第二十一話 あの日の秘密基地
「――オジキ!」
その声に、梨本祐三の足が止まった。
夕刻、議員会館の通路。
背後から呼び止めたのは、神谷五郎だった。
その呼び方は、いつしか五郎が親しみを込めて使うようになった愛称だった。
若き日、周囲が「御曹司」と遠巻きに見ていた神谷組の跡取り。
だが五郎自身は、それを気にする素振りも見せず、黙々と事務所の裏方仕事に打ち込んだ。
その陰には、梨本と、妻の香の**“育ての情”**があった。
「――あの頃、オレの家のことを引き合いに出して、連中は好き勝手言ってた。
でも、本気でオレに仕事を教えてくれたのは……オジキと、香さんのふたりだった。
今でも感謝してるし、心から尊敬してる。上司に恵まれたって、本当にそう思ってる」
梨本は目を伏せたまま、黙って聞いていた。
だが、五郎の口調がふと変わる。
「……だけどな。」
その声には、長年封じ込めていたものが滲んでいた。
「あの日のことは、今でも鮮明に覚えてる。」
梨本がゆっくり顔を上げる。
五郎は視線を合わせず、どこか遠くを見るように続けた。
「……あの閉鎖された変電所にはな、フェンスに破損箇所があった。
ガキだったオレたちにとっちゃ、まさに秘密基地ごっこの聖域だったんだよ」
空気が凍った。
梨本の胸の奥に、言いようのない寒気が走る。
「見ちまったんだ。オジキが、男を運び込んでるのを。
作業服も来てねえ。施設の電源も切れてたはずなのに……」
五郎の語尾は消え入るように弱まったが、その瞳には揺るぎない確信が宿っていた。
「……オレは、あのとき何もできなかった。何も言わなかった。
でもな……今でもあれは“事故”なんかじゃなかったって、心の底で知ってるんだよ」
梨本は言葉を失った。
動揺を悟らせまいとしたが、肩がわずかに震えていた。
「……何が言いたい?」
やっと絞り出すように口を開いたその声に、五郎は振り返らなかった。
「オジキなら、何を言いたいか、わかるだろ。」
「千田先生の顔に泥を塗るようなことをするなら――たとえオジキでも、オレは許さない。」
一拍の沈黙。
「……自首して、全部話してくれ。
それが、あんたがオレに教えてくれた“筋を通す”ってことじゃなかったのかよ」
そう言い残すと、五郎は一度も振り返らずに、踵を返して歩き去った。
梨本は、その背中をただ見送るしかなかった。
声をかけることもできず、追いかけることもできなかった。
それから一週間後の日曜日の朝早く、
神谷五郎のもとに一本の連絡が入る。
「――梨本祐三が、自宅マンションの一室で首を吊っていた。」
目を疑った。
あの“影の番人”とも言える男が、自ら命を絶ったという事実を、
どう受け止めればいいのか、すぐには答えが出なかった。
五郎は無言で受話器を置き、窓の外を見つめた。
――これで、すべてが終わったのか。
――それとも、本当の“はじまり”はここからなのか。
答えのない問いだけが、静かに胸の奥に残った。




