達男と友達
わが友、右大臣、ジャクソン、あっき氏に捧ぐ
達男は、退屈な学校の為に早く起きようという気
がどうしても起こらず、寝坊してそのまま学校を休み、Tvゲームのレベル上げをして日がな一日過ごす事もあった。
雑魚敵をたくさん倒すのに夢中になり、枡の中に
水滴が一滴ずつたまるのを眺めるかのようにわずかに溜まってゆく経験値が、その日の達男の人生だった。ゲームを先に進めることは
しなかった。これでもし明日寝坊しても、同じようにレベルあげをして過ごせばいい。この安堵感は達男を虜にした。目まぐるしく
毎日が動き、置いていかれないように勉強をし、ルックスにも気を配り、コミュニケーションも「いい人であり普通の人」でなければいけない・・・
そしてあっという間に進級、息もつかせず進学・・・その疾走間にくらべ、ゲームの世界はあまりにもゆっくりと時間が流れた。
とはいえ、達男は完全に社会と断絶されるのを良しとせず、それどころか、ひとたび登校すれば学校内カーストの上位であろうと
努めていた。学校内のカーストを決めるのは、勉強がいかに出来るか、運動がいかにできるか、そういう目に見える形で決まるの
ではない。それを決めるのは、いかに物に動じないクールなやつであるか、そしていかに学校以外の世界を知っていて、学生としては
不相応な大人っぽさを持っているかなのだ。冷静さ、理論で正しいことに比べたら、肉体の強さなんて、ましてや、気迫なんて、
何の意味も成さない。達男は級友がギャグを飛ばせばニヒルに笑い、(馬鹿笑いなんてした日には、クラスの不良連中に 達男を
笑わせる遊び が流行るか、女子に こんなすぐ笑う知的じゃない人は論外 と思われるかが関の山だ。)男先生がそれとなく
下ネタを授業中に交えれば、俺は大人の世界も知っている。とでもアピールするかのように、表情をゆがめて見せるのだった。
1
ちょっと休みがちだけど、そこそこデキるやつ・・・達男はそれを狙っていた。これなら、いじめに遭うことも、女子から汚がられる
こともない。俺は知っているのだ。野球部のK、国体出場に向けて周りの親族、部の仲間、野球の先達が踏み固めた細い
道を、ユニホームを着て、全身を硬直させて進むこの男が、クラスの女子からは汗臭いという評価しかないことを。これはイメージ
の話ではなく、実際Kは代謝がいいので少し汗臭い。それが気に入らないのがあいつら、女のこという生き物なのだ。
それを知ってから、達男はデオドラントが手放せなくなった。
こうしたイメージ作りこそが現代社会を生きぬくことだ。そのイメージを作り上げた人間の中身が、Tvゲームのレベル上げであっても、
仕方がないではないか?達男にはこの生活スタイル以外考えられなかった。
その日は雷雨だった。携帯にメールが届く。「校門まで迎えに行くからね。母」
もし晴れていたら、間違いなく母の車で帰っただろう。だが、息継ぎも忘れて降りつづける雨と、炸裂するたびに達男以外の
人間の目を釘付けにする雷、この2つのオプションさえあれば、達男は生まれて初めて「人のいない街」というのを楽しめる
ような気がして、このチャンスを逃したらもうないぞ!というような切迫感すらあったので、「歩いて帰る。達男」と返信した。
沸き立つような切迫感に勝てる人はいるだろうか。それは躊躇をいとも簡単に捨て去る。
2
街路樹がわきの下を見せびらかしている歩道を、行き交う自動車に泥を引っ掛けられながら、達男は歩く。
何を求めて達男は歩くのか。彼は自分の生きる毎日にあまりにも隙がなく、言い換えれば、自分の思ったように
行動を起こす余地が全くないのではないかという不安に駆られている。こんな雷雨の日には、その大理石の建造物のごとき
緊密な 社会のシステム という自分の行動、精神を制限している柵に綻びができるという確かな閃きがあったのだ。
歩きながら、頬に雨が横殴りに打ち据えられ、水滴がタクシーのテールランプで赤い発行ダイオードになりながら、
達男の思慮は、日常生活では決してたどり着けない深さへと達した。
曰く、なぜ俺は一般に正しいとされることに言い知れぬ不潔を感じるのか。Kの体臭よりも、他の人間が必死で隠す
個々人の体臭のほうが危険な腐敗臭であるのは俺の目からは明白だ。
曰く、ほとんどの人間は獣の匂いを捨てたときに発生するドブのにおいにあまりに鈍感である。
隠すから?汚い部分を覆い隠すから、日光も風も当たらずに、ドブのにおいになってゆくのか・・・
見せてくれ。今日見せてくれ。自分の足で歩くから、今日は躊躇を捨てたから、対価はそれでいいだろう?
まだ足りないか。それでは行動しよう。電柱にくくりつけられた街灯がぽつぽつと点在する住宅地へと歩を進める。
復讐する相手がいるのだ。復讐は一般論では禁じられているが、覆い隠されない人間の姿だと思ったのだ。
行動とはこういうことだ。行動とは復讐することだ。復讐しない人間を誉めそやすのはやめろ。そいつは怠惰なだけなのだ。
俺は行動するぞ。ドブの匂いを捨てるぞ。
住宅街に、青い金網で囲った庭に、半年ごとに停まっている車が変わるガレージをもつ2階建ての一軒家がある。
玄関までは小奇麗で神経質な印象を与える、海外の植物ばかりが植えられているその庭の犬小屋に、その復讐の相手はいた。
3
その家の家人の出自は知らないが、周り近所と馴染めないというよりは、馴染んではいけない暗い理由があると、
この家の外見を見ただけで勘のいい人は気づくだろう。まるでその主人の事情にまで忠実であるかのように、
犬は通行人が通るたびに敵意をむき出して吼えるのだ。そして、酒焼けした語尾を強く伸ばす不愉快なしゃべり方をする、
家の親父にだけ、しつけられたいい犬の一面を見せるのであった。この親父の息子は小学生のころ達男と同じクラスであった。
この家に遊びに誘われて、学校あがりの3時ごろにお邪魔した。この犬が吼えるのでドアの前までいけない。
家の人間が付き添わないとドアの前まですら来ることが許されない仕組みを作ってこの家のアホは何をしたいのか。子供心に
そう思ったものだ。
4
二階の子供部屋へ案内された。その日はよく晴れていた。熱帯魚のエサの、木屑と動物の糞の混じったような匂いの充満
する暗い階段を上がると、古い洋服ダンスをオレンジの西日が照らし、夏の暑さとも少し違う春の夕方の暑苦しさを感じた。
その部屋でこれから行う遊びは、Tvゲームだった。その時代はスーパーファミコン全盛のころである。
レースゲームだかシューティングゲームだかよくわからないものを、その家の息子(Cとでも呼ぶか。)は始めた。
だが30分ほどCがプレイし、体育座りして暇をもてあます達男にプラスチックの鉄アレイにボタンのついたような物を貸すと、
慣れない新しい遊びはどんなものかと気楽にボタンをペチペチ押す達男に対し、ああでもないこうでもないと、
「ゲームの先輩」として教えたがった。達男はこの経験以来、新しいことに、無防備に、自由な開放的な気持ちで臨むこと
がなくなった。退屈な30分を、何もせずに待つことを覚えた。そして夕方になると、達男は犬にほえられながら帰った。
この幼き日の経験を、雷雨の日の達男は思い出し、行動=復習 の念に駆られた。その念を発酵させた種床は
体育座りで失った30分×nであったか?それとも子供の気持ちで臨むことを許されなかった、本来自分が得るべきであった
少年時代の楽しい経験たちの、お蔵入りしてしまったことによる恨み節であったか。Cの顔に一発パンチでも食らわして、
その日はサッカーでもすればよかったのに、そうしなかった幼き日の自分の怠惰へか?やはり、これらすべての
ブレンドか。達男はビニール傘を閉じ、ソフトボール大の石を拾った。ここで蹴りをつけなければ、時計は進まないのだ。
5
石を強く握り締めると、掌から血が流れた。血は、皮膚に覆い隠された真実。真実が達男の眼前まで出向き、言った。
「よろしい。やりなさい。」と。達男は心強さに身震いする思いがした。この心強さ、尊敬したものに背を押される
感じに達男は陶酔した。今まで出したことのない力が、ゼリーのように震えながらブリュブリュと昇ってきた。
その力が消えた。一瞬サイレントの世界になった。石がゆっくり自分から遠ざかっていった。なんだ、自分の力は
こんなものか。これでまた日常に戻るんだな。こんな妙な天気だから、ちょっと自分が強くなった気がしただけ
ヂッ!!・・・・・・・・・・
犬の頭がなかった。
6
犬は胴体だけになった体で、驚いたように砂利の地面をカリカリカリッと足を空転させながら掻いて立ち上がった。
千切れた首の切断面にかろうじて引っかかっていた首輪がポトリと落ちた。水浴びをしたあとのように、
前足をのばし、しりを突き出した姿勢で胴体をブルンブルンと振るった。家の白い外壁や、ガーデニング用の陶器の
ハンプティダンプティに赤いインクが細く横書きにされ、筆記体で書かれた優雅な文字に見えた。
そして、犬は自らの尻尾を追いかけ、ルーレットのように回り始める。犬は一大事になったときには、めまぐるしく動いては
跳ねるように上を向いてほえる、そしてまたあたりを駆けずり回る・・を繰り返すものだが、この犬にはもう
ほえる為の頭部がない。それでも、胸のふいごはあばらが浮き出るほどに膨らんでは、しぼみ、その度に声の変わりに
血液と雨、空気が混ざってフシュボ、フシュボと首から吹き出るのであった。
「ルーレットが止まったら、今度はそのほうを向いて一直線に走り出すなこれは。」深い集中状態にあり、未だ半分サイレントの
達男には、これから起こることが手に取るようにわかった。
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昨日までの達男なら、ルーレットよ、自分に向かって止まらないでくれ。雑用を増やさないでくれと願っただろう。
だが、不思議な感覚だった。もっと自分にとって過酷な状況を望んでいる。今で言えば、首のない犬が自分に向かって
駆けてくることを。今この時間は、人から与えられたものではなく、達男が自分の手で作り出したものだった。
与えられたものは、ときに快楽ですらうっとうしい。「しなければいけないこと」に、いいものと悪いものの区別は
なく、ルーティンワークである。翻って、自分の手で作り出した時間は、たとえ苦痛であっても、もっと欲しい、もっと欲しい、
その時間に酔い、目をカッと見開いて、周りの空間をムンズとつかむようにしてすごす充実の時間は、快不快を越えたところに
価値があった。
やはり犬は達男に向かっていった。達男は、小便を漏らすかのように脱力した。恐怖によってではない。
これから最大のエネルギーを犬に与えるためにだ。左足を地面に据付、右足に力をかける方の長さを増やしていき、
作用する長さを縮めていった。これで、大きなレンチがボルトにえげつない力を与えるように、人ではない力を出すことが
できることを、さも当たり前のように閃いた。左足は右足が振られるその最後のときまで動いてはいけない、左足が
動くと地面の反力を与えられない。こんなことまで本能的にわかった。「怒り、力み」が、自然に答えを出してくれた・・・
上を見上げると、手足が布のようにブラブラとして、宙高く犬があった。犬が空中にあるうちに、達男はきびすを返し、
傘を拾って走り出した。
8
達男は走った。空気が冷たい。冷たくて、アスファルトの塗れたとき特有のプールの消毒の様なにおいや、
行灯をぶら下げる焼肉居酒屋の砂糖醤油の焦げるにおい、行きかうサラリーマンの歩きタバコの副流煙といった、
通り過ぎる景色とともに肺に入ってくる人の息遣いそのもののような命のこもったにおいが心地よかった。
だんだん、肺が四方八方に引っ張り伸ばされる感覚になってくる。これも心地よかった。腹が減ったときの飯が
うまいように、肺を存分に使って呼吸し、躍動して動いた状態の肺で吸う空気はとてもうまいものだと感じた。
「今日はすでにいろいろあったけれど、うまい空気を吸う方法がわかっただけでも収穫だな。」
走りながら、達男は声に出していった。それをきっかけに、呼吸が息を吸うのと吐くのと2回ずつになり、
ハッハ・ハッハ・ハッハ・ハッハという息遣いになり、やがて達男は足を止めたのであった。
犬を殺したことも、つまらない学校のことも、もうどうでもよくなっていた。まるで些細なことを
考えるための脳の領域が、走っているうちにポロリと落ちてしまったように。
9
達男は帰宅した。母がおり、居間のテーブルに針金やら布やらを並べて趣味の造花を作っていた。
普段は母とまともに言葉を交わさない達男であった。変わらない日常の一パーツの最たるものとして、ぞんざいに
扱われるべきものだった。しかし、この日はもう、会う人会う人それぞれの人の価値がパッと思い浮かぶ不思議な
高揚感に包まれていたので、達男にはその女性が幼い日の自分の顔を知っている近所のお姉さんのように見えた。
半開きのドアから顔だけ斜めに出して、「ただいま。」と言うと、小走りに風呂場へ行った。
風呂に入ろうとズボンを脱ぐと、、手の怪我の他にも、くるぶしやら踵やらに4箇所の靴擦れが出来て血がにじんでいた。
「アンクルソックスでなく、すねの辺りまで長さのあるものだったら、これが2箇所ですんだのに。」
こう思うと、アンクルソックスが、 弱いくせに発言権を持って偉そうにしてるやつ そのものではないかと思えてきた。
自分の周りからこのテのものは排除しなければ・・。なぜならこれも不潔な精神だからだ。拇指球のあたりのちょっと
磨り減ったところにつめを引っ掛けて取っ掛かりを作ると、今度は指の腹でしっかりともってビリッと引き裂いた。
右の手のひらから再び血がにじんだ。人差し指の付け根付近が裂けていたが、知らぬ間に傷は塞がり、竹炭のような質感の
かさぶたが張っていたが、それが再びルビー色に燃え出したようだ。
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湯船につかりながら、なぜ今の自分は人と会うのが楽しいのだろう?と考えてみた。蓋を取られた湯船から立ち上る湯気
が、鏡と窓を白くコーティングする。自分の腕の細い体毛にもごく小さい水滴がついている。風呂場のルールは温水が作っている。
すぐに思いついたことは、普段は脆弱な周りのものが生きられるように社会(弱者が生きながらえる装置)の自分の役割を
果たすことに注力を強いられるので、無償労働を延々やらされているような気持ちで日々過ごしていた。その人が野性的には
強者であればあるほど、社会で過ごす際での無償労働感は強く募る。弱者であればあるほど、社会という延命装置につなぎとめられて
生きるのが心地よいからだ。強者の倦怠感は、延命装置によってではなく、自分の呼吸器、循環器で生きたい、という
本能の欲求である。 (右手を湯につけた。切れ味の鈍い刃物で刺されるような痛みがしばらくあった後、消えた。)
この欲求が満たされない限り、自分以外のすべての人は、邪魔者でしかないのだ。気を使ってにこやかに接し、腹の中では
「消えろ。触るな。お前らと触れ合わないのが何よりの報酬だ。」と思う。これがいつもの不機嫌の理由だ。
では今日はなぜその気持ちが沸き起こらないのか。行動を起こしたために、まわりが「俺の国」へと染め替えられたのだ。
国民たちよ、俺のためにありがとう。大人気ない俺に付き合ってくれて・・・。恩返しに、せめてやさしく接しなきゃな。と。
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翌日の朝は早くに目が覚めた。床についてから、朝までの時間が切り取られて、この早朝までタイムスリップしたようだった。
いつもなら、起きた瞬間に全身に肩こりのような鈍磨感が割り箸にまとわりつく綿あめのようにそばにあり、
なかなか布団から出られない。しかし今朝は、起きた瞬間に、シャッターを開いて朝日が差し込み埃っぽさが一気に
消え去る車庫のように脳はクリアーであり、眼球は今しがたまで美しいものを見つめていたように潤んでいるのだった。
グレーのスウェット上下のままで、達男は外に出た。まだ電柱の明かりは黄色く光っている。あたり一面に
水色のエフェクトがかかったようになるのが早朝の特徴だ。空気が水気を含んでおり、呼吸のたびにシャワーを
浴びたような爽快感がある。新聞配達のカブは少し前に家に暖かい新聞を届け、行ってしまったようだ。
エンジンオイルの混じった排気の、ちょっと祭りの縁日を思わせるにおいが残っているからだ。
そのにおいから遠ざかろうと、2歩、3歩と足を動かすうちに、軽いジョギングを始めていた。
達男の頭に電気がピクッと走った。物事を始めるって、こういうことなんだ。憧れて、恐れて、尊敬して、
知識を蓄えて座り込み煩悶して準備にはげむ・・・そうやっても、結局はじまりはしない。
昨日雷雨のなかを駆け抜けたから、そのいい思い出が足に残って不図したきっかけでジョギングが始まった・・・
ここで大切なのは昨日走った、ということだ。とりあえずやってみてから、足りない部分を補うことを準備というんだ!
走りもしないうちから走ることはどういうことなのか本を読み、モニターにかじりついて知識を蓄えても、
それは準備ではなく、むしろ走ることから横道にそれていく行為なのだ。
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走っていると、この時間がこのまま終わってほしくないと思う。普段は時計を早送りしたいと思ってばかりなのに。
いろいろな物が目に入ってくる。そして、そのどれもが価値のあるように感じる。黄色い花が自分に向かって
咲いていたり、くもの巣に朝露が無数につき、それが朝日に照らされてネックレスのように輝いていたり。
早朝なのでまだ人はまばらにしか出歩いていないが、その一人一人が、何か重大な目的を持って生きているように
感じる。「選民」そんな言葉が頭をよぎった。
血の巡りがよくなり、頬が紅潮して来た。冷たく硬くなったゴムが、熱と揉み解しによって柔らかさをとりもどすように、
全身が適度な湿り気をもっていた。30分ほど走り、もう辺りに水色のエフェクトもなくなり、日中と同じような空気になってきた。
達男は空中にあることが多かった靴をもとのペースに落ち着かせた。走りから歩きにすると、それまで後方に流れて見えなかった
呼気がカキ氷のように空気中に削りだされては細かい渦を巻いて消えた。日中は車の堪えることのない国道沿いにコンビニがあった。
人語のない自然の世界はとりあえず堪能したので、そこに入って休憩することにした。車は、まるで来ない。
「何のために舗装したの?俺が今日コンビニ行くため横切るために?」 愉快になった。ズルしたのにばれなかったときのような、
落ち着かない喜びが沸いてきた。このまま何か悪さをしてみたいな。ちょっとした悪さを。そんな気持ちでコンビニの出入り口の
LP盤のようなまるい取っ手をグイと押すと、煙草が目に入った。
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一歩店内に足を踏み入れると、パンポーンと玄関チャイムのような音とともに、消毒のアルコールのようなコンビニ独特の
匂いが鼻をつく。人が居つく場所にはどこもわざとらしい匂いが漂っている。「臭くしてないですよ。この香りなら清潔感
あるでしょ?」といわれているようだ。この時間帯は、店内もどこかけだるく、商品陳列にいそしむ慌しさや客同士がすれ違う
際のお互いが避けたい緊迫感はなく、いうならばすっぴんの状態の店を間隙を縫って侵入してやった、という感じが強い。
そのためか、店員も心なしか不愉快そうだ。ジョギングの爽快感を経て、気持ちと体が上気した達男にとって、その視線は
敗北者からの羨望のまなざしに見えた。体が温まっているため、動作の一つ一つが粗野になっていた。少年チャンピオンを
ガサッとつかんで立ち読みする。50才くらいの小柄な中年が入店したが、意に介さずに大またで立ち、通路をふさいで
ときおり体をゆすりながら、漫画を読み進めた。台詞の少ないものだけ読んだ。外の景色はいよいよ白んできた。
レジにライターだけ持ってゆっくり歩いて近づく。店員は、リストラに遭ったであろう、50代の背の低いやせた男だった。
客商売の経験は彼の人生でこれが初めてだろうというのが見て取れるからだ。例えるなら、アイロンのかかっていないワイシャツだった。
腕を組んでカウンターにもたれかかり、先ほど入店した自分と同年代の男と話しこんでいた。二人の力の抜けた立ち方、
「ガヤァ」という老いた生き物特有のだらしない音声が漏れるところをみると、毎日この時間にあって話をするのが
楽しみ、といったところか。
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店員の胸には「こばやし」と名札があった。おっさんとの会話を仕方ないなという具合でひとまずやめ、
達男のほうを見て「いいよ。」と言った。この態度から、客である自分とこいつとのコミュニケーションが
かみ合うはずはないな。どんなドタバタが待っているのかな、と、達男は他人事のように期待しながら、
「ホープ」と右斜め上に目を逸らしながらつぶやいた。「そこにあるから自分で・・ゴニョゴニョ・・」
頼まれたのだから、たとえ客の近くに商品があっても、店員が取って渡せばいいのである。こいつが会社から
切られたのは、仕事に対して万事この姿勢だったからだな。と、妙に納得した。
達男は微動だにせず、「ホープ、ひとつ。」とだけもう一度いった。
「カートンなんですか?」といいながら、そいつは大箱の封を切ってカートンを取り出し始めた。
自分まで低脳になる気がしたので、達男は手を伸ばしてホープを取り、カウンターに投げた。
コンビニから出ると、もう国道には砂利を積んだトラックが行きかっていた。
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すすきが生い茂る砂利道をあるきながら、達男はホープのフィルムを開けた。ホープは大多数のタバコとは
違い、パッケージがアーモンドチョコのようなスライド式になっている。ぎゅうぎゅうづめになったその十本を
見ると、かつて見慣れていたが自分の身近ではなかった整然とした大人の道具、それが実に小さいものだったのかと、
拍子抜けのような、気楽さのような、とにかくその一本を銜えて火をつけた。歩きながらだとライターの炎がなびいて
火がつかないので、足を止めて左手でタバコを囲う。思えば、子供のころ近づくな、とか、挨拶してから入れ、とか
教えられた場所、学校の教務室だとか、大人の部屋だとかには、いつもこの香り、甘酸っぱくちょっと渋い煙っぽさの
あるタバコと、香料、そして梱包の銀紙の混じったにおいがしてたっけ。一口吸い込むと、コーヒーの風味が舌に乗り、
少し遅れて小学生のときラジオ体操のあとに味わった、体がほぐれて浮遊感を感じ、トロンとなるのを感じた。
「あぁ、これ?これがやめられないのね・・。」休憩時間ごとにラジオ体操するわけにはいかないもんな。
右手にはすすきが人の背丈ほどに生え、左は道のすぐそばにもう住人のいないこげ茶色に煤けた木造の家屋が並んでいた。
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達男は吸い終わったフィルターを農業用水路に捨てた。ポイ捨てをするときはチラッとこれから捨てるものに目をやり、
2~3秒逡巡し寒いような興奮が徐々に沸き立ってきて、指の力を抜いてポトリとそれを落とすと、もうゴミには目をやれず、
一刻も早く立ち去るための推進力のようなものが生まれる。年齢を重ねるごとにこの一連の感情の変化の起伏は穏やかなものに
なってきている。うーむ、何か足りない。今朝の行動の中で、遣り残したことがまだある。今の自分は、昨日から人生が
いまどう向かっているのかということに敏感になっているので、家に帰り着くまでに何を遣り残したのか、そしてそれを
近いうちにどう取り戻すのか、考えることだろうと達男は思った。カラスがぐゎーぐゎーと鳴き、わっさわっふさと
空気を蹴る音で低く飛んでいった。人気がないので、幾分攻撃的になって、文字通り羽を伸ばしている。
左手の古民家の連なりは終わり、今は梨畑沿いの農道を歩いている。直線で、その先には昨日復讐を果たした住宅街だ。
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梨のみずみずしい香りの楽園がおわり、日常の ケ を感じさせる排気ガスや朝シャワーのシャンプーのツンとする
においの住宅街に入る。今朝はよく晴れているが、アスファルトはまだ生渇きで、少し生臭いようなにおいがする。
植木の枝の合間から、もう黄色く登ってきた朝日が通過してきており、黒い地面に鮮やかな絵の具を置いたような
スポットをところどころに作っている。青い金網の例の家が見えてきた。今朝すでにいろいろな経験を済ませて、
肝が据わって覚醒していたので、なんらの罪悪感も、ぎくりとする動悸も感じなかった。それどころか、
もう済んだことだ。これからのほうが大切。邪魔するな。視界に入るな。邪魔。この尊大な態度であった。
後ろめたさを感じそうだと思ったら、何かほかにインパクトの強い経験をその前に済ませて、後ろめたさよりむしろ
攻撃的な精神をぶつければいいんだな・・・。また達男はひとつ学んだ。青い金網の家の玄関付近にいると、
昨日の興奮がウソのようであった。否、昨日の自分が自分でない未熟な誰かに思えた。今日の自分なら何も興奮せずに
昨日と同じことを行えるだろう。昨日の風雨で犬の血液もあらかた洗い雪がれていたが、よくみるとアスファルト
の表面のまだらな凹凸の凹の部分には赤黒く色がついている。昨日、という過去に対して、これほどに懐かしい遠い過去
に対する感情をもつことは、今までになかった。達男は、この感情を毎日持ちたいと思った。
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達男は自宅に帰ってきた。玄関のドアノブに触る。氷のようにひんやりとして、朝露でじっとりと濡れているそれを、
右の背中をグッと後方に引いて開けた。力を込めるとドアノブに手のひらの体温が奪われて、扉が閉じた後のそれは
白く曇りができた。靴の裏でもう片方の足のかかとを踏みつけ、手を使わずに靴を脱ぎ、つま先に引っ掛けて適当に
たたきに放った。下駄箱の上に鎮座するとなりのトトロの置時計は、7時10分を指していた。あと5分ほどで
学校へ向けて出発しないと間に合わない。今までの達男なら、シャワーを浴びていないし、ワックスで髪も整えていない
今の状態で登校する気にはさらさらなれず、その日は学校を休んで一日をゲームのレベル上げで過ごしただろう。
しかし、常識やら、マナーやらに屈して自分の行動を制限することは完全な敗北なのだという赤く腹の底で沸き立つ
スピリットが、雷雨の昨日から、その火力は強くなりも弱くなりもすれ、渦巻き続けていたのであった。
達男は朝日が針の集合体になって差し込み、わずかに舞い上がるほこりを明るみに出す階段を、小気味よく
太鼓をたたくリズムで駆け上り、スウェットを引っ張りまわすように乱暴に脱ぎ捨て、トランクスとTシャツ一枚で
自室に入った。ほうら、臭ければ5分で準備ができるぞ。臭ければ5分で準備ができるぞ。
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ワイシャツにネクタイもせず、ブレザーに袖を通し、ブレザーの前面を腕でがばっと後ろに押しよけてズボンを
履く。昨日家に帰ってきてからベッドの横に投げっぱなしの、泥やら雨の水分やら、畜生の血液やらを吸い込んで
雑巾のように生臭くなったかばんを携えて、家の中にいるというよりは障害物競走でもするかのように階段から
玄関へと転がり落ちる気分で外へかけ出た。スエット着てるときと、何の気分もかわんねーぞザマミロ!
玄関から外に出ると、今日の朝日を制服を着て出てきた自分がすでに知っていることに、優越感を感じた。
みんなはどうだ?ほら、あそこ歩いてるサラリーマン。背広きて外に出たとき初めて、今日の朝日に目を
細めたんだ。あの下を向いて集団登校する小学生も。みんなだ。俺の一人勝ちだ。あいつらみぃんな今から
つまらん人生が始まるんだ。俺はすでに今日の人生を楽しんだ。これから電車乗って学校行って生活して・・
っていうのはいわばアディショナルタイム、おまけみたいなもんなんだ。どう転ぼうが、少なくとも損じゃない。
シジュウカラがチチッと鳴きながら横切った。それを追いかけて首を左に振ると、住宅のカーテンの閉まった窓ガラス
に自分の顔が映った。髪の毛は油と汗でべったりと湿って頭に張り付き、口角がつりあがることによって頬骨の下に
影ができていた。目は、鏡越しにもわかるほどにギラリと金属的に輝いて周りの皮が固まっていた。
なんだろう、目に映る人みんな、幼稚園にいく子供に見えた。それにこれから自分が混ざっていくことに不思議を
感じた。いままでの外での行動の遠慮は緊張感、周りの人間が、自分より多少なりとも価値で上回ると感じること
による、いわば子供の緊張感だった。もう、それを感じることはないんだなぁ。こう考えているうちに、あっという間に
達男は電車に乗り込んでいるのであった。時間は早く歩く自分に合わせて早く進んだ。
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木琴と思しき音色で、ポンポコポンポンパンポンパロラリロン と発車を知らせるメロディが流れた。
プシュウゥーーーッ! と長めに空気が漏れる音とともに、銀の軽金属の扉は前歯をかみ合わせた。
清潔な車内の、床清掃が済まされたアルコールの匂い。OLや女子学生の化粧品の匂い。歯磨き粉をたくさん使うのが
好みの人が乗っていることによる、ミントの匂い。サラリーマンが控えめに広げて読む新聞の、重く鼻に
付着するインクと、乾燥した草のような紙の匂い。ここまでは完全に毎日と同じ、申し合わせたようなルーティンの
朝の列車という生き物だった。そこに混じる早朝ランニングの生渇きの汗が体育館に収納される器械体操用マット
と駄菓子の酢だこさん太郎を組み合わせた臭いは、生き物を侵そうとする病原菌のような、異質で、常に存在を知覚させ続ける
ものだった。その車両に乗り込んでいる乗客のうち、誰も達男に目をやるものはいない。まるで学校の先生が、「この問題がわかる者?」
と教室を見回したときに誰も挙手せず、誰か適当な生徒を指して答えさせようとしているとき、自分には声がかかるなよ、と願う
生徒一同のように。それまでくるくると循環していた空気が固まり、ひび割れ、小刻みに震える心室細動を起こした心臓のようになった。
達男が入ってくるまでは、列車の床が、椅子が、吊られた広告が、乗客ひとりひとりが心臓を構成する細胞となり、
空気を循環させていたのに。今では完全にガラクタと化してしまった。外の日差しはさらに黄色さを増した。線路沿いに
聳え立つ石垣の意思の隙間から生える苔の緑に水滴がつき、そこに黄色い日差しが与えられて黄緑色になった。
この美しい光景を、列車がそこを行き過ぎてからも思い浮かべているうちに、車内が不自然な空気になっていることを、
達男だけは忘れた。列車は4駅目に到着し、達男は降車時にチラッと扉横の2人掛けの席に座る自分とは違う学校の女子生徒がカチカチ
やっている携帯電話の画面を見た。「・・・・・・・・・最・・・・・クサ・・・・・・・」
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最は最悪、クサは勿論 くさい だろうな。今頃あの女子生徒は「あーやっと降りたあのクッサイ奴。朝からホンとムカツク」
などと友達に送信してるんだろうな・・。ホームはお日様と風に対してふきっさらしに露出されているので、薫風を
肌で感じて心地よかった。この心地よい環境の中、自分が嫌われ、憎まれるというのを自覚した気分というのは、
スイカに塩をかけてさらに甘くなるように、空気の心地よさをさらに増すのであった。
達男は深い藍色が汚れでもう一段階深い色になった鞄を開いた。日光が鞄の中に差し込み、ファスナーのギザギザ
が陰になって鞄の中身に刺青された。 ノート・・ワックス・・ホープの箱・・消臭デオドラント。
これをさっきの女子生徒が見たら、「いや、そのスプレー使えよっ!」とか眉毛を中央に寄せながら、顔を
達男から背けながら言うだろうな。 「でも使わない。」そういいながら達男はブッ!と吹き出した。
人の流れは太い列をなし、朝食を待ちわびるホームの地下通路の入り口に食べられていった。
その人の流れの密度が疎になるにつれ、駅の空気は朝から昼へと替わって言った。飲み込まれていった人は
朝のままだと感じているだろうが、その様子をみつめる達男は昼だった。
達男はデオドラントの有効活用法を思いついた。自然としたまぶたが膨らみ、眼球を押し上げた。
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達男はひっきりなしに人がもぐりこんでは排出されるしょぼいジェットエンジンの模型のような改札を抜けた。
駅の敷地内から一歩出ると、日陰でも明るかった日の光がぱぁっと音を立てて降ってくる様だった。
この日差しのうるさいくらいの感じは、受動的な生き方をしていたときは、つまらない一日の始まりを告げる
忌々しいものだったが、今日は歓迎のファンファーレが鳴り響くのを思い浮かべた。
それによって、これからやることにはずみがつき、なんの疑問も迷いもなくなった。カバンのファスナーを
ナイロン製のゴワッとした生地を直接引っ張ることで強引に全開にした。カバンの中身がドサカコンパラバラと
音を立てて地面に転がり落ちる。その中から、デオドラントの銀色の筒を拾い、目の前の車道に投げた。
右手から、スバルサンバーが走ってきた。デオドラントは、中に液体が入って偏心した物体らしく、縦に不規則に回転して
サンバーの右後輪へと滑り込んだ。 ボンッ という音とともに、サンバーは走りながら車体後部が10cmほど跳ねた。
何事もなく走り抜けていったが、その小動物の戯れのような軽快なギャグっぽい動きに、達男はあまりにも車を感じず、
漫画の一こまが目の前に飛び出してきたのかと思った。と、同時にこの太陽の日差しに報いる捧げものを実際に自分が用意した、
恩に報いた達成感を感じ、それらが合わさって愉快でならなかった。カバンの中身を再びすばやく拾い上げてつめ、
早足で歩き始めた。
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8時10分くらいまでに学校に着けばよい、達男は公園で少し休んでいくことにした。鳩がゲートボール用のフィールド
にはいって何者かを摘んでいる。そのすぐ横のベンチに達男は座った。カバンのファスナーをジイッと開けて、ホープの
箱とオレンジ色のライターを取り出す。タバコに火をつけると、フォーーッと落ち着いて息を吐きながら真上を見つめた。
分厚いフィルムのような木の葉、広葉樹の葉が、まばゆい日の光に透過されて黄緑色に生命力を発露している。
木陰の公衆便所には、先ほどまでスケボーに興じていた同年代の若者が入っていった。達男はまた紫煙を吐きながら
目を細めてそちらを見やった。おもえば、ここは昨日息を切らせながら横切った公園と変わらないような、何の変哲もない公園
だなあ。もうここで落ち着いて煙草がすえる。自分が煙草を吸っているベンチ、その上にある広葉樹、その木陰の範囲、
広がる、自分の吐いた煙。それに気づいて、若い母子が逃げるように 「ほら、帰るよ。」と赤ちゃんに言い訳がましく
話しかけ、公園から去っていった。ホープはすでにフィルター近くまで減ってしまった。と、後ろから
人の気配を達男は感じた。
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振り返ると、広葉樹の葉っぱの隙間から鋭く差し込む光が、人の形に遮られ、男の顔面をぼんやり薄暗くさせていた。
達男はタバコをベンチに押し付けて消し、立ち上がって公園の出口へ歩いた。男はこちらについて歩いてくる。
「間違ってるよなぁ。」 達男に話して聞かせるようにわざとらしくつぶやいた。チラと背中に目をやると、
身長は達男よりずいぶん低く、細面で、やせているためか頬骨が出っ張っている。髪はセンターで分けて
肩まで垂らしていた。オレンジ色の上着を着ている。達男が振り向いたのを確認すると、男は穏やかな落ち着いた様子で、
こんな事を語った。
覆い隠されていた、世界の不都合な部分。それを隠しそびれて、とうとう俺の目に映ったぞ。
「いい人?常識的な?社会を存続させるために?社会って何だ。人か。どんな人だ。弱い。弱すぎる。社会を作った男と、
社会を保つ男、違う。あまりにも違う。こんな弱いやつを作るために、男は社会を作ったとでも?俺がその男なら、
壊してもう一度作る。自然にあまりにも勝ててしまう者が、誇示するために、戯れの為に、作ったものが社会なのだ。
然るにいまは何だ?ここに生きているものに、自然に勝てるやつが何人いる。お前らが理屈をこねて得意になっている
その上に岩が降って来たら、社会的に認められているほうが生き残るのか?社会を存続できなきゃ自然の中で生きれない
私たちが困る?笑わせるな。俺は、どっちでも生きられるんだぜ。頭下げて頼み込むのは、お前らのほうだ。」
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そういい終わると、男は傍らに置いてあったコンビニのおでんの大きい容器を持って、つゆをこぼさないように
ゆっくりと上下動を抑えた歩みで去っていった。スニーカーの踵はよく踏みつけるのかよれよれになっていて、
靴の裏のゴムが部分的に取れかかってひらひらしていた。達男は彼と別れた後、公園を出て登校するのだが、
その道中、横断歩道の信号が青になるのを待っている間、暇をもてあまして信号器のぶらさがっている高さ
は3mくらいかな、などと目測したり、神社の鳥居の2本ある横棒の下のほうには、ぬけを防止するために
別パーツが打ち込まれているんだなぁと思ったり、と上を見上げることが多かった。呆然、そんな言葉がふさわしかった。
今朝おきてから、走ったり、タバコを買ったりと、普段と違うことを何のためらいもなくやってきて、
自分がそれまでとまったく違う何かに生まれ変わったような新しい興奮した世界から、ようやく現実に
引き戻されたようだ。公園であった彼の、何にも属してない人間を見た衝撃。それは友達数人で遊んでいて一人が
交通事故にあったときの、肛門に寒さを感じつつ、一瞬そこにいる誰もがただ1匹の動物として野にほっぽり出される
感覚に似ていた。その彼が目をそらさずに、自分を誘い入れる話し振りをした・・。旅立ちのときがきたのだった。
あと1回布団の中で意識から解放されれば、もう学校生活にも自分の将来にも思いを馳せることはないのだ。
そしてその旅立ちは不可避だった。教室の自分の席に着いて授業を聞く達男は、そのことを思うたび
目頭が熱くなってしょうがなかった。涙がひくと、海辺の塩気のある風をうけてあごをしゃくりあげ、太陽に
慰めを求めた情景を浮かべた。自分のすべてを洗い流してもなおお釣りがくるほどだった。
この日は暑い日だったのに、その暑さは「最後の日だ。忘れるなよ。」といわれている様で、美しい美しい
別れの写真を次から次へと与えるために、あつらえられたものと解釈できた。
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結局達男はその日、二限目の体育の授業には出ず、そのまま帰宅することにした。帰る間際、誰もいない教室を見回すと
、機嫌を損ねさすものが目に入った。円藤の注射器である。円藤は先天性の持病で注射器が手放せない。
この男は学業に熱心で、先生からの信頼も厚い。体がつよいという、尊敬すべき人間の自然性を放棄しつつ
高い評価を得ているのは、社会の滑稽さそのものだった。達男はつかつかと歩み寄り、ためらいなくガラス製の注射器を
床に落とし、カラカラと音を立てて弾んでいるそれを靴の裏で圧して動きをいやおうなしに止めた。
ガリッ!ボソソ・・と、ガラスは自らに強いられたのろわれた仕事から解放されたのだった。同時に、クラス全員と、
円藤自身も、病に負けない、という呪いから解放された。円藤はやっと人間になったんじゃないか?
達男は見抜いていた。彼はもし健康に生まれていたら勉強以外をやっている。医者が彼を助けたら、円藤は社会に報いる
しかないじゃないか。病人が恩返しした社会なんて湿っぽくていかんね。もっと、カラッとした人間が回さなきゃ。
達男はコンバースの靴を吐き、学校を後にした。授業中の学校の玄関は、休日の無人の学校より静かだ。
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お前らの言ういいことはなあ、養ってもらうこと前提なんだよ
養ってもらってるザコどもの社会に当てはまらないことなんて怖くない。砂のお城より砂浜で生きるのだ。
社会なんてなんにも怖くない。
昨日の公園の男がこういっている夢を見て、達男は目覚めた。今朝も早起きだった。ランニングに出かける。
今日はコンビニによる前に、テニスコートに寄った。蛇口を捻って数秒後にうねって出てくる水を飲む。
起き抜けに走って乾燥した口中が生き返ったようになる。朝の冷たい空気とつめたい水、閃光のような朝日
の刺激があいまって、軽い頭痛がした。それもまた心地よいものだった。胸の辺りに走った後の息切れの温かみ
を感じると、体が目覚めて動き出すスイッチが入ったように便意をもよおした。隣接する公衆便所に入る。
ツンと鼻にまとわりつく虫のようなにおいに不快感を感じ、とっとと済ませて出ようと思った。一番奥の個室
の木のドアをあける。ギチチ・・とちょうつがいの金属と木材がこすれあう音がしてドアは閉まる。
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2cmほど開いた、ガラスサッシの窓から日の光が取り込まれているが、それでも薄暗い。ズボンを下ろして
和式の便器をまたいだ。出てきたそれは、いつも2-3日おきに出る石のように固く肛門に痛みを誘発する
それではなく、柔らかなシルクのような質感で、油でコーティングされているかのようにするすると滞りなく
象牙のような白い陶器の便器に着地した。それを見つめる達男の心境は、地図を眺めながら見知らぬ土地を
歩き回り、目的地がようやく小さく見えてきたときの興奮と安堵に似ていた。
そして、昨日自分に失礼な態度をとったコンビニ店員への落とし前をつける手立てと、このシルキーブラウン
を流してしまわずに有効活用することが、いま達男の頭の中で駆け抜けながら交差し、火花を散らした。
窓から差し込む光がけだるそうに照らす先にある便所掃除用の軍手を拾って両手にはめる。
その直後に、達男は人糞を手で持つとずっしりと詰まった重量感があるということを知っている数少ない人間に
なった。
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平静を装い、何事もないかのように公衆便所から出る。ドアノブを左手でまわすのは難しかったが、体を左に
よじって何とか開けた。幹につたのはったポプラの木。便所を見つめるその木だけが、達男が右手に異様なもの
を握っていることを知っている。テニスコートでは、達男が便所に入ったときよりも激しい音でスカポーン! スカポーン!
と打ち合っている。左手はすっかり冷えてしまったが、右手はその握っているものの熱でほかほかと暖かい。
握りつぶさないように注意して走り出す。朝日が真正面にあってまぶしかった。道もうっすらと黄色い空気が乗って
いる。コンビニを回り込むように道をとり、出入り口から見えないほうの道から近づく。
いま、ランニングはそのものが目的ではなく、ひとつの手段になっていた。5~6mの高さに聳え立つ支柱の先に
コンビニの看板がある。見る見るうちに近づいていく。ちらっと後ろを確認する。人も車もずぅっと後方に
いたるまで見えない。振り向いてすぐに力を込めた。周到に準備し、いまだ!と決心してからの行動には自然と
力がこもりすぎるものだ。やわらかいものを投げたのに、ゴォーンとあたりに響く音がしたのは意外なことだった。
ひとまず看板から遠ざかるように、もと来た道をきびすを返して急いでたどった。信号を渡って国道を横切るとき、
今日の成果たる看板を遠くに見やった。確かに確認できた。その看板の白、暖色、寒色の3色に、不自然に
付着する均一な茶色を。
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この行動によって、達男はコンビニを超越し、さらにコンビニで買い物をした昨日の自分を超越した。
TVゲームのレベル上げが生活に欠かせなかったように、この毎日の自分自身の成長を実感することが、彼の
生活に欠かすことの出来ないものになっていた。もちろん、もうゲームはしていない。
学校に行く途中に、またあの公園によった。オレンジ色の上着の小男は、達男が公園に数歩足を踏み入れると
背後に立っていた。それに気づいて振り向くと、彼はかがみこんだので視界から消えた。何かに足をぶつけたような
痛みがすねに走った。驚いて下に向かって眼を見開くと、彼は達男のすね毛をむしっていた。
「何すんの!?」 男はニヤリと目じりに3本のしわを刻むと、カルピスの缶を飲みながらズリズリと音を立てて
ベンチへ歩いていった。
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ベンチで男と並んで座る。男の肌は達男が見たことのない異質なものだった。均一に陶器のような質感の茶色
であり、深く刻まれたしわは、皮膚が重なってできたものというよりは、はじめからしわの形で固定されたように
硬かった。彼は達男の目をうれしそうにのぞきながら話し始めた。その目は達男を悪い人間だとまったく疑わない
目だった。若い男なら、みんな同じでかわいい、そう言っているようだった。男は身の上を話し始めた。
妻がいること、今日もこれから妻を食わせるために日雇いに出かけること、羽振りのよかった時代には、
とある会社の社長として埼玉スーパーアリーナの建造に携わったこと。そして、「今は罰が当たってこんなことしてるんだ。」
と締めくくった。カルピスを飲み終わると、彼と達男は別れた。「楽しかったよ、ありがとう。」お互い笑顔で
別れたのだった。達男は安心して、自分の人生のスタートを切った。
おわり
今作は全てがフィクションと言うわけではありません。
知らない幸より知る不幸 がこの作品のテーマです。