第六話 地図とスーツと知らない匂い
諒一には、この夏のささやかな楽しみがふたつあった。
ひとつは、テレビのサブスクで観るJリーグ。
地元のチームは弱小で、なかなか勝てなかったけれど、スタジアムの歓声や選手の熱いプレーを画面越しに追いかける時間は、暑さも忘れさせてくれる。
もうひとつは、図書館にこもって“本の虫”になること。
小説や歴史の本、古地図に鉄道の資料――気づけば夕方になっていることもあった。
なにより、ひとたびページをめくれば、時間も空間も自由に越えられるあの感覚が好きだった。
そんなある日。
いつものように自転車で図書館へやってきた諒一は、ちょっとした“異変”を目撃する。
カウンターの奥、地図資料室の前。
見慣れた女性司書――穂積さんが、なにやら険しい顔つきで誰かと口論していた。
その相手は、場違いなほどきちんとしたスーツ姿の中年男性。
ビジネスマンというより、どこか“公的”な雰囲気をまとったその男は、静かに、だが強い口調でこう言っていた。
「これは、都の歴史的資料保存の観点から見ても重要なものだ。我々が一時的に預かることで、むしろ保護の精度が――」
「何度も申しますが、地図類の館外持ち出しは禁止です」
穂積さんの返しも容赦なかった。
「しかもこの資料は、市民寄贈の一点物。万一、紛失でもされたら取り返しがつきません!」
「保管責任はこちらが負います」
「ルールはルールです!」
にらみ合いの応酬。
まるでサッカーで言えば、ゴール前の混戦状態。
その雰囲気に、通りすがる人たちも少し足を止めていた。
諒一は、柱の陰からこっそり様子をうかがっていた。
“地図”というワードに、思わず耳がピクッと反応していた。
(もしかして……あの幻の支線の地図か?)
数日前、自分が閲覧した古地図のあの“赤鉛筆の線”。
裏に貼られた古新聞。
事件の名前――“第八倉地建設”。
まさか、あれが“本当に”誰かにとって価値ある資料だったのか?
今までの自由研究のノリが、ひとつの境目を越えたような気がした。
結局、司書の毅然とした対応によってスーツ男は手ぶらで図書館をあとにすることになった。
不機嫌そうにネクタイを直しながら出ていく後ろ姿を、諒一は息を潜めて見送った。
(……どんな地図なんだろう?)
あらためて、諒一の中に火が灯った。
大人たちが欲しがるほどの“何か”が、あの地図に隠されている。
自分の自由研究が、とんでもない扉を開いてしまっているのかもしれない。
「よし……」
諒一はもう一度、あの資料棚の前に立つ。
自由研究のつもりで始めたはずの冒険は、今や、現実の謎を追う小さな探偵の物語になりつつあった。