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短編

気味悪い舌だと追放された令嬢、路地裏で焼いたカヌレで王都を救い、毒見官様に連れ去られる

作者: 河合ゆうじ
掲載日:2025/11/11

 一番美しい焼き色は、焦げる一歩手前だと、私は知っている。


 ぱち、と小さな音を立てて、銅型の縁に残った蜜が弾ける。オーブンを開いた瞬間、こんがりとした焦香とラムとバニラの甘い気配が、狭い店内にふわりと広がった。


 外側は硬く、飴色に。中は蜂蜜みたいにしっとりと。

 その境界線を、一度口に含めば二度と忘れられないような一瞬に、私は焼き上げたい。


「……うん、今日はちゃんと“平和な匂い”がする」


 ぽつりと呟いて、木の台に型をひっくり返す。

 ころん、ころんと並んだ小さなカヌレたちは、路地裏の光を受けて宝石みたいに輝いていた。


 ここは王都の裏通りにある、小さなカフェ「ラ・フィユ・ドンブル」。

 表通りの大劇場や宝飾店から一本だけ外れた、誰もわざわざ通らない細い路地。

 けれど、その路地に迷い込んだ人が、ふと吸い寄せられるように扉を押してしまう、そんな匂いをまとった店だ。


 私は、そこでカヌレを焼く追放令嬢になった。


「おう、今日もいい顔してるなあ、セレス」


 ごつごつした大きな手が、私の頭をわしゃわしゃと撫でる。

 振り返れば、真っ白な口髭の店主ブラン・クロードが、いかつい顔をくしゃりと緩めていた。


「やめてください、ブランさん。粉、ついてます」

「粉まみれの方が、菓子職人らしくていいじゃないか」

「元公爵令嬢だったんですが」

「元、だろう?」


 悪びれもなく笑う彼に、私は口を尖らせる。

 けれど、その言葉に棘はない。痛みも、もうほとんど。


 公爵家の名も、煌びやかなホールも、宝石を散りばめたドレスも。

 私から剝ぎ取られたものは、数えきれない。


 ――あなたの舌は気味が悪い、と、元婚約者は言った。

 ――そんな得体の知れない力で、陛下や客人を惑わせるな、と、父は顔を歪めた。


 宴の最中、私はワインのグラスの縁に触れただけで分かった。

 そこに溶かされた毒の種類も量も、調合したのがどの家の薬師かさえ。

 だからこそ止めた。止めたのに。


 結果、私が「騒ぎを起こした」として断罪されたのだ。


 魔力を持たないくせに、匂いと味だけで毒を嗅ぎ分ける奇妙な娘。

 彼らにとって私は、不気味で、不都合で、消えてくれた方が都合のいい存在だった。


「追い出してくれて、ありがとう、ですけどね」


 あれから一年。

 今、私は路地裏カフェの片隅で、生地と向き合い、客の好みを覚え、夜にはテーブルを拭く。

 誰も私を“公爵令嬢”と呼ばない代わりに、誰も私を役立たずとも化け物とも呼ばない。


「セレス、できた? 匂いがもう優勝なんだけど」


 キッチンの入口から、元メイドのミレイユが顔を出した。

 栗色の髪を三つ編みにまとめた、くるくるよく動く瞳の女の子。

 公爵家で一緒に働いていて、私が追放されたとき、迷いなく「ついていきます」と笑った人だ。


「はい。今日のカヌレは自信作です」

「毎日言ってる」

「毎日更新してますから」

「そういうとこだけ元お嬢様」


 言い合いながら、焼きあがったカヌレを木箱に整えて並べる。

 扉のベルが、からん、と軽やかに鳴った。


「はーい、いらっしゃいませ──」


 ミレイユの声が、一瞬だけ途切れた。

 すぐに持ち直したけれど、彼女の視線の先にいる人物を見て、私も思わず手を止める。


 濃紺の軍服。磨かれた軍靴。無駄のない姿勢。

 短く整えられた黒髪と、灰色の瞳。


 若い。二十代前半だろうか。けれど、纏っている空気は妙に静かで冷えていて、戦場の夜風みたいな匂いがした。


「いらっしゃいませ」


 私がカウンターから出て一礼すると、その青年は視線をさっと店内に滑らせ、席ではなくカウンターの前に立った。


「カヌレを、二つ」


 低く抑えた声。迷いのない注文。

 けれど。


「……当店のカヌレは、かなり甘めですが。お口に合うといいのですが」


 営業用の笑顔でそう添えると、彼はほんのわずかに眉を動かした。


「甘いものは苦手だ」

「……はあ」


 なのに二つ。

 心配して損をした、というより、単純に不思議だった。


「お連れ様の分でしょうか?」

「……さあ」


 曖昧な返事。目は私ではなく、カヌレの列をじっと見ている。


 視線の動き。軍服の色褪せ方。革手袋の縁についた、微かな薬品の匂い。

 長く焼けた日差しではなく、室内灯の下で過ごす人間特有の肌の白さ。


 ただの前線兵士には見えない。

 けれど、ふつうの貴族将校とも違う。


「では、こちらをどうぞ」


 私は一番出来のいい二つを選んで、小さな皿にひとつ、紙袋にひとつ乗せる。

 青年は皿の方を取り、フォークを手に取った。


 ひとくち、カヌレの縁に刃を入れる。

 硬い外側がさくっと砕け、中から柔らかな生地がのぞく。


 青年の指が、一瞬だけ止まった。


(……分かる人だ)


 その一瞬で、私にははっきり分かった。

 彼も「味を見る側」の人間だ。


 噛む。飲み込む。

 ほとんど表情は変わらないのに、喉仏がごくりと動いた。


「どうでしょう?」


 期待半分、試すような気持ち半分で問うと、彼は短く答える。


「悪くない」

「それは嬉しいお言葉です」


 思わず笑みが深くなる。

 甘いものが苦手と言い切る人からの「悪くない」は、私にとって最高級の賛辞だった。


「ノア、だ」


 ふいに彼が名乗った。


「え?」

「ノア・ヴァルト。会計を」

「あ……ありがとうございます、ヴァルト様」


 名前に聞き覚えがあった。

 軍属。けれど表に出ない部署。王城の晩餐会に同席していた、あの——


「また来る」


 彼はそれ以上なにも言わず、紙袋を手に店を出ていった。


 からん、と扉のベルが揺れる。

 残されたのは、彼が座っていた場所にわずかに残る、薬品と鉄と、そしてほんのかすかな、ラムと焦げ砂糖の香り。


「セレス」


 ミレイユが、じとっとした目で私を見る。


「……なにかしら」

「あれ、絶対ただの軍人じゃないよね」

「そうね」

「しかもイケメン」

「それはそうね」


 つい同意してしまうと、ミレイユがにやにや笑う。


「これは通う。彼、絶対また来る」

「期待しないの」

「カヌレ二つも頼んでたんだよ? いや〜これは」

「ミレイユ、仕事」


 わざと冷静に遮ったものの、胸の奥が少しだけ落ち着かない。


 甘いものが苦手な人が、カヌレを二つ。

 ひとつはその場で。ひとつは、誰かのために。


 妙に記憶に残る注文だった。


* * *


 ノア・ヴァルトは、それから本当に「また来た」。


 しかも、一度や二度じゃない。

 多いときは週に三度、少なくとも週に一度はふらりと現れては、同じ注文を繰り返した。


「カヌレを二つ。コーヒーは、砂糖なしで」


 決まり文句のように。

 ひとつはカウンターで静かに食べ、もうひとつは必ず紙袋に入れさせる。


 彼の表情はほとんど変わらない。

 けれど、最初は一口ごとに固かった指先が、少しずつ自然になっていくのを私は見ていた。


 ある日の閉店前。

 客が引いて、店内にコーヒーの香りと、夜風だけが残っていた。


「ねえ、セレス」


 カウンターを拭きながらミレイユが、声を潜める。


「ノア様ってさ、彼女いると思う?」

「さあ」

「カヌレ二つだよ? 一個は絶対誰かの分でしょ?」

「家族かもしれないし、戦友かもしれないし、ただの習慣かもしれないわ」

「も〜、つまんない答え」

「妄想するのは自由だけど、本人に聞いちゃだめよ」

「セレスが聞けばいいじゃん」

「なんで私が」


 言い合っていると、からん、とまたベルが鳴った。


 噂をすれば影、というやつだろうか。

 軍服の青年が、夜の路地裏に溶けるように立っていた。


「いらっしゃいませ、ノア様」


 もう名前を覚えている。

 呼ぶと、ほんの僅かに彼の眉が動いた。嫌ではなさそうだ。


「カヌレを二つ。いつものを」

「ありがとうございます」


 焼き置きではなく、この時間のために残しておいた分を出す。

 ノアはいつものように一つを食べ、もう一つを紙袋に入れるよう示した。


 ふと、私は口をついて出てしまった。


「……あの」


 グラスを拭く手を止める。

 ミレイユが、カウンターの向こうで目を輝かせているのが視界の端に見えた。やめて。


「甘いものがお苦手なのに、どうして、うちのカヌレを?」


 核心に触れる問い。

 ノアはフォークの動きを止め、灰色の瞳をこちらに向けた。


 冷たいわけではない。ただ、よく澄んでいて、感情を奥に隠している目。


「……仕事で、甘い菓子を口にする機会が多い」

「お仕事で?」


 思わず聞き返すと、彼は少しだけ言い淀み、


「毒見のためだ」


 短く、それだけ言った。


 やっぱり、と心の中で呟く。


 ヴァルト。戦時中から名の知られた一族。

 王家の直轄部隊、その中でも「毒」を専門とする部署に属する者たちの名。


 宴席で、何度か背中を見たことがある。

 王の杯に先に唇をつけ、なにごともなかったように退く影。


 彼らはいつも、毒と隣り合わせで立っていた。


「和平交渉に、晩餐会に、式典に。甘いものは、よく使われる」

「……そうですね」


 甘いものは人を緩ませる。

 だからこそ、そこに刃を潜ませる者がいる。


「粗悪な甘味料や、魔力触媒の味が染みついている」


 ノアはわずかに視線を落とした。


「砂糖の甘さと、毒の甘さが、重なってしまう。だから甘いものは、苦手だ」

「それでも、食べる必要がある」

「職務だから」


 静かで、淡々とした声音。

 そこに「犠牲」という言葉はなかったのに、不思議と胸が詰まる。


「だから、慣れようと思った」


 と、彼は続けた。


「甘さそのものにではなく、“本物”の味に」


 本物。

 その言葉に、どきりとする。


「……うちのカヌレは、本物でしょうか」


 半分冗談で、半分は本気で問う。

 ノアはフォークを置き、私をまっすぐ見た。


「少なくとも、ここで出される甘さに、毒の匂いはない」


 胸の奥で、なにかがほどける音がした。


「それは、よかったです」


 笑うと、ノアはほんの僅かに息を吐いた。

 それが安堵なのか、気のせいなのかは分からなかったけれど。


「セレス」


 片付けを終えたミレイユが、わざとらしい咳払いをする。


「そろそろ閉店時間」

「あ、はい。ノア様、本日はこれで──」


「また来る」


 ノアはいつものように短く言い、紙袋を手に店を出た。


 路地裏に消える背中を見送りながら、私はそっと鼻先を鳴らす。

 紙袋に残る甘い香りと、ほんの微かな違和感。


 ……あの袋、毎回中身の匂いが変わらない。


 誰かが食べているにしては、減った匂いがしない。

 あれは、記憶のための分か。あるいは、何かの習慣。


(戦友……?)


 言葉にしない予想だけが、胸の奥でくすぶる。


* * *


「セレス、ちょっと見てくれ」


 数日後の昼下がり。

 客足が途切れた隙に、ブランが一通の封書を持ってきた。


 厚手の上質な紙。王都の紋章。封蝋。

 そして、インクの匂い。


 私は受け取るなり、わずかに眉をひそめた。


「……あまり良い香りではありませんね」


 表向きは柔らかく言いつつ、内心では警鐘が鳴る。

 このインク、ただのインクじゃない。


 鉄と、特定の鉱石と、微量の魔力触媒。

 戦時中、ごく一部の国が毒の媒介に使っていた配合に、よく似ている。


「王城からさ。“和平記念晩餐会に出す菓子を、君の店に頼みたい”だとよ」


 ブランは鼻で笑った。


「路地裏の爺さんの店に、ずいぶん殊勝な話じゃないか」

「ブランさん、元宮廷パティシエだったでしょう」

「“元”だ。“二度とごめんだ”って顔に書いてあるだろ」


 たしかに、彼の顔にはうっすらと苦い影が差している。

 軍医として戦場を巡り、そのあと宮廷で貴族の贅沢な菓子を作らされ、嫌気が差してここに来た人だ。


「どうします?」

「断りてえな」


 即答だった。


「だが、変な匂いがする。こういうときに鼻が利くのは、お前だ、セレス」

「……嫌な役ですね」

「褒めてんだよ」


 軽口を叩きながらも、ブランの目は真剣だ。

 私の「舌」と「鼻」が、ただの菓子作り以上の意味を持つことを、彼は知っている。


 封書をもう一度鼻先に近づける。

 うっすらと、ざらつくような甘さが喉に残る。


「このインク、触媒としても使えます。もし宴席に同じ匂いのものがあれば、要注意です」


 言うと、ブランは小さく頷いた。


「……ノアの野郎にも、話を通しておくか」


「ノア様と知り合いなんですか?」


 思わず声が上ずる。

 ブランは「しまった」という顔をしながらも、あっさり白状した。


「あいつ、戦場から戻ったとき、ちょいと世話してな。毒でやられた舌のリハビリをしたのさ」

「舌の……」

「味が分からなくなっちまった毒見官は、死刑よりきつい。あいつは踏みとどまった。まあ、そういうことだ」


 知らなかった横顔を聞かされて、胸が締め付けられる。


「だったらなおさら、怪しい匂いを放って見過ごせませんね」

「やっぱりそう言うと思ったよ。お前さん、そういうとこが“公爵令嬢向きじゃなかった”んだ」


 ひどい褒め言葉だ。


「やるなら、俺も一緒にやる。無茶はさせん」

「ミレイユにも相談しないと」

「当然。あの子、お前より喧嘩強そうだしな」

「それは否定しません」


 三人で顔を見合わせて笑った、その日の夜。


 閉店間際に、予想どおり彼は現れた。


* * *


「カヌレを二つ。いつものを」


 その言葉が、何度目か分からなくなってきた頃。

 ノアは変わらず無表情のままカウンターに腰掛ける。


「ノア様」


 私はカヌレを出しながら、意を決して口を開いた。


「今度、王城の晩餐会に呼ばれました。ブランさんの菓子が、和平の席にふさわしいと」


 ノアの指先が、ほんのわずかに止まる。


「そうか」


 それだけ。表情も声色も、ほとんど変化がない。


 けれど、私には分かった。

 彼がその情報を「職務」として受け止めた音がした。


「インクの匂いが、少し気になって」

「インク」


 灰色の視線が鋭くなる。


「触媒と同じ匂いがしました。もし宴席に似た香りのものがあれば──」

「警戒する必要がある」


 私の言葉を引き継ぐように、ノアが低く言う。

 その声音には、わずかな焦りが滲んでいた。


 ブランが、奥から静かに姿を見せる。


「ノア。俺だ」

「……ブラン」


 ノアが、ふっと目を細めた。

 氷みたいだった目が、一瞬だけ、人の温度を取り戻す。


「また厄介事の匂いがするんでね」とブラン。

「お前さんの鼻と舌を、借りたいそうだ」

「あなたが、か」


 ノアの視線が、私に移る。

 真正面から見つめられて、少しだけ背筋が伸びた。


「いやなら断っていい」とブランが言う前に、私は答えていた。


「いいえ。……今度は、見て見ぬふりをしたくないんです」


 前回、私が真実を告げたとき、誰も信じなかった。

 信じなかったくせに、責任だけを押し付けた。


 だったら今度は、自分の意思で関わる。

 追放された身だからこそ、もう守るべき建前はない。


「私は、この店と、この路地裏と、ここで甘いものを食べてくれる人たちのために働きたい。危険があるなら、避けたいです」


 ノアはじっと私を見て、それから小さく頷いた。


「……了解した」


 その言葉は、軍人としてのそれにも聞こえたし、ひとりの青年としての約束にも聞こえた。


「ただし」と彼は続ける。


「危険が大きいと判断した場合、あなたを巻き込まない」

「それは」

「俺の職務だ」


 きっぱりとした線引き。

 だからこそ、少しだけ腹が立った。


「私の菓子を利用するなら、私も一緒にいて当然です」


 思わず言い返すと、ブランが「おお」と面白そうに眉を上げる。

 ノアは、一瞬だけ言葉に詰まった。


 その沈黙が、どこか可笑しくて、ミレイユがカウンターの向こうで小さくガッツポーズをしている。


「……分かった。ただし、俺の指示には従ってくれ」

「それは、考えます」

「従え」


 僅かに呆れたような声。

 私はくすりと笑った。


 夜が更け、客が途絶えた店内で、ブランが言う。


「せっかくだ。ノア、お前にも新作を食わせてやる」

「新作?」


 ブランが差し出したのは、いつもより少しだけ小ぶりなカヌレだった。

 私はさっきまで試作していた配合を思い出す。


 戦時中によく使われた粗悪な甘味料と、本物の砂糖、その境界線ぎりぎりを見極めて、優しい甘さだけを抽出したもの。


「怖くない甘さ、を目指してみました」


 説明すると、ノアはカヌレを手に取り、ゆっくりと口に運ぶ。


 外側がかり、と鳴る。

 中の生地が、舌の上でほどける。


 ノアのまぶたが、かすかに震えた。


 沈黙。

 グラスの氷が、からん、と小さく鳴る。


「……これは」


 ノアが低く言う。


「平和の味だ」


 その一言が、今までの「悪くない」よりもずっと重く、胸に響いた。


「だったら、少しずつ慣れていきましょう」


 私は言う。


「甘さにも、平和にも」


 ノアは、初めてほんの僅かに口元を緩めた。


「ああ。……そのために、君の力が必要になるかもしれない」


 不意に真顔に戻ったその言葉は、予告のように聞こえた。


 このときの私は、まだ知らなかった。

 路地裏の小さなカヌレと、甘いものが苦手なひとりの毒見官と、追放令嬢の舌が。


 王城の晩餐会で渦巻く陰謀と、王都の命運に、深く噛み合っていくことを。


 * * *


 一歩、王城の石畳に足を踏み入れた瞬間、懐かしい匂いがした。


 磨かれた石の冷えた香り。銀食器用研磨剤の金属臭。香水と花と、人いきれ。

 そして、あの日と同じように、薄く紛れている、わずかな違和感。


「息、詰めるなよ、セレス」


 隣を歩くブラン・クロードが、ぼそりと囁く。


「ここはもう、お前を縛っていた家じゃない。たかが仕事場だと思っとけ」

「思ってます。ただ……」

「“質の悪い甘さが鼻につく”って顔してる」

「バレました?」


 苦笑いを返しながら、私は深呼吸をひとつする。

 今日は、公爵令嬢としてではない。

 路地裏カフェ「ラ・フィユ・ドンブル」の菓子職人として、この場に立っている。


「セレス、大丈夫?」


 少し後ろからついてくるミレイユが心配そうにのぞき込む。

 今日の彼女は黒いドレスに白いエプロンドレスを重ね、髪を高くまとめている。完全に「仕事モード」の顔だ。


「もちろん。あなたがそばにいてくれますし」

「ふふん、任せなさい」


 三人で案内されたのは、大広間に隣接する小さな菓子準備室だった。

 銀のプレートがずらりと並び、王城付きの給仕たちが忙しなく動いている。


 私は持ち込んだ銅型と生地を確認しながら、周囲の匂いを拾う。

 バター、小麦、砂糖、果物、酒精。


 ……そして。


(やっぱり)


 乾いた粉の、ざらりとした甘さ。

 微量の魔力触媒を混ぜた、特殊な糖粉。


 封書のインクと同じ「癖」が、ここにもある。


「ブランさん」


 小声で呼ぶと、彼もすぐに鼻をひくつかせて、低く呟いた。


「来てやがるな」

「お二人とも、始まる前に顔に出さないでくださいね」


 ミレイユが肘で小突いてくる。

 その軽さに救われる。


 そこへ、コン、と扉が叩かれた。


「入る」


 入ってきた軍服の青年は、見慣れた姿だった。

 濃紺の軍服。落ち着いた灰色の瞳。


「ノア様」


 思わず声が緩む。

 ノアはちらりとこちらを見て、小さく頷いた。


「指示を伝えに来た」


 彼は周囲を一瞥し、扉が閉まったのを確認してから低い声で続ける。


「毒物の疑いがあるのは、王族と賓客のテーブルに供される特製糖粉。それと、一部の飾り菓子」

「やっぱり、あの粉ですね」


 私はさっき感じた匂いを思い出し、頷く。


「うちのカヌレには一切触れさせません」

「当然だ」


 ノアの声がわずかに硬くなる。


「セレスティーヌ」

「セレスでいいです」

「……セレス。危険な皿を見つけたら、すぐ俺に合図をくれ。君が直接手を出す必要はない」

「でも、見分けるのは私です」


 反射的に言い返すと、ノアの眉がほんの少しだけ寄った。


「職務上、君を守る義務がある」

「私の“仕事”でもあります」


 視線がぶつかる。


 前は、この城にいる全員が敵に見えた。

 けれど今は、少なくとも目の前に、一緒に戦える人がいる。


「……分かった」


 ノアは小さく息を吐いた。


「ただし、危ないと思った瞬間には、俺の後ろに下がってくれ」

「検討します」

「従え」


 その言い方が、妙に懐かしくて、私は思わず笑ってしまう。


「ふふ。分かりました。従います、“味覚審問官”様」

「誰に聞いた」

「ブランさんです」

「余計なことを」


 ブランが肩をすくめる。


「命に関わる“客”のことは、菓子職人にも教えとくべきだろ」

「命と甘さ、どっちも守るのがうちの方針ですから」


 私が言うと、ノアは一瞬だけ呆れたような、それでもどこか満足そうな目になった。


「……任せる。俺も全力を尽くす」


 そうして、晩餐会が始まった。


* * *


 大広間に灯りがともる。


 シャンデリアの魔導灯が幾百もの光を揺らし、音楽が流れ、笑い声とワインの香りが漂う。

 国王と王妃、隣国からの使節、貴族たち。


 その豪奢な光景を、扉の影から眺めるだけで、胸の奥に古い痛みがちくりと顔を出す。


「セレス」


 低い声に振り向けば、そこにノアがいた。


「大丈夫だ」

「もちろん。今の私は、客ですらありませんから」

「菓子職人だ」

「ええ、“路地裏の”」


 私が微笑むと、ノアもほんの僅か口元を緩める。


「行ってくる」


 彼は王族のテーブルへと向かっていく。

 いつか宴で遠目に見た「毒見官」の背中が、今はとても頼もしく思えた。


 我々の仕事は、カヌレを並べること。

 そして、香りを嗅ぎ、甘さを確かめ、「違う」と感じたものを見逃さないこと。


「セレス、あれ」


 ミレイユがごく低い声で耳打ちする。

 銀のトレーに乗せられた、小さなガラス瓶。


 白くきらめく粉。

 装飾用の糖粉としては、少し粒子が細かすぎる。


 私は近づき、さりげなく瓶の口元に指先を寄せた。


 喉が、ひりつく。


(間違いない)


 封書と同じ。いや、それよりずっと濃い。

 魔力触媒を混ぜた危険な粉だ。


「その瓶、こちらでお預かりしても?」


 できるだけ穏やかな声で給仕に声をかけると、若い給仕は戸惑った。


「で、ですが、こちらは上から“王族席にのみ使用するように”と」

「ならなおさら、確認が必要です」


 私が微笑みながら一歩踏み出したとき——


「どうかしたのか?」


 背後から、落ち着いた声が降ってきた。


 振り返ると、派手な刺繍の礼服をまとった、見覚えのある顔が立っていた。


 淡い金髪。甘い笑み。

 かつて私を「気味が悪い」と切り捨てた、元婚約者の第一王子だった。


「……殿下」


 思わず旧称で呼びそうになり、喉の奥で飲み込む。

 今の私は、公爵令嬢ではない。


「おや、お前は……ああ。昔、屋敷で見かけたことがあるな」

「路地裏の小さなカフェで働いております、セレスと申します」


 丁寧に礼をする。

 王子は、覚えていないらしい。私の顔も、名前も。


 それでいい。


「殿下、こちらの糖粉ですが、わずかに不審な匂いがします。念のため使用前に確認を」

「不審?」


 王子は、わざとらしく笑った。


「君は何者だ? 確かに少し菓子作りができるらしいが、この場で指図をする立場では——」


「セレスの言葉は、聞いておいた方がいい」


 その時、別の声が割り込んだ。


 ノアだ。


 彼は王族席の前に立ち、瓶を静かに手に取った。

 鼻先に近づけて、目を細める。


「これは通常の糖粉ではない。混じり物がある」

「……本当か?」


 国王が重い声を出し、場の空気が一瞬で変わる。


 王子の顔色もさっと青ざめた。


「俺と、ラ・フィユ・ドンブルの菓子職人の舌が保証する」


 ノアの言葉に、ざわめきが広がる。


「路地裏の店の娘など——」と誰かが言いかけた瞬間、ブランが前に出た。


「“路地裏の店の娘”は、かつて陛下の杯に毒が盛られたとき、いち早くそれを見抜いた舌の持ち主でさ」

「ブラン……!」


 思わず声が出そうになるのをこらえる。

 国王が目を見開いた。


「あのときの……?」

「その功をねじ曲げて追放した誰かさんがいることには触れねえが」


 ブランがわざとらしく咳払いをする。

 視線が、ちらりと元婚約者に向かう。


 王子の顔から血の気が引き、周囲の貴族たちがひそひそと囁き始める。


「なっ……そんな、私は……」

「黙れ」


 鋭い一言で切り捨てたのは、ノアだった。


「今は責任追及の場ではない。優先すべきは陛下と賓客の安全だ」


 冷たい声音に、大広間の空気がさらに引き締まる。

 ノアは瓶を持ったまま、視線だけで私に問うてくる。


(同じものだな?)


 私は、はっきり頷いた。


「その糖粉は、魔力触媒入りです。摂取すれば一時的に魔力が暴走し、最悪の場合——」


 言い終わる前に、隣国からの使節のひとりが手を伸ばしかけていた小菓子に、同じ粉が振りかけられているのが目に入る。


「ミレイユ!」


 叫ぶと同時に、ミレイユが迷いなく飛び出した。

 トレーを持った給仕の腕をとり、小菓子の皿をひっくり返す。


 皿が床で砕け、白い粉が散る。

 悲鳴が上がった。


「な、何を——」

「申し訳ございません。うっかり手を滑らせてしまって」


 ミレイユは完璧な笑顔で頭を下げる。

 その間に、ノアが迅速に瓶と粉を押収し、別の兵が怪しい給仕を押さえ込んだ。


 床に散った粉が、微かな光を帯びて揺らぐ。

 魔力触媒入りである証拠だ。


「調べろ」


 ノアが命じる。

 場の空気は一触即発の緊張に変わっていた。


「誰か、医療班を」


 ブランがすかさず動き出し、私は残りの菓子と糖粉を匂いで選り分ける。


 安全なものと、危険なもの。


 鼻と舌が、焼けるように忙しく働いた。


* * *


 十分後。

 結果は明白だった。


 王族席と隣国使節の席に出されるはずだった糖粉と一部の小菓子から、毒性の高い魔力触媒が検出された。

 混入役は、雇われた給仕に紛れていた他国の工作員。


 事前に封書で「路地裏の店」を指名していたことから、その店を巻き込みつつ陛下と使節を同時に葬り、和平を崩壊させるつもりだったらしい。


「……なんとも、安っぽい陰謀だな」


 ブランが吐き捨てる。


 王城の一室。関係者だけが集まる場で、私は少し離れた壁際に立っていた。

 ノアは報告を終え、軍の上官たちと短く言葉を交わしている。


「君の嗅覚と判断がなければ、危なかった」


 国王が、私の方を見る。

 その視線は、あの日とは違い、真剣だった。


「名を聞こう」

「セレスと申します。路地裏のカフェ『ラ・フィユ・ドンブル』で菓子を作っております」


 丁寧に礼をすると、彼はわずかに目を細めた。


「かつて、公爵家の令嬢であった者か」

「“かつて”でございます」


 私は静かに答える。


 王の視線が、一瞬だけ元婚約者へと向き、王子はさらに小さくなった。

 どこかで誰かが溜息をつく気配。


「その件については、しかるべき調査を行う」


 国王は短く言った。

 追放を覆せ、とも、戻ってこいとも言わない。


 それでよかった。


「今はただ、礼を言おう。君と、その店と……君たちの作る菓子に」

「光栄に存じます」


 心からそう返せた。


 公爵家の名ではなく、路地裏のカフェの名で。

 それが、なにより痛快だった。


* * *


 夜更け。


 騒動は収まり、和平晩餐会は形式を整え直して無事に終わった。

 暗殺計画は露見し、工作員たちは捕らえられ、詳細な調査が始まるという。


 私たちは城をあとにし、ひさしぶりの路地裏へと戻ってきていた。


 店の灯りをつけると、木の床とカウンターが、ほっとしたように光った。


「疲れた〜〜〜!!」


 ミレイユが椅子に突っ伏す。

 ブランが肩を叩き、「よくやった」と笑った。


「ミレイユが皿ひっくり返した時、心臓止まるかと思ったよ」

「私もですよ……」

「でも、あれがなかったら誰か口にしてたかもしれない。ナイスファイトだ」


 そう言うと、ミレイユはふふんと胸を張った。


「うちのお嬢……セレスを巻き込もうとしたやつらを、ぶっ飛ばしただけです」

「やっぱり喧嘩強いわね、あなた」

「でしょ?」


 笑い声が弾む。


 そのとき、からん、と静かなベルの音がした。


 鍵はまだ閉めていない。

 扉の向こうに立っていたのは、やはり彼だった。


「こんな時間にすまない」


 ノア・ヴァルト。


 軍服の襟元は少し乱れ、目の下には薄い影が差している。

 それでも、その灰色の瞳は穏やかだった。


「いらっしゃいませ。営業再開、第一号のお客様ですね」


 私が笑うと、ノアは小さく肩をすくめた。


「任務帰りの客は歓迎されるか?」

「もちろんです」


 ブランとミレイユは「察した」顔で、さりげなく奥へ引っ込んでいく。

 私とノアだけが、カウンターを挟んで向かい合った。


「いつもの、でいいですか?」

「ああ」


 私はカヌレを二つ、皿にのせる。

 ひとつを彼の前へ。もうひとつを、その隣に。


 ノアは、静かにフォークを取る。

 外側を割り、ひとくち。


 今日も、「平和の味」がするはずだ。


「任務、お疲れさまでした」


 言うと、ノアは一瞬だけ目を伏せ、それからゆっくりとこちらを見た。


「助かったのは、俺もだ」


 淡々とした言い方なのに、その奥の言葉は熱かった。


「君が匂いに気づき、ブランが動き、ミレイユが躊躇わなかったから、守れた」

「みんなのおかげです」

「そして、君がいたから、俺は“疑い”を口にできた」


 ノアは、カウンター越しに瓶を示す仕草を思い出すように指を動かした。


「王城では、理由のない不安を口にすることは許されない。だが、君が匂いを指摘したと言えば、根拠になる」

「役に立てたなら、嬉しいです」


 本心だった。

 昔は、真実を告げて嫌われた。

 今は、真実を告げて守ることができた。


 それだけで胸がいっぱいになりそうだった。


「……ノア様」


 呼ぶと、彼はすぐに「ノアでいい」と返した。


「じゃあ、ノア」


 口にしてみる。

 不思議としっくりきた。


「ひとつ、聞いてもいいですか」


 彼は黙って頷く。


「いつも、カヌレを二つ頼む理由」


 ノアの指が、ぴたりと止まった。


 逃げ道を与えた方がいいのか、一瞬迷う。

 けれど、彼自身が何度も、ここへ足を運んでくれたのだ。


 だから、私はまっすぐに見つめる。


「ひとつは、ノアの分。もうひとつは……誰のためですか?」


 長い沈黙。


 やがて、ノアは静かに口を開いた。


「戦場に、“甘いものが好きなやつ”がいた」


 低い声に、ミレイユの笑い声もブランの気配も、すっと遠のく。


「どんな粗末な代用甘味料でも、嬉しそうにかじっていた。終戦の少し前に、俺の代わりに前に出て、戻らなかった」


 言葉は淡々としているのに、一つひとつが重い。


「俺は毒見官だ。前に出るべきじゃなかった。理屈では分かっているのに、あいつが倒れたとき、真っ先に自分の舌を疑った」

「……」


「それから、甘いものが喉を通らなくなった。砂糖の味が、全部“あの日”に繋がる」

「二つ目は、その人のための分」

「そうだ」


 ノアは、紙袋を持つ仕草をしてみせる。


「食べられるわけじゃない。だが、何も買わないでいると、置いてきた気がして。二つ頼めば、“あいつの分も見ている”と言い訳できる気がした」


 彼が初めて、真正面から自分の弱さを言葉にした。


 胸が、ぎゅっと締めつけられる。


「馬鹿みたいだろう」


 自嘲気味な声に、私は首を振った。


「全然」

「……」

「優しいですね、ノアは」


 彼が一瞬沈黙し、その灰色の瞳を細める。


「俺はただの職務人だ」

「じゃあ、もうひとつ教えてください」


 私は、彼の前に残っている二つ目のカヌレを指でちょんと示す。


「今日は、その人のための分、まだ紙袋に入れてません」

「ああ」

「これからも、ずっと“その人のためだけ”に二つ頼みますか?」


 問いかけに、ノアは静かに視線を落とした。


「……違う」


 小さく、けれどはっきりと。


「和平が続いて、俺がこの街で生き続けるなら」

「はい」

「二つ目は、“誰かと分ける前提の数”でありたい」


 言葉の意味が、じわじわと胸に染みていく。


「君と出会ってから、そう思うようになった」


 はっきりと、私を見る。


「君の作る甘さは、怖くない。あの日の記憶を上書きしてくれる。ここでなら、“本物の甘さ”を信じていいと、思わせてくれる」


 胸の奥で、何かが弾ける音がした。


「……それは」


 言葉が喉につかえる。

 ノアは、淡々と続けた。


「甘いものは苦手だ。だが、君の作るものは平気だ」

「ノア」

「この二つ目を、これからは君と分けたい」


 それは、回りくどくて、不器用で。

 だけど、どんな華麗な愛の言葉よりも、私には甘く響いた。


「告白として、受け取っても?」


 勇気を振り絞ってそう言うと、ノアは僅かに目を見開き、それから初めて、はっきりと笑った。


「ああ」


 柔らかく、けれど確かな肯定。


「俺の職務はこれからも続く。危険な席に立つこともある。君を巻き込みたくないと、何度も思った」

「でも、巻き込みました」

「君が勝手に飛び込んできた」

「そうでした」


 思わず笑い合う。


「それでも、君がいる路地裏に、戻ってきたいと思ってしまった」


 ノアの指が、そっと皿のカヌレを半分に割る。

 ひとつを自分に、ひとつを私の方へ押し出した。


「受け取ってくれるか」

「……もちろん」


 フォークはいらなかった。

 指でつまみ、そのまま少し乱暴にかじる。


 外側がかり、と割れて、中がとろりと広がる。

 そこに、一年分の寂しさと、今日一日の緊張と、これからの希望が全部溶けていた。


「甘いです」

「そうだな」

「でも、平気です」


 ノアが、カウンター越しに手を伸ばす。

 触れそうで、触れない距離。


 私は、一歩だけ近づいた。


 路地裏を吹き抜ける夜風が、看板を鳴らす。


「……キス、しても?」


 驚くほど小さな声で問われて、思わず顔が熱くなる。


「ここ、店内ですけど」

「閉店後だ」

「ミレイユとブランさんがいます」

「奥で聞き耳立ててる」


 即答に吹き出しそうになる。


「だったら、額だけ」


 そう言うと、ノアはゆっくりと身を乗り出し、私の額に唇を落とした。


 ふわりと、ラムと砂糖と、彼の微かな薬品の匂いが混ざる。


 甘い。少しだけ苦い。

 でも、確かに「平和の味」がした。


* * *


 翌日。


 路地裏のカフェの扉には、小さな紙札が増えていた。


 「王城晩餐会提供菓子」

 「毒見官お墨付きの、安心できる甘さ」


 ミレイユ作成の、やや攻めた宣伝文句である。


「ちょっと、その書き方……」

「事実でしょ?」

「……まあ、間違ってはいませんけど」


 ブランは大笑いし、常連たちは面白がって読み上げる。


「お嬢……じゃない、セレス。すっかり有名人だな」

「やめてください」


 そこへ、いつもの音がした。


 からん。


「いらっしゃいませ」


 ノアが立っていた。

 いつもと同じ軍服。でも、その肩の力は少し抜けている。


「カヌレを二つ。ひとつは俺に」


 彼はそう言って、わざと一拍置いた。


「もうひとつは——」

「一緒に、ですね」


 私が続けると、ノアは静かに頷いた。


 カウンターの上に並ぶ二つのカヌレ。

 甘さも、苦い記憶も、これからは分け合う前提の数。


 追放されたあの日、私はすべてを失ったと思っていた。

 けれど今、路地裏の小さなカフェで、二度目の初恋と、本当に甘いカヌレを手に入れた。


 外の通りの喧騒から少し離れたこの場所で。

 看板は地味で、店は狭くて、常連は少し癖がある。


 でも——


「本日も満席、ですね」


 増えていく客と笑い声を見渡しながら言うと、ブランが肩をすくめる。


「甘さと平和は、ここにあるからな」

「そして、ちょっとだけ危険な舌も」


 ミレイユが茶々を入れ、みんなが笑う。


 その真ん中で、私はカヌレを焼き続ける。


 外はかりっと、中はとろり。

 怖くない甘さ。誰かを守る甘さ。

 そして、愛しい人と分け合うための甘さを。

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