急行
翌日、暗い雲が広がっているが雨は降らなかった。
視察も何事もなく大仰なものではなかった。
市場を歩き、倉庫を覗き、役人の話を聞く。
街の舗装、物価、治安。
それらを淡々と確認していくだけだ。
俺たち冒険者は護衛として距離を取り、周囲を警戒する。干渉することはない。
(……思ってたより、普通だな)
貴族の視察というと、もっと騒々しいものを想像していた。
だが令嬢は、必要以上に口を出さず、必要なことだけを尋ねていた。
記録を取る侍女もいない。代わりに、令嬢自身が覚える。
それが、妙に印象に残った。
特に問題が起きることもなく、日が沈んだ。
朝から歩き通しだったせいか、宿に戻る頃には足に重さだけが残っていた。
「今日はありがとうございました。明日からもよろしくお願いします」
令嬢の挨拶でその日は解散となる。部屋に戻ると窓に雨が当たる音が響く。明日は帰路までに雨が上がる事を祈る。
翌朝。夜に降っていた雨は止んでいたが、空は低く雲に覆われていた。
湿った空気が肌にまとわりつき、地面はところどころぬかるんでいる。
宿の前庭に出ると、靴底が嫌な音を立てて沈んだ。
(……歩きにくそうだな)
馬車の準備はすでに整っていた。
御者が手綱を調整し、騎士たちは無言で周囲を確認している。
冒険者組も集まっていた。誰もが雨に濡れた帰路を憂鬱そうにしているが、昨日までの張り詰めた空気とは少し違う。少し、貴族の護衛というものに慣れたのだろう。
馬車に乗り込む前、令嬢がこちらに視線を向けた。
「帰りもどうぞよろしくお願いします。歩きづらそうですが大丈夫ですか?」
「慣れてますのでご安心ください」
代表して冒険者の一人が答える。最初と比べるとやはり少し慣れたのか潤滑な対応ができていた。
出発の合図がかかる。
馬車を中心に、昨日と同じ陣形が組まれる。
ただし、全員の動きがわずかに悪い。
湿った土。いや、泥と言った方がいいのかも知れない。踏みしめるたびに、足がわずかに取られる。
俺は後方寄りの位置につき、森側に注意を向けながら進む。
(……それにしても最悪だな)
足場が悪い戦いほど、体力の消耗も多い。それに万が一の場合を考えるとな。
午後になっても雲は相変わらず低く、光を遮っていた。
雨の影響か霧も若干出ており遠方の警戒が難しい。
街道脇の草は雨を含み、重たく垂れている。
(……嫌な感じだ)
理由ははっきりとしない。
漠然とした予感だけが警戒を強めていた。
「しばらく行けば前の野営地だ」
騎士の声で前方を向く。その声に全員が安堵の表情を浮かべたようだった。どうやら嫌な予感を感じていたのは俺だけではなかったようだ。
日が傾きはじめ、辺りは夕焼けに染まる。
――いつもよりも濃い赤。
冒険者、騎士。そして馬車の影が長く伸びる。森の影も道まで長く伸びる。森が迫ってくる感覚に焦りを覚える。
——赤。
見間違えだと思いたい。だが、あの時の赤い目と同じだと直感する。
俺は即座に足を止め、手を上げる。
「……止まれ」
騎士が反応し、馬車が止まる。
俺が森を見ているからか騎士も同じ方向に視線を向ける。森の闇を観察する。どこまでも深い黒に塗り潰されているようにそれは続く。
何かが、動いた気がした。
だが、目を凝らしても姿は見えない。
ただ——深い闇の中で影が揺れているような感覚。
いや、違う。影だ。影そのものがそこにいる。
背中を、冷たいものがなぞった。
次の瞬間。
影が形を成す。
歪に、そして人の形に形成された。
まるで騎士のような姿。漆黒の騎士。
顔は、見えない。
目に当たる部分だけが、真っ赤に光る。
「……っ!」
誰かが息を呑む。
漆黒の騎士はゆっくりとこちらに近づいてくる。
ぬかるんだ地面に、足跡は残らない。
「総員、警戒——!」
騎士の声が響く。
その場の全員が剣を抜く音が重なる。




