天女の由来
「骨上げまで4時間ほどかかるそうだ。どうする?一度外へ出るか?」
家族3人だけには不必要に広い控え室で、兄は腕時計に目を落として言った。
「いいよ、ここで待つよ。母さんは?」
椅子に腰掛けて背筋を伸ばし、まっすぐ正面を見つめていた母は視線を僕に向けた。
「私もいいわ、ここにいる。お父さんが寂しがるといけないから。」
「じゃあ、3人で待とう。」
兄は椅子を引き寄せた。
父が亡くなった。
生前の父は母を抜きには語れない人だった。というのも、あの年代の人間にしては珍しく、母に対する愛情をストレートに表現する人だったからだ。
窓の外の松林を眺める兄は、目の端を少し赤くして母に聞いた。
「結局、天女ってなんだったの、母さん。」
兄も父のことを考えていたらしい。
勤勉実直を絵に描いたような人で、母を愛し、家族を大事にしてくれた父は、少し酒が入ると、母のことをよく天女だと言っていた。
僕ら兄弟は、何度か父にその理由を聞いたが、ついに教えてはもらえなかった。控えめに言っても、母は天女に例えられるような絶世の美女では全くない。むしろ背が低く、太っていて、丸い。
「天女だなんて最初は恥ずかしかったけど嫌じゃなかった。」
母は父を思い出すようにポツリと言った。
「お父さんとお母さんは小学校の同級生だったの、ここ三保松原近くの小学校でね。でも5年生のとき、親の仕事の都合で、私は転校することになってね。」
「それは知ってるけど。」
お茶を一口飲みながら僕は答えた。
「そのころは気がつかなかったけど、お父さんはお母さんのことが好きでね。でも小学生だから、うまくそのことを伝えられなくて。せめて転校していく美少女の縁の品が欲しかったんだと思う。」
当時を思い出しているのか母は遠い目をして宙を見つめていた。
「美少女?」
兄は赤い目のまま苦笑して菓子器から茶菓子を一つ取り出した。
「息子達には言えなかったのだと思う。私は少しも気にしてないのに。お父さんはお母さんの髪留めを持っていってしまったの。」
「盗ったの?あの父さんが?」
僕は、規範意識の塊みたいな父がそんなことをしたことに驚いた。
「盗ったと言われればそうだけど、そうじゃないのよ。幼くて私への愛情の表現の仕方が分からなかっただけ。」
母は弁解するように言った。
「それで大人になってから同窓会でお父さんに会ったのね。私はお父さんのことはクラスメイトの1人くらいの認識だったけど、お父さん、私の手を握って涙を流して謝って、髪留めを返してくれたの。そんな髪留め、持ってたことすら覚えてなかったのに。」
母は、父に再会した20代の頃を懐かしむように、ひとりでうなずいていた。
「それで天女か。」
兄は納得した様子だったが僕にはまだわからなかった。不思議そうにしている僕に、兄は三保松原の天女伝説を話してくれた。
「羽衣を返す際に舞を条件にするパターンと自主的に返すパターンがあるようだけどな。」兄が付け加えて説明をしてくれた。
「父さんは自主返納パターンか。」
僕が感心していると母は渋い顔をして
「そんな不祥事起こした政治家みたいに言わないで。」
と立ち上がった。
僕は、まあまあと母を宥めながら、ふと疑問に思ったことを口にした。
「それだったら、母さんは父さんと結ばれず、天に帰らないといけないんじゃないの?」
僕がそう言うと母は笑顔でこう言った。
「母さんの方が天女よりいい女だからね。父さんの良さに気付いたのよ。」
控え室の窓の外、三保松原の松林の先に駿河湾が静かに広がる。富士をシルエットに潮風がゆるやかにカーテンを揺らし、松の香りがほんのりと漂う。
その潮風の向こうで父の笑顔が揺れている、そんな気がした。