1-2 リリア・ルーヴェル
フワフワとした浮遊感以外は何も感じなかった。まるで水の中にでもいるような気分で、上下の区別が全くつかない。いや、そもそも上下があるのかどうかも定かではなかった。
日々也は静かにまぶたを持ち上げると、自らの周辺を見渡す。辺りは薄暗く、ほとんど何も見えない。目に映るのは、時折ぼんやりと光る模様のようなものだけだ。
(どこだ……ここ………? いったい………何が……?)
自分はどうなってしまったのか。そして、これからどうなるのか分からないことが不安を煽る。さらに、どこかへと流されて行くような感覚がそれに拍車をかけていた。
(まさか…このまま死んだりしないだろうな? っ待て待て!! そんなことになったら明日香はどうなる!? それだけは絶対に勘弁だぞ!?)
自分が死ねば明日香は一人取り残されてしまう。その最悪の事態を想像して慌てだす日々也。
しかし、何を思おうが今の彼に事態を好転させるすべなどありはしない。その事実に歯がみしていた日々也は、徐々に辺りが明るくなってきていることに気がついた。
(灯り……! 出口か!?)
洞窟かトンネルの先から差し込む光明のようなまばゆい光。日々也の体はその方向へと引かれていく。何があるのかは分からない。だが、一刻も早くこの場所から脱したい一心で少年はもがき、その度に手足が空を切る。やがて、視界が白一色に塗りつぶされると先程までの浮遊感は突如としてなくなり、代わりに生まれたときからずっと慣れ親しんできた重力を感じた。
「っとと」
今まで文字通り地に足がついていなかったせいか、突然の重力に戸惑ってしまう日々也。とはいえ、こうして地面があるという事実は少なからず心の平穏を取り戻す助けになってくれた。
人心地つき、少年は現状を確認するため周囲に目を配る。一面、白、白、白の白づくし。光に目がやられたわけではない。煙か何かが立ちこめていて、1メートル先も見えないのだ。
手に入った数少ない情報はといえば、自分が腰を下ろしているのが木製の床であること。そしてそこには、自分の部屋に浮かび上がった魔法陣と同じ幾何学模様がチョークのようなもので描かれているということだけだった。
「何なんだ? これ……?」
「ケホッ、ケホケホッ。うぅ、どうして召喚魔法って、こんなに魔素が出るんでしょうか……?」
恐る恐る模様に触れる日々也の耳に声が届く。
どこかで―――――というか、さっき自分の部屋で聞いた少女の声だ。
「この声……さっきの幻聴………?」
いや、もはや幻聴などとは思っていなかった。煙で視界が遮られて姿は見えないが、すぐそこに誰かがいる。そして、その誰かは自分が今ここにいることと無関係ではないだろう。そう判断した日々也は、声のする方向へと煙をかき分け這っていく。
声の主らしき人影は、すぐに発見することができた。
「ケホッ。あのー、ちゃんと召喚できてますかー? あのー……」
「おい」
「うひゃぁぁあああああ!!」
いきなり耳元で声をかけられて驚いたのか、人影は悲鳴を上げて尻もちをついた。それとほぼ同時に辺りを漂っていた煙も落ち着き始め、朧気だった姿が視認できるようになっていく。
「いたたた………」
やはりというべきか、床にしゃがみ込んで腰をさすっているのは一人の少女だった。オレンジ色に見えるほど明るい茶髪を肩よりも少し長く伸ばし、身にまとったシャツとスカートの上にフード付きのローブを着ている。目はくりくりとした綺麗な琥珀色で、ローブの袖からちょこんと飛び出た手には杖が握られていた。
「うぅ……いきなり酷いじゃないですかぁ。びっくりしましたよ………」
「知るかそんなこと」
非難の目を向ける少女に対し、日々也は『ふんっ』と鼻を鳴らした。その腕は少女に差し出されるどころか胸の前で堅く組まれ、助け起こす気などないという意思を強く伝えている。仕方なく少女は自力で立ち上がると、服についた汚れを軽く払ってから日々也の顔をのぞき込み、
「えっと、あなたが私の召喚に応じてくれたんですか?」
「はぁ?」
突然の意味不明な発言に、思わず素っ頓狂な声を上げてしまう日々也。しかし、少女の方はお構いなしに質問を畳みかけてくる。
「あ、その前に、あなたのことはなんて呼べばいいですか? お名前とかあります?」
「え? あ…日々也……。大空日々也……だけど」
目の前にいる少年の不機嫌な様子も気にせず話し続けるあたり、この少女はかなりの天然なようだ。そのせいでペースを乱され、日々也は戸惑いながらもついつい答えてしまう。
「オオゾラ……ヒビヤさん……ですか? 変わったお名前ですね。ああ、そうそう。私も自己紹介しないと、ですね」
そう言って少女はローブを翻し、胸に手を当てると気取ったように笑い、
「私はリリア。リリア・ルーヴェルです。よろしくお願いしますね」
自らの名を告げる。動きに合わせて左右に揺れる髪がやけに目を引いた。