第3話
アイゼンヴァルト辺境伯の居城は、彼の雰囲気をそのまま体現したかのような、質実剛健な石造りの城だった。
華美な装飾は一切なく、すべてが実用性を第一に考えられている。
けれど、不思議と冷たさは感じなかった。
城で働く人々は、皆一様に口数は少ないものの、その目には領主であるゼノン様への深い信頼と敬意が宿っているのが分かったからだ。
彼らは、わたくしを『呪われた令嬢』として見ることはなかった。
ただ、『辺境伯様がお連れになった大切なお客様』として、敬意をもって接してくれた。
それが、どれほど心を軽くしてくれたことか。
「クロム様、こちらがあなた様のお部屋です」
侍女頭の老婆、マルタに案内された部屋は、簡素ながらも清潔で、暖炉には温かい火が燃えていた。
窓の外には、相変わらず灰色の空と荒涼とした大地が広がっている。
「この土地は……なぜ、これほどまでに緑がないのですか?」
ずっと疑問だったことを、わたくしはマルタに尋ねてみた。
彼女は、窓の外に目をやり、深い皺の刻まれた顔を悲しげに歪めた。
「『穢れ』でございます」
「穢れ……?」
「はい。遥か昔、この地で大きな争いがあり、多くの血が流れたそうでございます。その怨念が、黒い瘴気となって大地を覆い、すべての生命を蝕むのです。我々は、この穢れと、穢れに引き寄せられる魔物と、ずっと戦い続けてまいりました」
彼女の話は、衝撃的だった。
ただ土地が痩せているのではない。
目に見えぬ悪意が、この大地を蝕み続けているというのだ。
「ゼノン様は、たったお一人で、その穢れの侵食を食い止め、民を守ってくださっております。あの方こそ、この地の唯一の希望なのでございます」
『氷の悪魔』『戦場の死神』。
王都で囁かれていた彼の異名は、この過酷な地で民を守るために戦う、彼の孤独な戦いの証だったのだ。
胸が、ちくりと痛んだ。
わたくしは、この地に来てから、彼に守られてばかりだ。
彼のために、何かできることはないのだろうか。
呪われた力しか持たない、無力なわたくしに。
その機会は、唐突に訪れた。
城に滞在し始めて数日後のこと。
城下で、病人が出たという知らせが入った。
穢れに長く触れたことで、高熱を発し、身体が黒い痣に覆われて衰弱していく、この土地特有の風土病だ。
わたくしは、いてもたってもいられず、薬草を届けるマルタに同行を願い出た。
ゼノン様は難しい顔をしたが、わたくしの強い眼差しに根負けしたのか、「必ず俺の側を離れるな」という条件付きで許可してくれた。
訪れた家には、鉄の焼けるような異臭と、淀んだ空気が満ちていた。
ベッドに横たわっていたのは、まだ十歳にもならない小さな男の子だった。
「う……うぅ……」
苦しげな呻き声を上げ、浅い呼吸を繰り返している。
その小さな身体は、痛々しい黒い痣に覆われていた。
母親らしき女性が、涙ながらに息子の手を握りしめている。
「お願いです、ゼノン様! どうか、どうかこの子を……!」
「……最善は尽くそう」
ゼノン様は静かに頷き、懐から清浄な魔石を取り出した。
けれど、魔石の放つ光は弱々しく、少年の身体を覆う黒い瘴気を祓うには至らない。
その光景を見て、わたくしの心臓がどくん、と大きく脈打った。
(あの黒い瘴気……あれが、穢れ……?)
それは、直感だった。
説明のつかない、魂からの叫びだった。
わたくしの力が、あの瘴気を、求めている。
気づいた時には、身体が勝手に動いていた。
「クロム!?」
ゼノン様の制止の声も耳に入らない。
わたくしは、まるで何かに引き寄せられるように少年のベッドに駆け寄ると、震える手で、そっと純白の手袋を外し始めたのだ。
「奥様、いけません!」
「そのお方から離れて!」
母親やマルタの悲鳴が聞こえる。
呪われた手に触れれば、この子を殺してしまうかもしれない。
頭では分かっている。
けれど、身体の奥底から湧き上がる衝動が、それを許さなかった。
(このまま、この子を見殺しになんて、できない……!)
覚悟を決めて、わたくしは自分の素肌を、少年の黒い痣で覆われた腕に、そっと触れさせた。
その瞬間だった。
「―――ッ!」
少年の身体から、黒い煙のようなものが、悲鳴を上げるように立ち昇った。
そして、わたくしの手に吸い込まれるように、みるみるうちに消えていく。
それは、まるで―――。
枯れていくようだった。
わたくしがいつも庭の草花にしてきたことと、全く同じ。
穢れが、枯れていく。
黒い瘴気が完全に消え去ると、少年の腕を覆っていた痣は嘘のように薄れ、苦しげだった呼吸が、穏やかな寝息へと変わっていた。
「……あ……あぁ……」
母親が、腰を抜かしたようにその場にへたり込む。
マルタも、家の外にいた村人たちも、信じられないものを見たというように、目を見開いてわたくしを見ていた。
「聖女……様……?」
誰かが、そう呟いた。
その声は、あっという間に歓声へと変わっていく。
「聖女様だ!」
「穢れを祓ってくださったぞ!」
「アイゼンヴァルトの救世主だ!」
人々が、わたくしに駆け寄り、ひざまずき、感謝の言葉を口にする。
呪われた令嬢。
死を振りまく女。
ずっとそう呼ばれ続けてきたわたくしが、聖女?
目の前で起きていることが、まるで現実とは思えなかった。
ただ呆然と立ち尽くすわたくしの腕を、強い力が掴んだ。
「……こっちだ」
ゼノン様だった。
彼は、わたくしの手を引くと、人垣を抜け、城へと続く道を無言で歩き出した。
握られた手首が、熱い。
彼の大きな背中を見つめながら、わたくしは必死でその後を追った。
城に戻り、二人きりになった執務室で、彼は初めて口を開いた。
「……やはり、そうだったか」
その声は、驚きではなく、確信に満ちていた。
「どういう、ことですか……?」
「お前の力は、呪いではない。生命を枯らすのではなく、『穢れ』のみを枯らし、浄化する力だ。世界で唯一の、祝福の力だ」
祝福。
わたくしの力が、祝福?
「なぜ……なぜそれを……?」
「……昔、一度だけ会ったことがある」
彼は、静かに語り始めた。
それは、わたくしがまだ十歳の頃。
彼は公務で王城を訪れており、庭園の隅で、偶然わたくしの姿を見かけたのだという。
「お前は、庭師が駆除に手を焼いていた、毒性の強い蔓草に触れていた。すると、その毒草だけが根元から枯れ果てた。だが、周りに咲いていた名もなき野花は、一本たりとも枯れてはいなかった」
「……!」
そんなことがあっただろうか。
幼い頃の記憶は、曖昧でよく覚えていない。
「その時から、考えていた。お前の力は、ただ生命を奪うものではないのではないか、と。生命を脅かす、害悪のみを選択して排除する力なのではないか、と」
彼の銀色の瞳が、真っ直ぐにわたくしを射抜く。
「アルフォンス王子がお前との婚約破棄を宣言した時、俺は好機だと思った。王家や他の貴族が、お前の力の本当の価値に気づく前に、お前を保護しなければならない、と。だから、父である国王陛下に直談判し、お前の身柄を俺が預かるという王命を取り付けた」
すべては、わたくしを守るため。
この不毛の地を救う、唯一の希望として、わたくしを迎え入れるため。
「お前を国外追放にするという王子の言葉は、俺がお前を円滑に連れ出すための、ただの口実だ」
そういうことだったのか。
点と点が繋がり、一本の線になる。
わたくしが絶望の淵に立たされたあの夜会の裏で、彼はすでに行動してくれていたのだ。
わたくし一人のために。
「クロム」
ゼノン様が一歩近づき、そっとわたくしの頬に触れた。
彼の指先は、ひんやりとしていて、けれど、とても優しかった。
「お前は、呪われた令嬢などではない。この不毛の大地と、そこに生きる民、そして……俺を救う、唯一の光だ」
その言葉が、凍りついていた心の最後の氷壁を、完全に溶かし尽くした。
涙が、後から後から溢れて止まらない。
それは、悲しみや悔しさの涙ではなかった。
生まれて初めて知る、温かくて、幸せな涙だった。
欠点だと信じていたものが、最大の長所だった。
忌み嫌われていた力が、人々を救う祝福だった。
わたくしの価値は、アルフォンス殿下や、王都の人間が決めるものではなかった。
ずっと前から、わたくしの本当の価値を見抜き、信じて、求めてくれる人が、ここにいた。
「ゼノン、様……!」
わたくしは、彼の胸に飛び込んでいた。
もう、手袋はいらない。
この素肌で、この人の温もりに触れたかった。
しっかりと抱きしめ返してくれた彼の腕の中で、わたくしは、この地で生きていくことを、この人と共に生きていくことを、強く、強く決意したのだった。




