1-1 我、汝との契約を望む者なり
数十分前
学ランを着た黒髪少年、大空日々也は自宅のドアを開けて中に入った。
「ただいまー」
少年が靴を脱ぎ、綺麗に並べながら帰宅時の挨拶をすると、奥の部屋から声が聞こえてくる。
「あ、日々也お兄ちゃんおかえりー」
スリッパに履き替え、廊下を進む日々也。リビングへと続く扉を潜れば、そこにはソファの上で雑誌を読みつつゴロゴロしている彼の妹、大空明日香がいた。
肩まで伸ばした茶髪とパッチリ開いた目が特徴的なその姿を認め、日々也の眉がつり上がる。
「コラ、明日香。行儀悪いぞ」
「ソファはくつろぐための物でしょー?」
「問題はスカートのまま寝っ転がって、足を組んでるところだ」
兄の注意を受け、明日香は『ハーイ』と言うと、ようやくソファーに座り直した。もう14歳になる彼女はいわゆるお年頃のはずなのに、そういうことに関して気にしている様子が全く見受けられない。
「なぁ、明日香」
だが、それは兄である日々也も同じとは限らない。
「前々から思ってたんだが、お前まさか外でもそんなんじゃないだろうな?」
「さすがに家以外の場所ではちゃんとしてるよー」
「本当だろうな? 正直、兄としては気が気じゃないんだが」
「お兄ちゃんは心配しすぎだよー。そんなに過保護にしなくても大丈夫だよー」
妹の語尾を延ばす独特な喋り方に、だんだん不満げな色が混ざってくる。しかし、そのことを承知の上で、日々也は気にせず続ける。
「心配するのは当然だろ。お前は大切な妹なんだから」
「そういうことばっかり言ってるから、シスコンだと思われるんだよー」
「過保護と言われようがシスコンと思われようが関係ない。僕はお前を守っていくって父さんと母さんに約束したんだから」
日々也の言葉に、明日香が『むぅー』と唸る。だが、それ以上は何も言わずにため息をつき、
「はぁ…分かったよー。以後、注意しますー」
「うむ。分かればよろしい」
聞き分けのよい妹の頭を、日々也はクシャクシャと撫でた。髪型が乱れる行為に明日香は怒りもせず、ただ黙って受け入れる。代わりに恥ずかしそうな、それでいてどこか嬉しそうな妹の顔に日々也は頬を緩めると、リビングを出て二階へと続く階段を上りながら言った。
「それじゃあ、僕は着替えてくるから、夕ご飯の準備頼んだぞ」
「ハーイ。着替え終わったら手伝ってねー」
雑誌を閉じて立ち上がる妹へ『りょーかい』と短く答えた日々也は自室へと入り、学生鞄を机の上に置くと、不意に窓の外を眺めた。太陽は沈みかけており、空はほんのりと赤く染まっている。そんな物悲しい光景を見てしまったからか、自然と独り言が漏れた。
「父さん、母さん、僕はちゃんとできてるのかな………」
二人の両親が事故で他界して、もう5年になる。
当時まだ11歳と9歳だった二人の引き取り手は見つからず、以来ずっと兄妹二人で暮らしてきた。明日香が先程文句を言わなかったのも兄が両親のお墓の前でしていた約束と、5年にわたって自分の面倒を見てきてくれたことを考えると何も言えなかったからだろう。
しかし、どんな理由であれ、妹にそんな風に気を遣わせてしまったことを日々也は情けなく感じてしまっていた。
「っと、駄目だな。ちょっと弱気になってたか。早く着替えて明日香の手伝いに行かないと」
自らの頬を張って気を引き締め、日々也は私服を取り出そうとタンスの取っ手に手を掛ける。
そのとき、
『…れ………の……を…む…なり……』
「ん?」
声が聞こえた。一瞬、空耳かとも思ったが違う。確かにどこからともなく声が聞こえた。それは最初は聞き取りづらかったが、時間とともに少しずつはっきりしたものになっていく。
『えー、コホン。我、汝との契約を望む者なり。我が呼びかけに答えよ』
(……えーっと、なんだこの状況は?)
突然のことに、日々也の頭に疑問符が浮かぶ。明らかに妹の声ではないし、外から誰かが声をかけている様子もない。まるで、頭の中へ直接響いてきているような感じだ。
(あー、幻聴ってやつか。最近バイトが忙しかったしな。うん、そうだ。そうに違いない)
わけが分からない状況を適当に結論づけ、日々也は声を無視してタンスから着替えを引っ張り出した。だが、幻聴はより鮮明な音となって彼の脳を揺さぶり続ける。
『あれー? おかしいですね? ちゃんと繋がってないのかな? すいませーん。聞こえてたら、お返事してもらえますかー?』
「………幻聴が聞こえなくなるいい方法ってないかな……」
『あ、良かった! ちゃんと繋がってたんですね。失敗したのかと思って心配しましたよー』
これは本格的にまずそうだ。そう判断した日々也が独り言を口にすると、それを返事と勘違いしたのか、さっきまでより若干嬉しそうな幻聴が返ってきた。
(病院……は、金がかかるから却下だな。とりあえず、今日はバイトもないし早めに寝るか)
そんなことを考えながら制服のボタンに手を掛けたところで、
『それじゃあ、ゲート繋ぎますねー』
そう聞こえたかと思うと、日々也の足下に光り輝く幾何学模様が現れた。
円を基調とし、複雑な文様の描かれたそれはゲームなどに出てくる魔法陣のようにも見える。
「なっ………!?」
その魔法陣は一層強く輝きを増していき、日々也は疑問の言葉を口にする暇もなく閃光に包まれる。そして光が収まり、周囲に普段通りの静寂が戻ったとき。
少年は、この世界から跡形もなく姿を消していた。