最終話
あの日、わたくしは生まれ変わった。
呪われた令嬢クロム・フォン・ヴァインベルクは死に、祝福の力を持つクロムとして、このアイゼンヴァルトの地で新しい生を受けたのだ。
わたくしは、ゼノン様と共に領内を巡った。
穢れに覆われた大地に素手で触れる。
すると、大地を蝕んでいた黒い瘴気は悲鳴を上げるように枯れ果て、浄化されていった。
わたくしが触れた枯れ木には、春を告げる若葉が芽吹き、乾ききっていた大地からは清らかな水が湧き出し、川となって流れ始めた。
奇跡を目の当たりにした領民たちは、涙を流して喜び、わたくしを『祝福の聖女』と呼んで敬ってくれた。
もう、誰もわたくしの手を恐れない。
それどころか、人々は感謝を込めてその手に口づけをしようとするほどだった。
「やめてください、わたくしは聖女などでは……」
戸惑うわたくしの隣で、ゼノン様がいつも静かに、けれど誇らしげに微笑んでいた。
そんな日々が一年ほど過ぎた頃。
かつては不毛の地と呼ばれたアイゼンヴァルト領は、見違えるように緑豊かな大地へと姿を変えていた。
穢れが消え去ったことで作物の収穫高は飛躍的に上がり、領民たちの顔には明るい笑顔が戻った。
そして、ある月の美しい夜。
城のバルコニーで、二人きりで生まれ変わった領地を眺めていた時だった。
「クロム」
隣に立つゼノン様が、静かにわたくしの名前を呼んだ。
振り返ると、彼の凍てつく冬空のようだった銀色の瞳が、春の陽だまりのように優しく、熱を帯びてわたくしを見つめていた。
彼は、わたくしの手を取り、その手袋をしていない素肌に、そっと口づけを落とした。
「……っ!」
「この手が、俺のすべてを救ってくれた」
そして、彼は漆黒の軍服の懐から、小さなベルベットの箱を取り出した。
箱の中には、アイゼンヴァルトの鉱山で採れるという、夜空の星を閉じ込めたような美しい青い宝石が嵌められた指輪が収められていた。
「俺の、唯一の光。どうか、残りの人生のすべてを、俺にくれないだろうか」
「……ゼノン、様……」
「お前を、妻として迎えたい。このアイゼンヴァルトの、永遠の聖女として」
それは、わたくしがかつて夢見た、どんな言葉よりも甘く、誠実な愛の告白だった。
涙が、頬を伝う。
けれど、もう悲しみの涙ではない。
「……はいっ、喜んで……!」
わたくしは、心の底からの笑顔で、力強く頷いた。
彼が、わたくしの指に誓いの指輪を嵌めてくれた、その時だった。
城門が、にわかに騒がしくなった。
報告に駆けつけた騎士が告げた来訪者の名前に、わたくしは耳を疑った。
「――アルフォンス殿下が、クロム様との面会を求めておられます!」
応接室の扉が開くと、そこに立っていたのは、見る影もなくやつれ果てたアルフォンス殿下と、その隣で青白い顔をして俯くリリアナ嬢だった。
かつての輝くような自信は失せ、その空色の瞳には焦りと恐怖の色が浮かんでいる。
「クロム……! 会いたかった……!」
彼は、わたくしの姿を見るなり、まるで救いの神にでも出会ったかのように駆け寄ろうとした。
しかし、その前に、氷の壁のようにゼノン様が立ちはだかる。
「……何の御用ですかな、王子殿下」
地を這うような低い声に、アルフォンス殿下の肩がびくりと震えた。
「頼む、クロム! 君の力が必要なんだ! 王都が、国が、穢れに……!」
彼の話は、こうだ。
わたくしを追放した後、王都にも穢れの瘴気が広がり始めた。
人々は『聖女』リリアナに救いを求めたが、彼女の力は穢れの前では全くの無力だった。
それどころか、彼女が咲かせた花々は、穢れに触れると瞬時に腐り落ち、さらに強力な毒の瘴気を振りまく始末。
彼女の力は、穢れを祓う『浄化』ではなく、ただ生命力を無理やり引き出して花を咲かせるだけの、まやかしの力だったのだ。
真実を知った民衆の怒りを買い、今や彼女は『偽りの聖女』と蔑まれているという。
そして、わたくしを売り払ったヴァインベルク公爵家も、領地の作物がすべて枯れ果て、没落の一途を辿っているらしい。
まさに、自業自得だった。
「僕が間違っていた……! 本当に聖女だったのは、君の方だったんだ!」
アルフォンス殿下は、床に膝をつき、必死の形相でわたくしに手を伸ばした。
「戻ってきてくれ、クロム! 今ならまだ間に合う! 僕の妃として、王妃の座を約束しよう! だから、どうかこの国を救ってくれ!」
その身勝手な言葉に、わたくしの中で、かつての淡い恋心は、一片の欠片もなく消え失せた。
わたくしは、ゼノン様の後ろから一歩前に進み出た。
そして、目の前の愚かな男を、憐れみと、そして確固たる意志を込めて、真っ直ぐに見つめた。
「お断りいたします」
凛、と響いた自分の声が、自分でも驚くほど力強い。
「え……?」
「わたくしのこの力は、もはやわたくし一人のものではございません。このアイゼンヴァヴァルトの大地と、ここに生きる人々と、そして……わたくしを心から愛し、必要としてくださる、ただ一人の人のためのものです」
そう言って、わたくしはゼノン様の隣に寄り添い、彼と固く手を繋いだ。
左手の薬指で、青い宝石がきらりと輝く。
それを見せつけるように、高く掲げた。
「わたくしの居場所は、もうずっと昔に、ここに決まっておりましたので」
「そん、な……」
アルフォンス殿下は、信じられないというように絶望の表情を浮かべ、その場に崩れ落ちた。
わたくしは、そんな彼にもう一瞥もくれることなく、背を向けた。
過去との、完全な決別だった。
二人がどうなったのか、わたくしは知らない。
ただ風の噂で、穢れの侵食を止められなかった王国は日に日に衰退し、周辺国にその領土を切り取られていったと聞いた。
そして、現在。
アイゼンヴァルト領は、『北の楽園』と呼ばれる、大陸で最も豊かで美しい国となった。
わたくしは、ゼノン様の妃となり、領民からは『祝福の聖女』、そして『慈愛の王妃』として、心からの敬愛を受けている。
もう、手袋は必要ない。
この素肌で、夫となったゼノンの頬に触れ、緑豊かな大地を歩き、咲き誇る花々の香りを楽しむ。
「クロム」
城の庭園で、わたくしの髪に結ってくれた花冠を直しなから、愛しい夫が囁く。
「お前といると、俺の世界は、いつだって春だ」
「まあ、ゼノン様ったら」
わたくしたちは、顔を見合わせて笑い合った。
かつて、触れるものすべてを枯らしてしまうと信じていたこの手は、今、愛する人の温もりと、豊かな大地と、人々の笑顔を育んでいる。
呪いだと思っていた力は、最高の祝福だった。
絶望の淵で出会った『氷の悪魔』は、世界で一番優しい、わたくしだけの王子様だったのだ。
―――『呪われた令嬢』は、こうして、不毛の地で永遠の愛と幸福を手に入れたのである。
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