを思い返す。
『覚えた魔法を早く試してみたいでしょう』
間違いなく、アレウムがそう口にしていたということを。
「ええ。それが何か?」
「おかしいんですよ。先生が知ってるはずないんです。だって、あの時点でヒビヤさんの魔法のことを知ってたのは、私たちから話を聞いた理事長さんを除けば直接見た三人だけ。私と、ヒビヤさんと、それから……………襲ってきた犯人だけ、なんですから」
「………あぁ、そういえばそうでしたね。失念していました」
『ははは』と、アレウムが笑う。
普段と変わらぬ所作。普段と変わらぬ表情。
簡単な失敗をしてみっともないところを見せてしまったとでも言いたげに、はにかみながら頭をかく。
糾弾をあっさりと受け入れ、肯定する。そんなアレウムに対し、リリアは知らず唇をかみしめていた。
「ですが、それだけで私を犯人だと断定するにはいささか根拠薄弱ではありませんか? 理事長が私に話していた可能性もありますし」
「わざわざ私たちに口止めしていた理事長が誰かに話したりはしないはずです。犯行の時間と場所が同じだったのも、先生が犯人だと思った理由ではありますけど」
「ほう?」
「二回とも時間が同じだったのはそれが見回りの時間だったから、ですよね? 校舎内を動き回っても怪しまれませんし、誰かが来たら変装を解いて、自分も今し方駆けつけたように見せかければいい。それに、先生なら何かと理由をつけて生徒を呼び出すことくらい簡単ですよね?」
「では、ここを犯行の場に選んだ理由は?」
「……先生が得意な魔法は鉱物、つまりは石を操る魔法です。石造りであるここの廊下は、先生にとっては周りに武器があるようなもの。使い終わった石を元の場所に戻しておけば、襲った方法もすぐには分からなくなって、疑われるまでの時間稼ぎになると思ったんでしょう?」
「おや、まさかそこまで見抜かれているとは。少々、以外ですね」
「私の服にたくさん砂がついていたんです。多分、壁かどこかから石を取り出した際に削れたものが転んだ拍子についたんでしょう。それで気づいたんです。もしかしたら、今回の一件は先生が犯人なんじゃないか、って」
「……………なるほど。さすがですね、ルーヴェルさん。見事な推理力です。魔法使いなどよりも、探偵の方がよっぽど向いているのではないですか?」
「先生がそう言うのなら、前向きに検討してみますよ」
リリアとアレウム。
かたや皮肉に口元をゆがめ、かたや優しげな微笑みを崩さない二人を日々也はただ呆然と眺めていた。
頭の処理が追いつかないというのもある。身近な人物がこんな凶行を行っていたとなれば、すぐにそれを受け入れるのは難しいだろう。
だが、それ以上に日々也を困惑させる理由はアレウムの態度にあった。
こうして話をしている今も、お互いの間にはアカネが倒れているのだ。だというのに、気を失った少女を挟んでの会話という異質な状況であるにもかかわらず、まるで質問に来た生徒と接するかのごとく振る舞い、あまつさえ冗談さえ口にする普段通りのありようが、逆にその異常性を際立たせる。
恐怖。
初めて人の狂気に触れる日々也が抱いた感情は、その一言に尽きた。
「何でなんだ?」
「はい?」
「何で、こんなことしたんだ?」
恐れていることを悟られるのを嫌って、日々也は声を絞り出す。
しかし、それは悪手だった。
日々也の言葉を聞いた途端、アレウムの雰囲気が変わる。口元こそ笑ったままだが、瞳の奥に底知れぬ怒りと憎悪の炎が揺らめきだす。
「……………君たちも知っているのではありませんか? そこに転がっている彼女とその友人二人は自分たちが貴族であること、たったそれだけの理由で他人を見下し、傷つけてきました。それこそ、数え切れないほどに」
「確かにそうかもしれません。でも、だからって先生がこんなことをする必要は……………」
「では、彼女たちのいじめで一人の少女が自殺を図ったことは?」
「………噂程度には」
「では」
一度、言葉を切ってアレウムは目を閉じる。
腹の奥に溜めていたものを出すように息を吐く。
そして、
「その少女が、私の娘だということは?」
「!!」
次に目が開かれた時には、いままでの穏やかさはみじんも残っていなかった。
歯をむき出し、抑えきれぬ激情をあらわにするアレウム。握りしめられた拳は血が滲まんばかりに力が込められ、今にも襲いかかって来かねないほどの激昂に日々也たちも思わずたじろいでしまう。
「彼女たちの素行は以前から私たち教師の間でも問題になっていました。しかし、確たる証拠がなかった故に手出しができず、せいぜいが注意にとどまる程度。いじめの噂はあっても、被害者が誰かすら分からない状況でした。………結局、私が全ての真相を知ったのは娘が増水した川に身を投げた後でしたよ。幸いなことに一命は取り留めましたが、今も意識は戻らず病院で眠り続けています。大切な一人娘をそんな目に遭わせた相手を許せるわけがないでしょう?」
「そ、それは……だとしても………」
アレウムに気圧され、リリアの語気が弱まる。
家族を喪うという苦しみと絶望。それが理解できるから、理解してしまったから、だからこそ、どう言葉をかければいいのかが分からなくなってしまう。
きっと、目の前のこの男は何を言ったところで止まらない。いや、止まれないのだろう。
娘が傷つけられたという怒り。そのことに気づけなかった不甲斐なさ。そして何より、娘が今なお生死の境をさまよっているという不安が混ざり合い、いても立ってもいられなくなっているのだ。その感情が復讐という形を成して表出している以上、どんな言葉も届きはしない。
そうしなければ、自分を保てないほどに追い詰められているのだから。
「さて、これだけ時間稼ぎにも付き合ってあげたのです。助けが来る可能性は低いと、そろそろ気がついたころではありませんか?」
そんなリリアの狼狽した様子に、アレウムは再び穏やかな口調を取り戻して語りかける。だが、そこにある笑顔は既に本来の意味を失い、ただ顔に張り付いただけの新たな仮面と化していた。
「………気づいてたんですね」
「それくらいは警戒して当然でしょう? 残念ですが、ここ一帯には『人払い』の魔法をかけてあります。君たちのように、明確にこの場所を目的地と定めない限りは誰かがたどり着くことはありません」
だからこんなにも余裕を見せていたのかと、再度リリアは唇を噛む。
完全に目論見が外れた。
できることなら説得に応じ、自首してほしいと考えて誰にも伝えずに来たことが裏目に出てしまった。
アレウムの温厚な人となりを知っていたが故のミス。心のどこかで、話し合えばちゃんと分かってくれると思い込んでしまっていたのだ。
そして、アレウムの口ぶりから察するに彼がそのことを見抜いているのは間違いなかった。
いつ襲いかかられてもおかしくない状況。次にどう行動すればいいか必死に思考を巡らせる。
しかし、アレウムが口にしたのは意外な提案だった。
「君たちでは私を止めることはできない。助けが来ることもない。そこでどうでしょう? このままおとなしく引き下がってはもらえませんか?」
「どういうことですか?」
「私の狙いは君たちではありません。ここで見たこと、聞いたことを全て忘れて部屋に戻るのであれば、私も危害を加えないと約束しましょう。疑いの目をそらすために、君たちが囮となるよう噂を流したお礼とお詫びです。悪い取引ではないと思いますが?」
「……私たちがこのことを理事長に報告するとは考えないんですか?」
「私は目的さえ果たせれば、あとはどうなろうと構いません。そして、君たちがこの場を退いてくれれば邪魔が入る前に片をつけることくらいはできますから。別に大切な友人というわけでもないのでしょう? なら、いいじゃないですか」
アレウムがにこりと笑う。
確かに、アカネは友人というわけではない。むしろ、嫌いな相手だと言えるだろう。
だが、本当にそれでいいのだろうか。
友人ではないから。嫌いだから。
たったそれだけの理由で、危険な目に遭っている人を見捨てることが果たして正しいことだと言えるのか。
背後に立つ日々也へと視線を投げかける。日々也もまた迷っているのか、『どうするんだ』と目で問いかけていた。
ここでアレウムの要求を呑めば、自分と日々也だけは助かる。その誘惑がリリアの脳裏をかすめ―――――、
「いやだ、と言ったら……………?」
アレウムへと向き直るリリア。
尋ねるような言葉であったが、その眼差しには確固たる意思が宿っていた。
それを確認したアレウムは一瞬、本当にほんの一瞬だけ寂しそうな笑みを浮かべ、
「それでは、仕方ありませんね」
魔法陣の浮かんだ手のひらを、石造りの壁へと押しつけた。